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言語でなく「斜め」

言語はそれを創った時から、人間を相対と悩みの世界に引きずり込んでいました。一言で言えば、見えない陰の悪魔のようなものでした。そうとも知らず人は永い間、哲学宗教その他で人生の苦から逃れる道を様々に探し論じ、頭はそれに従って来ました。
無、無我、愛、親切その他様々な言語が現われ、人間を迷わせて来ました。なぜならそれらは言語の世界だからです。
そこで人間が救われるのは幾何学であるという事を見付けていましたが、それが決定的なものとして、やっと実ったのです。 
人が宝の眠っている部屋の前に立っています。宝の部屋に入る前に鍵がかかっている扉があります。その扉を開けないと、人はその部屋に入ることは出来ない。いくらその扉の前で親切、やさしさ、愛深くなっても部屋の扉は開きません。ところが、今日までの聖者や賢者の教えは無とか空とか無我になりなさいとか、愛とかもっともらしい事を教えてくれました。はたして、そんな事で扉は開くでしょうか。
愛や優しさ、親切、……等は相手の要求を満たすだけの事で、ニーチェの言うようにそれらは弱虫をつくるものだったのです。いかなる言語も言語が心を動かして、その気になっても、弱い人間への付け薬にすぎない。だから説教、教え導く、等につける薬は言語ではないという事であり、聞く人の方もいくら教え通りに心を変えても、扉を開けて宝を得る事は出来ません。
扉は鍵さえあれば開くのです。それは構造学、幾何学です。これを使わない以上、真理にそった人間に成る事は絶対出来ません。人は透明な角度を通り抜けようと思えば、斜めにさえなれば扉が開くように、透明な角度を通り抜けられます。
それは「斜め」は創造の角度だからです。「斜め」なくして運動は起きません。平面上に置かれた球は動きません。平板が斜めになった時です。
創造は運動と同じです。幸せも、喜びも、良き事も創造です。それらを得ようと思えば、心に斜めの角度をもてば自然に造られてきます。人が助かるのは、人が救われるのはここにあります。即ち角度をもてば、DNAが運動を起こし始め、真なる道を走り始めます。以上です。

2008.05.29.
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| エッセイ | 15:39 | TOP↑

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これを世界の人々に伝えよ

一、太古の人々は生れながらにして神学詩人であった。
ある時、賢者が言語を創った。始めのうちは自分の思いを相手に伝えられるので、人々は喜んで言語を使った。ところが一元的人間(すべてと一つ)から相対的人間になってしまった。それまでは、月も太陽も空気も,樹木も花々も全て自分であったのが、言語によって「あなたと私」「あれとこれ」「あちらとこちら」といった様に、すべてが相対的に見、相対的に扱われるようになってしまった。
その時から人間は間違った太古の人と似ても似つかない生きものとなってしまった。そして損と得の人間となり、そうした社会を創ってしまった。……そして生れながらの詩人であったものが、詩人(本当の詩人)でなくなり、神話(人間の本当の生命)すら忘れ去ってしまったのである。
もし人が救われようとするなら、ここをポイントにして、人間を元通りのものにしていかねばならないのである。

二、長い歴史の間に多くの聖賢が現われ、人間の救われる道を研究してくれているが、その分析があくまで知的で、このポイントである「言語によって相対に落ち込んだ」という事に重点を置いて、相対から脱出することを考えた人は、ほとんどない。
むろん無とか無我とか、或いは一元と二元を論じた哲学や宗教があっても、肝腎な「言語によって間違い出した人間」に重点がおかれていない。それ故に、無でも無我でも自己実現でも、真理に合致する事は、ほとんど不可能であったと見てよい。
又それ等、今日までの研究の道には救われる為の道順として「先ず詩人でなければならない」という第二のポイントを発見しておらず、単に合理知の遊戯に終っていた……という事にある。我々人間本来の魂とか生命とか、人間存在というものの追求に深く明らかにかかわっているものに、この詩人である、詩そのものであるという正確な道を自己のものとして、自己を太古の人のような神学詩人に帰さねばならぬという道のある事を知らねばならない。 
ところが詩と言っても、詩人と言っても、何が詩で、何が詩人であり、詩作すると言っても、何をどうする事が詩作であるかを知る人は少ないのが現実である。歴史に登場した立派な科学者や数学者の中には「立派な科学者、数学者になるには詩人でなければならない」と言った人がいたし、現にそんな人が何人かいるのだ。

三、先ず詩とは何か、人が詩人に帰る為に何をどうしなければならないかをを学び知らねばならない。それが分かってくると相対の中をうろついている人間が、元の一元的人間に帰れて来る。……とにかく相対的に生きている人間から、宇宙的一元人間に帰らねばならないのである。
ところが、人間のもっている「欲」と「合理知によって非合理の世界にどっぷりつかっている自己」という迷いから、脱出しなければならない……という問題(ポイント)がある。
例えばデカルトが「我れある故に我れあり」と言った言葉は有名である。これは「迷っている自分があるから、いつまでも迷うのだ」といっているのと同じである。ここで、浮かび上って来る事は、(迷っている人間が真理を見付けられるという事は有り得ない)といういましめであり、(求道する事自体が欲である)という人間の盲点を突いている。この盲点のある事を人はよく考えて、求める事、思考する事をやめねばならないのである。

