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精とは

精とは確かに我々が知っている花の精とか
樹の精とか 水の精とかいったようなものである

花の精が子供になって子供たちと一緒に遊んだとか
花の精が子供に語りかけたというように
おとぎの国のような話を 我々は見たり聞いたり
書物で読んで知っている

天子が翼を生やして 大人たちの夢や幻に 
現われて来ることもある
或いは 花や樹々の精が大人にも語りかけてくる事もある
これらはすべて動きの世界である

存在事物が存在している
その存在のみをとらえる時 そのものは静の中にあり
停止の世界にある

「樹が一本立っている そこに詩がある」ととらえたとき
それは停止しており動ではない
人間の意識が停止の中でとらえたものである

ところが 人間の心が動き始め
そのものを動きの中でとらえると 神話の世界に入る

生命としてとらえ 動き エネルギーとしてとらえ始めると
動きが始まる
不動と動と考えてもよい

動の世界に入ると
「精」をとらえ始めたのである
そして それらを生きものとしてとらえた時
そこに「精」が飛び出してくる

「精」は人間の心によって
幻的に作り出されたものではない
そのものは生きているのである

それを人間がとらえた時
そのものと 人間との間に触れ合いがおき
そのものが動き始めるのである

1989.12.13. 
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| 1989年 | 12:54 | TOP↑

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宇宙的神話と地球的神話

宇宙的神話と地上的神話とがある
我々が得てして地球的神話の中にいる
地球的神話の中にいると
地球の表面を歩く者としての人間となる

それを基礎としてものを考える
それを基礎として生きる 歩く人間として
そこには 天上には星と空があり
あたりに 鳥 樹 山 空気 机 椅子がある
それが地球的人間である

しかし人間は地球の人間でなく 宇宙的存在である
人間はもっともっと 意識を宇宙にとばして
大きい宇宙に生きねばならない
地球にいるから 墓場の土を考えたり
親から産まれた誕生を考える

人間はそういう 一時の生死の中に生きているのではない
宇宙的に永遠に生きているのである神話も 神信仰も 文明も地球的であってはならない

有であろうと無であろうと 
長であろうと短であろうと 
生であろうと死であろうと 
白であろうと黒であろうと
鳥であろうと人間であろうと 
花であろうと水であろうと
太陽であろうと月であろうと 
真理であろうと不真理であろうと 
そんなちっぽけな事に耳傾けるな
そんなちっぽけな中に生きるな

時間 空間 神 
神々 信仰 歩く人間 飛ぶ人間を超えて
この宇宙を抜け出よ
そこに神話があり 神があり お前そのものがある

神とお前という そんなものはどこにも見あたらないのだ
そこに神話があり 詩があり 花の精がある

それは透明な線によって 織られている
透明な角度によって織られている
お前がそこにある

真理と不真理を越えよ
地球を越えよ 宇宙を越えよ 考えを越えよ

羽ばたけ 大鳥となれ
宇宙を包みこむ者よ
宇宙を動かす者よ

1989.12.13.

| 1989年 | 00:23 | TOP↑

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詩と神話の関係が分って来た(4)

禅味は無と有の境にあって
無の性格を多量にもっている
その神話が もっと全ての物の中に精を見る時
それらは踊り出し透明な遊びとなる

わびさびの透明から 遊びの透明に変わって来る
ダルマ大師の厳しい姿や 乞食の世界や葉隠れの世界でなしに
いつも未来に向って踊り出す輝いた世界がやって来る

ダルマ大師に葉巻をくわえさせてみよ
ダルマ大師をキャデラックに乗せてみよ
両手を上げて踊り出すかも知れない

厳しさや 黒い服装を一生続ける必要はない
禅が乞食姿や 葉隠れの武士道とひっついた所に迷いがあった

無であれ 空であれ 一神教であれ 多神教であれ
先ず人間は 人間存在そのものが詩であり
人間の内なるバイブレーションそのものが神話である

「樹が一本立っている それは詩である」
「松は葉っぱと葉っぱを触れ合わせて子供が産まれる」
「僕はワニの眼の中から生まれた」

これらの言葉を足掛かりとして
詩と神話を実現しよう

1989.11.28.

