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無心の儀式が踊る

宇宙の奥はピュアーだ

ピュアーには 心の要素がない


ただ無心の運動がある

循環という遊戯的な

運動のみがある


人間は 宇宙を体現しようと思えば

心でなく

その無心の深淵に入らねば

ならない


それ故その無心を儀式化

してしまうことだ


人間という生き物は宇宙のピュアーから

出来てきている

それは無心をさらに展開した

ものである


宇宙の循環の遊戯を 更に

心の世界を超えて儀式化するのが

人間の役割である


無心が儀式となると 踊りが始まる

全身が手足をふって 踊り始める

舞だ 踊りだ

これが人間だ

神話とはこれだ


無心を儀式化したのが

人間そのものである

無心を儀式化すると 今までゆれていた体が

手足が動き出し それが

踊りとなる


儀式とは春の発芽のように

踊り出す儀式なのだ

春の芽生えとして現われたものが

生命なのだ


無心が踊りに変化したのが

人間であった 

命あるものたちであった


生命あるものも 生命のない物も

躍動するものとして現われた

月も 太陽も 星々も

踊る者たちである

原子ひとつでも 

踊っている


人間だけが踊りを忘れて

心の世界に囚われている


踊れ 踊れ 

踊りながら宇宙は進化して

ゆくのだ

宇宙の進化を祝して

時空と供に踊るのだ


2003.12.31.
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| 2003年 | 15:40 | TOP↑

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「やさしさ」と「遊戯性」とはちがう

「やさしさ」「親切」は 孔子の用語である

宇宙と人間の本性は 「やさしさ」ではない

「遊戯性」(オチャメ)である


そのオチャメを忘れている人間は

儀式という言葉を唱えて

引き出さねばならないのである


悟りも何もいらない 

本性さえ見つければよかったのである

それが啓示によって 知り得たのである

決して自分が見つけたものではない


連鎖の中には 合理と非合理が遊戯している

それが存在の真理である

もし真理という言語をもちいて

それを探すならば遊戯 即ちオチャメこそ

真理である

それが自己そのものである 


故に儀式なる言語を唱えて

それを その忘れ切っていたものを

誘発するのである

それだけが求道の結果

その金の細かい通しに 拾い上げられたものだ


永い歴史のあやまちをつくり

それに育て上げられて来た自己を

歴史的にカムバックしなければならなかった


それに50年の歳月がかかった

勝利は天の手助けからやって来たのである


2003.12.22.

| 2003年 | 21:59 | TOP↑

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儀式は遊戯性を誘発する

神話は言語なき言語である

すると言語を持たない人間に

アホの顔が出てくる

それは

知識の世界をもたないという知の顔だ


言語でない言語が神話なら

何もかもあるもの 石ころでも

神話である

すると世界は神話に

囲まれているのである

それが響だ!!


神話とは 言語なき言語

連鎖の遊戯性 対話である


ところがその真理なる遊戯性が

いつも人間から忘れさられている故に

それを誘発する為の

「儀式」という言語でもって

自己に言い聞かせる必要がある


人と人が会った時 人と人の関係の中で

「儀式」と心の中でつぶやくのである


すると遊戯性が誘発され(やさしい)行為が

遊戯的に出てくる

このやさしい行為は

孔子のいう やさしさとか親切ではない

遊戯性のあるやさしい行為なのである


儀式という言葉を 常に自分に言い聞かせ 

心の中でつぶやくのだ


なぜなら人間は

永い間の間違った歴史の中で

その遊戯性を失いきっているからである

言語が出来てからそんな悪い人間に 

なりきってしまったのだ


2003.12.22.

| 2003年 | 21:53 | TOP↑

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ゆれ

ゆれ動いている事は 

意識も動いている事であり

瞬発力がそこにある 


それで体をゆさぶっていると

オチャメという意識も 出て来る

「やさしさ」という行為が

すぐ出来てくる



動きを止めると 意識まで止まり

行為も 遅れてのびのびとなる

その為 やさしさが今 出ないままで

硬い自己で終ってしまうのである


だからいつも 体をゆさぶっている事が

肝腎である

これも一つの儀式だ

儀式なくして神話はない


神話には儀式がともない 

創造力も 幻想力も

そのゆれをとめると 止まってしまう


点とは いつもゆれ動いているもの

である

また点とは ゼロではない仮の現われとしての

オチャメのゆれをもっている

それが点である


線の世界にいると 意識がゆれを失っている

それは動くその点にいないからだ

響とは そのゆれの事かも知れない


オチャメはゆれそのもの

創造と幻想そのもの


体を少し ゆり動かせておけ

それがオチャメ踊りの

消えない灯である


ゆれは 儀式である

ゆれは 詩と神話の儀式である

ゆれは 点である

ゆれは 詩である 神話である


点はいつもゆれ動き 燃えている

ゆれは 人間の一万年の凍りついた魂を

溶すものである


点は 暖かいものの根源である

点はそのゆれを引き出す

ゆれは 宇宙のすべてである

宇宙は常に ゆれている

人間だけがゆれを忘れて 凍りついている


現代人は点に 帰らねばならぬ事を

ゆれねばならぬ事を 見つける事が出来なかった

南太平洋の住民達はいつも体を

ゆり動かしていた

一万年前の太古の人間がそこにあった


彼らは 生れながらの詩人であった

神話そのもの 点そのもの

宇宙そのものであった


「ゆれ」こそ永遠の儀式である

それを継承する者となれ


2003.11.29.

| 2003年 | 21:01 | TOP↑

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点の幻想力

点はオチャメの踊りであり

宇宙意志がそこに含まれている


そのオチャメ踊りの中から

幻想力がつくられ

その幻想で 他界の音と映像を

つくる事が出来る


宇宙のすべての存在は

オチャメ踊りという詩をもっている


詩とはオチャメ踊りを 内蔵したものである

神話はその詩が儀式化された

ものである


太古の人はいつも詩と神話その

ものであった

現代人は時間と距離の中に

いるが故に

点を 詩を 神話を その本性を

忘れてしまったのである


太古人はオチャメ踊りの

もえる炎であった


現代人は 点を追い出し

その炎を消してしまった


即ち幻想力を

失ってしまったのである

だから幻想力で見える映像も

音も聞く事が出来ないのである


ただ 時間と距離の中にある映像を

見ることが出来

音を聞く事が出来る人間になって

しまったのである


幻想力は 時空を超えた世界の

映像と音をつくる事が出来るのだ


2003.11.24.

| 2003年 | 23:15 | TOP↑

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