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オチャメ踊りの謎が解けた

手拍子をうつのも オチャメ踊りも

宇宙創造の踊りだ

そのたびに 物がつくられているのだ


躍動すると物がつくられ 存在の保持が

なされる


手拍子をうって オチャメ踊りをせよ

木も 石も 花もそれをしているのだ


そして人と人が

右と左の手をうって 手拍子をうって

オチャメ踊りをするのだ 

これ以外にないのだ


ついにオチャメ踊りの謎が解けた


左手は無であり 右手は有である有

詩の自己呼吸は 手拍子となる


オチャメ踊りはそれだ

詩こそブラフマンの実態だ


左右の翼のはばたきも

この宇宙創造の自己呼吸に

他ならなかったのだ


2004.04.26.
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| 2004年 | 16:14 | TOP↑

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創造者なる詩の呼吸

詩とは自ら生きてあるもの

しかもそれは 中性である

中性は踊る

呼吸もそれだ


汝等も創造者である

別に宇宙を創る創造者という

事ではない

自己を創る創造者である


人は全てを断念する事によって

詩の本性を知るに至る

すると物質宇宙が

無用のものとなるのである


我々は どう自己実現せねばならぬという

ところから

野心とか求道とかがやってくる

例えば統一を考える

……等々である

何とか自己をまとめようとする


その自己というものも断念した時

詩があらわれ それとなる

つまりブラフマンとは 詩そのものの

ことだったのである


それから 分って来たのは

ブラフマンは詩であること

そしてその詩は 呼吸し

生きてあるものであるという事である


詩とは自らが 生きてあるものであったのだ

それが分った

それは全てから独立しているものであり

宇宙にはそれ以外に 何もないのだ


それが分ると求めるものが

何もなくなるのである


そしてその呼吸に 非平衡系がある

それによって 躍動 興奮がおき

力とエネルギー

その他が創造されてくるのだ


それは半導体的なものであるとも

言える

そこから創造がおきて

運動 踊りもおきているのだ


自らが創造者たれ

宇宙そのものの創造者たれ


2004.04.23.