| 1989年 | 21:37 | TOP↑

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詩と神話の関係が分って来た(3)

神話への旅と詩への旅
禅はそのうち詩への旅の方に近い

空 無 それらの旅は停止の方向に向かう
いわゆる根源の方向である
しかし その根源的なものへの旅は 
行きついた所で降りて来なければならない
いわゆる 人間性の中に

禅味とはそれである
遊びがそこにやってくるのである
透明な角度をもって

では神話の高みとは 何を意味しているのだろうか
それは「詩」である
詩と神話は隣り合い 無と有の接点をもっている

詩は物の有そのもの 存在そのものをとらえ
停止しており 動きがなく 言葉もなく 無の世界側にあり
神話は動きとなり 心となり 有の世界に属する

精も有の世界に属し リンゴや机や椅子が
時には神話と見え 詩と見えることがある

それはそのものの精を見た時 神話が現れ
存在そのものをとらえた時 詩がとらえられるのである

1989.11.27.

| 1989年 | 21:37 | TOP↑

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詩と神話の関係が分って来た(2)

詩の中には生きた動物 生きてそれ自体がとび廻り
走り回れるものが入らない世界である
それは神話の世界に属する

詩は「樹が一本立っているそこに詩がある」ように
動物が入ってこない世界である
動物には心があり その心の入っていない世界である

例えば夕焼け空もそうである
それ自体が詩である
そこに鳥が飛び うさぎが飛び跳ねて来ると神話になる

いずれにも 根源的には不動があるが
現われとしての神話には動がある
いわゆる植物や鉱物以外の生き物が登場すると
動きの世界 心の世界に入り神話となる

そういう意味で 詩は奥なる世界に近い
現われとしての遊びは 神話と手を結んでいる
神話の中に 遊びが秘かに忍び寄っていく
それはリズムをもって
それは 透明な歌と音楽をもって

現われとしての歌と音楽は神話の中で踊りはじめる
木の精 花の精 人間の心の中にある精
「詩」は踊り出てくる

静かに精は 神話を立たしめ
時にはチャメッケのある世界まで展開してしまう
光司が「僕はワニの眼の中から生まれた」
それがこれである

透明な角度は踊り 跳ね 贈り物として
細い線で布絵を織りなす
そこには知識の世界とは違って
理性の弾き飛ばされる世界である

人間の心の汚れは 無論入ることは許されない
神的な者だけが参入出来る世界である

詩の世界も 無論そうであり
そこでは仏陀のいう空の世界 無の世界がかい間見られる
そういうような意味で禅の世界は詩的で 神話がそこにない

人間が神話の世界から遠のいたのは知的になり 
哲学的になり過ぎ 物質欲的になり過ぎたからである

人間が人間たらんとし 人間が自己実現せんとするならば
この神話を持たねばならないのである
いわゆる今は神話の危機のどん底へ
直行しつつある時代である

それは 神への信仰が余りにも権威を持ち過ぎ
神話の位置をくらませたからである
神は元々なくて神話性が 神を創り出したのである
ということを忘れてしまわせたからである

人間喪失 人間喪失はそうした歴史のもとに
底をついてしまったのである

故に人間は自己の本性である詩と神話を 今こそここに
復活させねばならない

ハイネが言っているように 神話を文学の中から
見つけようとすることは逆さまである
文学的空想はむしろ神話の退化に 拍車をかけたのである

神話こそ 人間の精神が持つ根源的言語であり
この神話の深みより汲みとられるべきである
「松は葉っぱと 葉っぱをふれ合わして子供をつくる」
これは現実の世界を越えて 透明な角度をもっている

我々は自己の浅い 現実的な考えで
神話に近づこうとするのでなく
神話の言葉を聞き取る為に まず神話の高みにまで
自己を高めねばならない

それが為に 透明なる線透明なる角度
透明なるリズムの中を旅しなければならないのである

これこそ 我々がどこかに置き忘れてきた一本の笛である
その一本の笛 神笛を我々は吹き続け
旅し続けるのがこの生きた人生である

1989.11.27.

| 1989年 | 14:48 | TOP↑

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