四、ではどうすれば思考する癖がやまるのか、 そこが難しい問題である。人は瞬刻瞬刻、善い人間になりたい、立派な人間になりたいと願い、そうなる事に努力している。しかしこれも欲であり、思考している事である。
……では一体どうすれば本来の人間らしい人間(詩人)に帰れるのかという事である。その解答として、頭に頼らない事である。例えば「宇宙のゆりかごに揺られる事である」「自然なる知者である肉体細胞のDNAの中に、本当の知恵が刻まれている事を信じ、そこから本当の知恵が湧き出てくるのを待つ」のである。
私はこれを足文明と名付けている。頭文明から足文明という大政奉還しなければならないのである。――すると、すべてが仲間であり、自己そのものであるという事が分かって来る。歌はそこから歌われ、歓びに満ち溢れて来る。

五、人間と宇宙はどういうものから出来上っているかというと、黄金の音の波動と黄金の色彩の波動と黄金の香りの波動から出来ているのである。

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A点の震えと足文明

いつも背骨のA点に意識を集めておれば、霊的に震えの体験を得ると申しております。知力が神知にすこしずつ近づく度に、A点が霊感的に震えます。ただの知識と霊感的(或いは神的)知識の二種類があります。A点の震えるのは神的な知識(意識)に触れた時です。
特にA点の震える時は、瞬間という時間の中に入った時です。本当の知恵は、この瞬間の中から顔を出して来ます。だから瞑想する時は瞬間をつかむ訓練をして下さい。やはり瞑想という段階を通る必要はあります。
A点に意識を集めて瞑想をして震えるようになったら、次は足に意識を集めて瞑想して下さい。するとどんな事が起きるか経験してみて下さい。知恵でない知恵が湧いてきます。それは、この宇宙のものでなく、外宇宙といいますか、無時間の世界といいますか、或いは宇宙根源のブラフマンの知恵とでもいいましょうか……かつて経験した事のない事が自分のものとなります。そして浄福に満たされます。
その時あなたは、宇宙根源から流れて来る調べ………いわゆる子守唄を聞くでしょう。その時あなたは 真理にふれた瞬間をつかむでしょう!!頭でなく足がその導き手です。こうして、足文明の世界の夜明けがやってくるのです。
デカルトはここまで見付けることは出来ませんでしたが、彼は「知でなく、詩の世界から入っていけ」という神の啓示を得ました。そして研究を続けている内に、知的悟性でなく感覚的悟性という世界を見つけました。自然科学の中にその感覚的悟性の必要さを知ったのです。
例えば仏陀を考えてみましょう。彼は最初は知的悟りを得た事でしょう。だが仏陀はそのうち頭を捨てねばならぬ事を見つけました。原始仏教と言うのがあります。その経典は実に素朴な経典で、その中に「頭を捨てなさい!」というのがあります。それが仏教の最初で最期の教えだったのです。そして彼は「足」を見付けました。それを説いたのが法華経です。この事は誰も知らなかった事でしょう。誰も気付かなかった仏陀です。
仏陀は亡くなる三ヶ月前に弟子たちを集めて、今から本当のことを説くと言いました。それで弟子たちは怒りました。「それでは今まで長い間うそを教えていたのですか」と。それで仏陀は「うそというではないが、方便を説いたのだ」と答えました。「わからぬ者に難しい本当のことを説いても分らぬから、いや信じないから、それらの人々に分かるようにやさしい説明をしてきた」と言いました。
そしてその本当の事を説いたのですが、誰にも、今の人々にも分かりません。………そこで仏陀が説かれたのは神話だったのです。仏陀にしてもラーマクリシュナにしても、本当は神話を説こうとしていたのですが「神話」という言葉が分からなかったのか、知らなかったのか、或いはそんな言葉がそこに無かったのか、そのいずれかです。
仏陀は足文明を説いたのです。足は又、他の言葉で言いますと大地とも言えます。足の偉大さと言う事は大地の偉大さと言う事でもあります。神は天におるものと人々は思うけれど、大地に神が居給う――と言う事にあまり気付きません。日本に金光教という宗教がありますが、その宗教では天の神と地の神を拝みます。これは全き宗教です。

