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無知の偉大さに気付いた人達

ヘルダーリンその他の詩人や、シェリング、ニーチェの哲人たちは詩の心を持って永遠の魂の故郷を探し求め、それへ接近していきました。しかし非合理というオチャメとか、無知の深淵という意識構造を組み立てることは出来ませんでした。無知になろうとする大それた考えが彼等の中から湧いてこなかったのですが、詩と神話は真理の近くにあるという事は知ってはいました。
ロシアのトルストイとドストエフスキーは、無知という宝のあることに気づきましたが、それ以上、アホになる方法がみつかりませんでした。老子は「聖なるもの、賢なるものにあこがれてはならない。自然の奥なる無知の深淵に帰れ」と言いました。このように無知の偉大さを知っていた人達もいたのです。
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| エッセイ | 11:34 | TOP↑

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エジプトの神話の船

では非合理性、神話性、これを身に付けてエジプトの謎の中へ飛び込んでいきましょう。知性を捨てて、無知の船にのる無知の旅人になりましょう。エジプトの太陽神ラーは天の河を船にのって運航するという神話の中に見出されます。ラーは宇宙の秩序を司り、マァートはその娘であり、ラーから直接放射されたものでありました。そしてそのマァート女神は天上の河を渡る太陽の乗る船を守る役目でした。
エジプト人は二つの河を理解していました。昼と夜の河です。そこを太陽が進むのです。日出ずる国と日沈む国、即ち生の国と死者の国の物語です。彼等は永遠の生命は、神話という非合理の中から得れると考えていました。神話は彼らの生命の母であり、生命の科学の母でありました。そして太陽神ラーはまた生命の世界の審判者であり、月の神オシリスと共に、死者の裁判を審査するものでした。
マァート女神は船の先頭に立ち、天の河を渡る船を見守りながら船を進めます。船の行く手に現われる悪魔をやっつけていきます。太陽はその船に乗り、昼の河の天の河を渡り、地の河に隠れていきます。その太古につくられた神話の船が現に見つかっています。それは当時につくられた船で、それが発掘されたのです。もう一つ西にあるはずの船も、科学の力によって、そのある位置が見つかっています。

| エッセイ | 10:52 | TOP↑

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エジプト文明の翼の法

エジプトの文明には、このように分らぬ雄大なものが、ここかしこにあります。鷹の姿であったり、猫であったり、蛇であったり、羽毛であったり、猿であったり、羊の頭を持つ男性であったり、強力な夢と空想力が自由自在に人間の中に組み入れられています。これがエジプト研究者たちを迷路の中に迷い込ませるものです。中でも注目すべきは、羽毛であり、翼の羽ばたきであります。その翼の羽ばたきによって生命を甦らせるという、そういう神秘な物語が含まれています。しかしこの謎の解明に関しては最後で説明することにして、ここでは太陽神ラーやその娘マートについて話をおしすすめ、死の審判とかカバ信仰の偉大な謎について述べていきます。
そこでエジプトを知るうえで、基本的な心構えを身につけておかねばなりません。それは前にも述べたようにエジプト人にとっては王朝がどうであったとか、栄える、亡びるといった政治的な変遷を重要視するような歴史観などもっていなかったという認識、そんな興亡は永遠の流れの中の一瞬の出来事であり、気にも留めていなかった。彼等にとって重要な事は、つねに空想力を翼とする永遠の生命の生成という事でした。
それに比べて現代人は、栄えることすら夢を見ることも出来ない社会情勢の中に住んでいます。なぜそんな希望のない社会をつくってしまったのでしょうか。それは太古を忘れ、知的に眼の前の欲ばかりに走ったからではないでしょうか。夢をもっても、間違った夢をもったからではないでしょうか。無知をバカ者と見下げ、知性の世界にばかり走ったからではないでしょうか。感覚を見下ろし、知性を見上げたからではないでしょうか。頭は悪くても、体全体で感じとるとか、肌で感じとるといった神経が低下したからでしょう。

| エッセイ | 20:17 | TOP↑

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ネティール讃歌

ネティール讃歌
(1) 少年netri 永遠の継承者
    自らを生みだし 自ら生を与えるものよ!
(2) 我が心に偽ることなく おお 汝神以上のnetriを崇拝する
    我はNeterとなれり
(5) 我は鷹の姿netriにおいて飛翔するなり
(6) 我はピュアーとなり ネティール(Neter)となり
    精霊となり 我は雄々しく魂そのものとなれり

