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気息のみがある

平和を求めている者には平和はこない

求めがあるところ 即ち受けのあるところに

それは来ない

受けのない所

そこにブラフマンそのものが立ち上る


受けがないとは何か

それは現象世界の形相をとること 

つまり存在事物の形をもとり除くのである


ブラフマンは宇宙を呼吸する一者なるものである

その一者が自らを呼吸するのである

それがブラフマンの公式 すなわち

1-1=0 0=1-1


1という数が消され 0だけが残る

一者さえもそこでは消される

一者自らが 一者に吸い込まれるのだ

そして再び 一者が吹き出される 

ここには気息があるだけである 


そこには距離のない世界 

即ち時間も むろん相もない世界がある

形も消されるのである


ブラフマンなる一者があった 

そこから夜の静けさも 波打つ大洋も

出来た


しかし一者は

それを創ろうと意志したのではない

彼は呼吸するのみであった


そこで創造するという意志は消された

美感とか知情意は そこにはなかった


ただあるものだけがあった 

それは気息である


2004.02.13.
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| 2004年 | 09:48 | TOP↑

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お手上げは原始の言語である

お手上げは 原始の言語

即ち神話


神話とは両手を上げて

知恵の世界から 肉体の真理の世界

即ち無知の踊りの世界に

突入する


これが神聖という真理の

入口に入った時の言語なのだ

両手を上げる事は

原始の真理の踊りの形である


無知の深淵は このような

言語をもっていた


踊りの元型は お手上げである

無心の踊りがあった

それは 無ではない

無を感じとることではない


踊り それはオチャメの踊り

宇宙はオチャメの踊りであった

中性子……点である


2004.02.03.

| 2004年 | 22:20 | TOP↑

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無心の勝利に手が上る

無心の踊りは

進化と存在の骨子である

無心 無知を意識すると

手が上ってくる

それは神聖なる門に入る

姿であり

同時に知を投げすてて 無心になった姿である


手が自然に顔の高さまで

二つ共上がる

俗に人々が「お手上げ」という事を

言うではないか

又降参する時も 両手を上にあげる

ではないか


これは 自力が無くなった 限界であると

自力を捨てた時に 両手を上げて無力

無心 無抵抗となる

そのように 無心無知といったような

知力 知恵 思考に限界ができて

手を上げる事である


そのように 人は両手を上げて

万歳をするのである

万歳とはこんな勝利の時をいう

即ち神聖なる門に立った時の

事である


無心を意識して 無心になれて

無心に入った時

人は神聖への門に立つのである

その時人は 両手を上げた姿勢をとる


また様々な舞踊でも

両の手が高く 眼の高さまで

あがるのである

それが踊りの元型である

完成の印である

自然に人は確かなるものを

すでにもっていたのである


2004.01.18.

| 2004年 | 22:19 | TOP↑

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中庸を解き明かす円とメビウス

宇宙とは何か

宇宙とは存在するものである

その存在するものとは何か

それは無か 有か

それは 無でもなければ 有でもない

ものである


そういう存在するものがある

それは 中性子のような存在である

有でもなければ無でもないもの

それが中性子である


宇宙の初めに何があったかを尋ねるのは

愚である

宇宙には初めがない

宇宙とは存在してあるものの事である

宇宙は在るから それを尋ねるのである


それは問題提起を引きおこすのだ

在る者同志が 向い合っているのである

宇宙は 向い合っているのではない

人間の心が向い合っているのである

そして宇宙とは何かと

今まで問いつめて来たのだ

そのように人間は 無駄な長い時間を費やして

来たのである


しかし対象物を調べるより

自己自身を調べた方が賢いのでは

ないか

では自分自身とは何か それは存在物である

では 宇宙も人間も含めて存在とは何かを

尋ねた方が賢い


さて存在とは何か

存在するものは 時間の上にのっかっている

存在するものは 距離の上にのっかっている

では時間とは何か 距離とは何か

それらも在るものである

となると在るものは

何を根拠としているか


それは点を根拠としている

では 点とは何か

点というものはあるのか

いや点とは 在るのに無いのである

線と同じだ


それらは無から現われたのか

いや 無から何も生れてこない

これはヘーゲルも言った通りである


シェリングは 有は無から生まれた

と説いて

ヘーゲルに批判された

しかし老子も同じように 無から有が

生れたと言っている


もしかすると 無も有もないのかも知れない

あるのはただ存在というものが在るだけ

なのかも知れない

雲の上に浮いているようなものだ

在るかと思っても 姿が変わる

これは有の内には入らない


変るものは変るものであって 有ではない

では変るその存在物は何なのか

それは雲のように浮いている何かのような

ものである


有でも無でもないもの

しかもそれが 巡環していて永遠である

その永遠なるものをメビウスで見てみよう

円で見てみよう


それらには端がない

端のあるものは

有とか無の部類に入る


しかし メビウスの図式を見てみよう

そこに一つの交差する点がある

円を見てみよう 直径と円周の交差する

所がある

交差する所もあるし 距離のある直径と

距離のないものの同居がある


これは一つの遊戯であり オチャメの遊びである

存在物はすべてこんなオチャメの

遊びを内在しているのか

それとも 遊戯そのものか

オチャメそのものか


有でもなく無でもなく オチャメ

そんなものが 存在というものかも知れない


存在は中性子を骨子として 

存在しているのであると

言えるかも知れない


すると存在は 進化するものであり

進化の骨子に中性子的な法則があり

それに従わねば進化しない

のかも知れない

そうでないと存在の意味もないの

かも知れない


そうだとすると 人は永い間

有と無を論じる事に時間を

費やし過ぎたのではないか


道徳も 宗教も 哲学も 共にその

線上を歩んで来たのではないか

何が善で 何が悪かとか

真なるものをその線上で探し廻って

いたのではないか


そこで仏陀は中庸を説いた

しかしその中庸というものはどんな

ものだったのか

有と無 善と悪の中間という意味の

ものではなかったか


もし中庸を宇宙存在の骨子としたい

ならば

それは有でもない無でもない しかも

有であって 無である

無であって有であるといったような

中性子的なものならば

まともなものとなろう


1は 1であって 2になり得る

2は 2であって 1にも0にもなり得ると

いった働きをもっているもの

円とメビウスのように 距離のあるものと

ないものとの交わり

仲良く行こうというオチャメな

遊びそのもの

それが1であり 2であり

それが数学の骨子である


科学 哲学 宗教をよりよく

高貴にするもの

それが中性子である

いわゆる点である


点が踊ると線となり

線が踊ると平面となり

立体となる


その踊りなくしては

この宇宙は出来てこなかった

のである


2004.01.10.

| 2004年 | 22:17 | TOP↑

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光とは踊りである

光が斜めに走った

宇宙はそこから創造されたという

リグ・ヴェーダの言葉の謎が解けて来た

これは一大発見である


なぜ光が斜めに走ったら

創造が起きたのかが

今まで分らなかった


そのリグヴェーダの謎が分って来た

光とは「踊り」であるからである


2004.01.01.

| 2004年 | 22:10 | TOP↑

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