人は地の神にあまり重きを置かず、天ばかりを仰ぎ見ます。「おお神様助けて下さい。恵みを垂れて下さい。病気を治して下さい。商売繁盛しますように」と。しかし本当に人間にまともな道を教え、感応してくれるのは地の神かも知れません。………ここに感覚的悟性の震源地があるのかも知れません。
………法華経のどこにそんな事が書いてあるのですか?……それを尋ねている人があるようですね、しびれをきらせて。ではお教えします。湧出品というのがあります。そこを読んで下さい。地から多くの仏が湧き出た………と書いてあります。それを何遍も読んでみてください。神話がその形で説かれ、述べられ、経典となっています。それに気付くでしょう。そんな時から神話の大切さを説かれてあるのです。神話という言語を使っていませんが神話がそこにあるのです。
頭を捨てて神話の勉強をして下さい。神話の必要性と大地、即ち足の素晴らしさが、その内もっともっと分ってくるでしょう。これを私は「足文明」と名付けているのです。仏陀の説く事をもう一度、私が説き直しているのと同じです。神話研究なくして本当の世界、社会、秩序ある社会がやって来ないのだと、今から四百年前にイタリアのヴィーコが命をはって言ってくれたのが、今その日の目を見る時が来たのです。
エジプトでは春の発芽の時を大切にして、祝います。それはオシリス神の甦りと見ています。その命の甦るそれを麦の発芽と見、その命ある麦を食べて全身にその喜びを流し込みます。そういう生命の甦りの儀式こそ神話です。神話とは命の甦りの儀式を言います。

| エッセイ | 11:07 | TOP↑

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神話的なケニヤの王様

私はこれを書きながらある一つのことが思い浮かんできました。それは1970年に大阪で万国博覧会が催されました。その時いろいろなショーがありましたが、それを眺めている多くの印象の中に、ケニヤから来たケニヤの王とその従者の一組が特に眼に入りました。そのケニヤの若い王は堂々とした大きな男でした。顔は黒人でしたが、我々日本人より立派な顔をしていました。
とにかく堂々としているのです。歩くのも堂々とゆっくり歩を運ぶ その大きな余裕のある心(意識)には、もうすごく心を惹かれました。王子でしょうか、これがゆるやかに歩くのに従者が傘を持って、その頭上に移し、太陽が顔にあたらないように、まことに忠実な従者として、その忠実さと王子の堂々とした高貴で優雅な大きさに私はうっとりと見とれるばかりでした。
私はこんな大きなゆとりと、忠実さと、それを従者としてもっているまとまり切った一対の組み合わせは、かつて見たことが無かったからです。権威も感じられないし、ともに一対になっている主従の関係の素晴らしさ――これをまるで神話だな………と見ていたのです。
神話はこのように形に現われる、言語以前のものです。とにかく堂々となること、なんの権威もそこに見られない堂々とした相、しかも優雅と高貴なものがその相に現われてあることです。
小者と大者と言う言葉がありますね。私は以前から、大人(たいじん)に憧れた事があります。中国では、大人、大人とよく言いますが、昔は日本でも中国の影響をうけて大人と言う言葉がよく使われました。小者と大者、大人……に成りたいものですね。象みたいな人間ですね。
何ものにも恐れず、怯えず、うろたえず、策をもちいず、他人のものを奪わず、欲しがらず、嫉妬せず、妬まず、恨まず、地震が起きても大声を上げず、死ぬ時は笑って バイバイ、又会おうねと言える人になりましょう。ではバイバイまたね。
今度はもっとおいしい物を食べて良い事をしようね……そして堂々と優雅で高貴な生活を仲良くやっていこうね。ではがんばって下さい。ハッハッハッハ………

| エッセイ | 17:27 | TOP↑

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盲人、象をなでる 続き

ニーチェが宇宙の本質を分かりやすく「無意味」という言語でもってあらわした事はすごいことです。仏教の無でも、空でも、ヒンドゥーの否、否でも十分ではありません。宇宙の根源なるものの本性、本質は、無とか空、あるいは言う事が出来ないもの、それでもない、これでもない、お前たちの考えているそんなものではないのだ……で通してきましたが、それをニーチェは「無意味」……意味づけられるものではない、理論に合理的に納得のゆく意味あるものではない――という的確な「無意味」という言語を見つけ得たのです。
そこでその無意味そのものをしかと捉えること、認識することがそのものの中に入り、そのものに成る事になります。即ち象そのものになったことであり、象の形相には何ら気遣う必要が無くなりました。
宇宙の真実相にさえ入り込めば、詩とか神話とかオチャメとか、そんなものは後でついてくるものなのです。そこでそういう形相にとらわれず、無意味そのものに成ると体がピンと伸び、胸がはれて堂々と歩けるようになります。その堂々たる姿の中に、その姿そのもの、そこに神話があり詩があり、透明な角度があり、白紙の舞があり、躍動があります。そのくっついて来るものになろうとするのでなく、無意味に入りさえすれば、その形相内容まで整ってくるのです。
だから形や現象にとらわれずに無意味というそのものに定着すべきです。するとその形が現われてくるのです。またその形が、現われて来なくても平気なんです。そんなことに心がとらわれていると、無意味そのものに直接的に入ってゆけません。いわゆる成ること、即ち象という個々の形や全体像はほっておいて象というもの、象という内容そのものになることです。
マンゴーの木の葉の数やマンゴーの味よりも、マンゴーそのものに成る事です。即ち無意味になることです。マンゴーの葉の数も味もマンゴーにひっついているものです。本質とひっついているものとはちがいます。

| エッセイ | 17:25 | TOP↑

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