| 2004年 | 16:12 | TOP↑

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メビウスと円に宇宙を見る

宇宙とは 存在するものである

では存在とは何か

存在とは 存在するものである

その存在するものとは何か

それは 無か 有か


それは 無でもなければ 

有でもないものである

そういう存在するものがある


それは 中性子のような存在である

有でもなければ 無でもないもの

それが中性子である


宇宙の初めに何があったかを尋ねるのは

愚である

宇宙には初めがない


宇宙とは 存在してあるそのものの事である

宇宙は在るから それを尋ねるのである

尋ねる人間もあるから

問題提議の内に入るのである

在る者同志が 向い合っているのである


宇宙は別に向い合っているのではない

人間さまが 向い合っているのである

そして無駄な長い時間を 費やしているのである


人間自らが 在る者 存在者の一つである

仲間を調べるより

自分自身を調べた方が賢いのでは

ないか


では自分とは何か 

それは存在物である

点存在とは何か

存在するものは 時間の上にのっかっている

存在するものは 距離の上にのっかっている


では 時間とは何か 距離とは何か

それらも 在るものである

となると在るものは 何を 根拠として

いるか

それは 点を根拠としているのである


では 点とは何か

点というものはあるのか

……いや 点とは在るのに 無いのである

線と同じだ


それらは無から現われたのか

いや無から何も 生れてこない

これはヘーゲルも言った通りである

シェリングは 有は無から生れたと説いて

ヘーゲルにやっつけられてしまった


しかし老子も同じように 無から有が

生れたと言っている


もしかすると 無も有もないのかも知れない

あるのはただ 存在というものが在るだけ

なのかも知れない


雲の上に浮いているようなものだ

あるかと思っても 姿が変わる

これは有の内に入らない


変るものは変るものであって 有ではない

では変わるその存在物は 何なのか


それは雲のように 浮いている何かのような

ものであり

有でも無でもないもの

しかもそれが巡環していて 永遠である


その永遠なるものを∞メビウスで見てみよう

円でみてみよう


それらには端がない

端のある物は 有とか無の部類に入る


しかしメビウスの図式を見てみよう

そこに一つの交叉する点がある


円を見てみよう 直径と円周の交叉する

所がある

交叉する所もあるし 距離のある直径と

距離のない物の同居がある


これは一つの遊戯であり オチャメの

遊びである

存在物はすべてこんなオチャメの

遊びを 内在しているのか

それとも 遊戯そのものか

オチャメそのものか


有でも 無でもなく オチャメさん

そんなものが 存在というものかも知れない


存在は中性子を骨子として存在している

のであると言えるのかも知れない


すると存在は 進化するものであり

進化の骨子に中性子的な

法則に従わねば進化しない

のかも知れない


そうでないと存在の意味もないの

かも知れない


そうだとすると 人は永い間

有と無を 論じる事に時間を

ついやし過ぎたのではないか


道徳も宗教も哲学も共に その

線上を 歩んで来たのではないか


何が善で 何が悪かとか

真なるものを その線上でさがし廻って

いたのではないか


そこで仏陀は中庸を説いた

しかしその中庸というのは どんな

ものだったのか

有と無 善と悪の中間という意味の

ものでなかったか


もし中庸を宇宙存在の骨子としたい

ならば

それは有でもない 無でもない 

しかも有であって 無である

無であって有であるといったような


中性子的なものならば

まともなものとなろう


1は1であって 2になり得る

2は2であって 1にも0にもなり得る

といった

巾の広い力を 仕事を 働きを

もっているもの

もっているもの

円やメビウスのように 距離のある物と

ないものとの交わり


仲良く行こうというオチャメな遊び

そのもの

それが1であり2であり

それが数字の骨子である


科学 哲学 宗教をよりよく

高貴にするもの

それが中性子である

いわゆる点である


点がおどると 線となり

線がおどると 平面となり

立体となる

そのおどりなくしては

この宇宙は出来てこなかった

のである


無心のおどりは

進化と存在の骨子である


無心 無知を意識すると

手が上ってくる


それは 神聖なる門に入る

姿であり

同時に知を投げ捨てて

無心になった姿である


手が自然に 顔の高さまで

両方共あがる


2003.12.31.

| 2003年 | 23:28 | TOP↑

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原始の振動の世界

ものを言う必要は何もない

ドドドン ドドドンの

はやしだけで十分


このはやし以外の文明が

出来上ってしまった

そして 文字と言葉の文明を

つくってしまった


人類はそれから地に落ち

悩みを持つ生き物となってしまった


ものを言ってはダメ

文字を書いてもダメ

それは 間違った文明である


初めに文字も 言葉も無かった

「振動」だけがあった

リズムだ 音楽だ


音楽と言う学問はすばらしい

それは原始の言葉である

原始には振動する音だけがあった


文明人は言葉 文字をつくった

そして宇宙と人間の

調和した「振動」の世界を

地に落としてしまった

悩みもそこからおきた


人類は今だに その暗闇

即ち 間違った文明から

ぬけられなくて

文字を使い 言葉を使っていて

その間違った文明から

ぬける術(すべ)を発見できず

悩むばかりである


2009.10.11.

| 2009年 | 22:55 | TOP↑

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羽毛の舞 2

羽毛が飛んでいる

柔らかい羽毛が

何の抵抗もなく

やわらかく それは飛んでいる

透明な角度をもって それは

飛んでいる


そこにオチャメの線と 角度がある

人間の知識の林を超えた

角度の向こうに そんなものがある


視線をそこに向けよ

ワシの一線よ 飛べ


天上から舞い降りる白紙の舞い

柔らかく軽い羽毛の舞い

その躍動の中へ 飛んでいけ


1997.01.02.

| 1997年 | 08:40 | TOP↑

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