この詩節から想像できることは、ナイルをエジプト人は宇宙の母として、そこに感じ、更にそれを感じている子たる人間自らを、その化身ネティールと見ているかのようです。そこにインド人のとらえたブラフマンとアートマンの関係を見ることが出来ます。インドではブラフマンを大我と見て、人間を少我と見ています。
これは人間という小宇宙の中に大宇宙の本性を宿しているという考えです。エジプト人の考えた少年netriはインドで言うところのアートマンである……と見てとれます。
永遠の継承者アートマン(小我)は、NETER(人間)となったということ。そしてその人間(NETER)の中に宿るアートマン(大我の精霊)は、鷹の姿となって宇宙中を駆け回る。おお雄々しい魂netri(アートマン)よ、という詩だと思います。
この底深い神秘の深淵をのぞき見せられる時、宇宙と人間の関係の妙なるドラマを見事に音楽化した、この詩の力を見せつけられます。太古の人々は、このような限界をもたないイマジネーションの持主でした。現代人の心はせいぜい、この太陽系をぬけ出す夢ぐらいしか持っていません。
遠くにある星雲群を望遠鏡で覗き見るでしょう。しかしその大宇宙を我が飛翔の庭とするその大胆な空想力は鷹の姿netri(アートマン)となり、精霊となって宇宙の外まで飛翔することが出来るでしょうか。その光速の翼は、線と角度の生命元素の中心を貫いて飛ぶでしょう。エジプト人は神学的詩人でした。そしてそれと同時に芸術作品そのものでした。角度の中を光速以上のスピードで飛んだのかも知れません。幾何の線上を横切って。

| エッセイ | 22:38 | TOP↑

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ナイル讃歌

「ナイル讃歌」

彼は白い王冠をいただく石像として
彫刻されるはずがない

この一節から始っています。これだけでも大したものです。どこの文明でもすぐ神を彫刻してしまいます。しかしエジプトでは最高なるナイルの神に対して彫刻など夢にも思えなかったのです。ここにこそ本当の真理に触れさせてくれるものがあります。知ではなく、超感覚で生きたエジプト人のすごさが分ります。身ぶるいする思いです。

彼は眼で見られるはずがない
礼拝すら彼になされるはずがない

ますます、すごくなってきました。礼拝すら彼になされるはずがない――すごいですね。息詰まる思いがします。

ましてや 供物が彼に供えられるはずがない

これは他の国にある「おお偉大な神よ 我らに恵みをたれ給え」
というのと大分程度がちがいますね。

彼はいかなる聖域においても見る事は出来ない

これもすごい事です。ここでは聖域を超えています。人間の考えを超えています。
知性の範囲を越え、超空想力の世界を旅しています。

彼はどこにいるのか 知ることすら許されていない
彼は文字のほどこされたいかなる神殿においても 見られるべきものではない
どのような居住地も 彼を留めておくことはできない
彼の心の導き手として行為するものは誰も存在しない

これはインドでいう宇宙の根源(ブラフマン)の存在への哲学思想と類似しています。神という人格を持たない非人格神、このナイルはナイル神というより、神という名称のある物を超えています。「ナイル」そのものが、神話の実在であったのです。――この表現出来ない宇宙の心、宇宙の相、宇宙の現在の生命を、詩の力と言語をもって十二分に説明することの出来たその言語のすばらしさ、言語の持つ生命力、そしてそれに乗っかって飛翔する豊かな空想力と詩そのものを味わってください。
エジプト人にとってはナイルは、宇宙そのもの、宇宙の根源そのもの、エジプト人そのものであったのです。ところが残念なことに、そのナイル神の彫刻像が出来たのはエジプトにおける王朝の衰亡期――最後の王朝の時でした。
エジプト人の神話信仰には、このナイルへの信仰以外に太陽神ラーへの熱烈な信仰があります。それもナイルと同じく死と神話の力の坩堝の中に投げ込まれる思いのするものです。この神話を語る前に一つエジプト研究で学者たちを困らせているネティールという言語があります。そこでこのネティールの讃歌の中から下記の者を選び、説明することにしました。

| エッセイ | 21:53 | TOP↑

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