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「やさしさ」と「遊戯性」とはちがう

「やさしさ」「親切」は 孔子の用語である

宇宙と人間の本性は 「やさしさ」ではない

「遊戯性」(オチャメ)である


そのオチャメを忘れている人間は

儀式という言葉を唱えて

引き出さねばならないのである


悟りも何もいらない 

本性さえ見つければよかったのである

それが啓示によって 知り得たのである

決して自分が見つけたものではない


連鎖の中には 合理と非合理が遊戯している

それが存在の真理である

もし真理という言語をもちいて

それを探すならば遊戯 即ちオチャメこそ

真理である

それが自己そのものである 


故に儀式なる言語を唱えて

それを その忘れ切っていたものを

誘発するのである

それだけが求道の結果

その金の細かい通しに 拾い上げられたものだ


永い歴史のあやまちをつくり

それに育て上げられて来た自己を

歴史的にカムバックしなければならなかった


それに50年の歳月がかかった

勝利は天の手助けからやって来たのである


2003.12.22.
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| 2003年 | 21:59 | TOP↑

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儀式は遊戯性を誘発する

神話は言語なき言語である

すると言語を持たない人間に

アホの顔が出てくる

それは

知識の世界をもたないという知の顔だ


言語でない言語が神話なら

何もかもあるもの 石ころでも

神話である

すると世界は神話に

囲まれているのである

それが響だ!!


神話とは 言語なき言語

連鎖の遊戯性 対話である


ところがその真理なる遊戯性が

いつも人間から忘れさられている故に

それを誘発する為の

「儀式」という言語でもって

自己に言い聞かせる必要がある


人と人が会った時 人と人の関係の中で

「儀式」と心の中でつぶやくのである


すると遊戯性が誘発され(やさしい)行為が

遊戯的に出てくる

このやさしい行為は

孔子のいう やさしさとか親切ではない

遊戯性のあるやさしい行為なのである


儀式という言葉を 常に自分に言い聞かせ 

心の中でつぶやくのだ


なぜなら人間は

永い間の間違った歴史の中で

その遊戯性を失いきっているからである

言語が出来てからそんな悪い人間に 

なりきってしまったのだ


2003.12.22.

| 2003年 | 21:53 | TOP↑

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ゆれ

ゆれ動いている事は 

意識も動いている事であり

瞬発力がそこにある 


それで体をゆさぶっていると

オチャメという意識も 出て来る

「やさしさ」という行為が

すぐ出来てくる



動きを止めると 意識まで止まり

行為も 遅れてのびのびとなる

その為 やさしさが今 出ないままで

硬い自己で終ってしまうのである


だからいつも 体をゆさぶっている事が

肝腎である

これも一つの儀式だ

儀式なくして神話はない


神話には儀式がともない 

創造力も 幻想力も

そのゆれをとめると 止まってしまう


点とは いつもゆれ動いているもの

である

また点とは ゼロではない仮の現われとしての

オチャメのゆれをもっている

それが点である


線の世界にいると 意識がゆれを失っている

それは動くその点にいないからだ

響とは そのゆれの事かも知れない


オチャメはゆれそのもの

創造と幻想そのもの


体を少し ゆり動かせておけ

それがオチャメ踊りの

消えない灯である


ゆれは 儀式である

ゆれは 詩と神話の儀式である

ゆれは 点である

ゆれは 詩である 神話である


点はいつもゆれ動き 燃えている

ゆれは 人間の一万年の凍りついた魂を

溶すものである


点は 暖かいものの根源である

点はそのゆれを引き出す

ゆれは 宇宙のすべてである

宇宙は常に ゆれている

人間だけがゆれを忘れて 凍りついている


現代人は点に 帰らねばならぬ事を

ゆれねばならぬ事を 見つける事が出来なかった

南太平洋の住民達はいつも体を

ゆり動かしていた

一万年前の太古の人間がそこにあった


彼らは 生れながらの詩人であった

神話そのもの 点そのもの

宇宙そのものであった


「ゆれ」こそ永遠の儀式である

それを継承する者となれ


2003.11.29.

| 2003年 | 21:01 | TOP↑

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点の幻想力

点はオチャメの踊りであり

宇宙意志がそこに含まれている


そのオチャメ踊りの中から

幻想力がつくられ

その幻想で 他界の音と映像を

つくる事が出来る


宇宙のすべての存在は

オチャメ踊りという詩をもっている


詩とはオチャメ踊りを 内蔵したものである

神話はその詩が儀式化された

ものである


太古の人はいつも詩と神話その

ものであった

現代人は時間と距離の中に

いるが故に

点を 詩を 神話を その本性を

忘れてしまったのである


太古人はオチャメ踊りの

もえる炎であった


現代人は 点を追い出し

その炎を消してしまった


即ち幻想力を

失ってしまったのである

だから幻想力で見える映像も

音も聞く事が出来ないのである


ただ 時間と距離の中にある映像を

見ることが出来

音を聞く事が出来る人間になって

しまったのである


幻想力は 時空を超えた世界の

映像と音をつくる事が出来るのだ


2003.11.24.

| 2003年 | 23:15 | TOP↑

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幻想の世界に生きていた太古の人

幻想の世界は 時間の中にない

幻想の世界は 波動の世界であり

響は波動をつくる


響の世界は 幻想をつくる


「甘え」という響は

幻想という時間をこえた世界に入り 

神通力の世界をもつくる


現在の人々は       

記号的な言語に落ちる

これによって時間の中に入ってしまい

響を失ったのである

そのため現実的になり 幻想を失い

現実の不自由の世界に住まわざるを

えなくなってしまった


太古の人々は

響の中に住んでいて

その響が後に 言語として現われた

それがサンスクリットである


甘えは幻想をいざない 

無時間で自由な世界

神話の世界をつくりだす


「甘え」は響そのものであり

幻想の中に 

人を住まわせて来たのである

これは時間を越えている


その「甘え」とは何なのか

単なる甘えとか やさしさは響をもたない

又単なる響は 単なる響であって

「甘え」を基にもっていない


例えば響ある言語と 響をもたない現代人の言語

との違いである

現代人は 響をもたない言語を

使っている

これは時間をつくり 時間の中にあって

人は生きている


だから時空を越えた世界 いわゆる「神通力の世界」に

いないという事である


オチャメと甘えは 同じものであった

自己の知力を溶かす蜜のようなものである


神通力というのは

時空のない世界の事である

しかもそれは 幻想力の世界であり

その幻想力も 単なる幻想でなく 

時空を越えた「甘え」から

出されてくる響の幻想である
 

これが自由の世界(神通力)に

住まう人(太古の人)をつくるのである


一口でいえば現代人は 時空の中にいるが

太古の人は時空をもたず 

「甘え」を基にもち

その響を空想力 幻想力としていた


すると神通力は 信仰によって神の恩恵を得て

出ていたが 

神への信仰なくても 出てくるという事である


太古の人には 神も 信仰も 言語も 

時間もなかった

すべてが幻想の 夢の 詩の世界であり 

神話の人間だった


2003.11.05.

| 2003年 | 20:20 | TOP↑

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