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寸刻・寸刻の開き

……「光が斜めに走ったそこから宇宙が創造された」
これは太古のリグ・ヴェーダの詩人の歌ったものです。
すごいことを言ったものですね。
これには驚きます。

次はいつも話す話しですが、内の光司君が、四才の時に
「僕はワニの目の中から生まれた。」と言ってキャッキャッと笑ったのです。

これは水族館の池の中に入れられているワニを見て、その静かで平和に
居眠ているワニの眼を見ていて、その非合理な、柔らかい波動の世界の中に、
自分の古里を見たのです。

しかし、それをもっと分析しますと、その静けさや平安さばかりではなく、その目が
静かに、徐々に開いたそこに「開き」の角度を見たのではないかと思います。
子供の魂はその寸刻、寸刻の開きの中に吸い込まれていったのでしょう。

そして、その光司君がそれから十年程たった或る日のこと、次のような詩を書きました。
「夜空の星がワニの目に見える。それを深く見ていると、自分の魂が見える」と。

星のきらめきは透明でしょう。
その星の透明なささやきを受けとめること、
その透明な開きの角度を自分の懐に入れること。
角度は神話そのもの。……
黄金の麦穂が揺れている。
透明な斜めの線が交差して踊る。
詩人はそれを見逃さない。
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| エッセイ | 22:21 | TOP↑

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斜めの線

さて、私はいつも「宇宙は幾何学的な構造をもっている」と言っています。
そして、宇宙は一本の斜めの線から出来上ってきているといいます。
斜めとは「開き」を意味します。
そしてそこから、運動と物の生成と破壊という変化が起きて来ています。

宇宙はこのように宇宙根源の「開き」という角度をもった「原始意志」によって
動いています。
その斜めの角度は、決まりきり、固まりきった合理的なものではなく、
なめらかに物を処理する、半導体的な性格をもっています。

私はある日、この広い広い空間の性質を半導体的空間と考えたことがあります。
半導体というものは簡単にいって穴の開いたものと、穴のつまったものとの
組み合わせになっています。
そのつまったものが開いている方に流れ込む。
そしてそれが自動的に速やかな運動を起こす、というような構造になっています。

……そこで私は、その穴(開き)と、そこに起きる運動を想像し、味わいながら、
空を眺めて庭を掃除していたのです。
するとその時、私の手が急に斜めに上がり、ホウキをもったまま踊り始めたのです。
ふいの出来事だったのでびっくりしました。
……踊ろうと思っていなかった。
それなのに、開きと運動を考えた途端に、私の体は斜めになって、
両手を上げて踊ってしまったのです。

これを宇宙の踊りと言うのでしょうね。
不思議なことも起きるものですね。
ふいに両手を挙げて宇宙に吸い込まれるようになったのです。
人ははすかいをイメージすると、その開きの系の中へ吸い込まれ、
踊り入ってしまうのですね。

こういう動きを起こさせる「開き」と「斜め」のただの一本の線、
それが自分たちの古里への入口なのですね。

……この話しを聞いていたある人が、
「斜めって素晴らしいですね。私の踊りの先生もそう言っていました。
体が宇宙の隙間に斜めに入れた時は、ものすごく立派に踊れた。
しかしそういう事は一生で二、三回しかなかった……。」
と話していました。

宇宙はこうして斜めの線の角度から、運動とエネルギーが創られてくるのでしょうね。

| エッセイ | 22:20 | TOP↑

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ゼロとの対話

私はこういうマルワリの賤民達と共に生活していた時、井戸を掘って、
彼等を驚かした事もあります。

部落には一つの井戸がありましたが、私は二人の弟子と共に、我々の敷地内に
掘ったのです。それに刺激を受けて、自分の畑に井戸を掘り始めた村人もいました。
私の掘った井戸は最初の1mは土で、後は固い岩盤でした。
その岩盤を水が湧くまで5m以上掘ったのですが、一日かかって3㎝位しか
掘れませんでした。
そしてそこに、コンクリートのわく組みを入れ込んで仕上げました。

……私は青年の頃、キリスト教の熱心な信者であった内村鑑三という日本人のことを、
学校の教科書で学んだ事があります。
その中に彼のいった「働け働け、報酬を得ずとも働け」という、すごい言葉のあるのを
知ってびっくりしました。
私はその言葉を知って、(これは真理だ)と……生まれて初めて真理というものに
出会った!という思いで、大変ショックをうけました。
これはギリギリの地点ですね。
ゼロの地点です。

これも一つの対話です。
自分自身との対話です。
そこに時間の止まった世界があります。

……そのゼロの状態、ゼロの波動の状態の中から神自らが姿を現してくれます。
どんな形で現われて来るか分かりませんが、必ず、何らかの形で現れて来ます。
「ゼロ」と「ゼロ」の対話の中で、どんな対話がなされているのでしょうね。
サーバントの老婆が光ったのも、あのマルワリ達の歌声もこのゼロの中から
出たものだったのでしょう。

| エッセイ | 14:58 | TOP↑

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真実なる響き クンバメラ

この間、アジメールのマルワリ達の歌に私が魅了された時のことを話した。

……なぜ彼等にそんな歌い方が出来るのかを考えたところ、彼等は賤民であって、
長い年月に渡り自己のもつあらゆる可能性を棄て去って来たと言う事であった。 
彼等にはどんな可能性も許されていない、いわゆるアウトカーストの人々である。

一般人の入っている映画館に入ることも出来ないし、形の変わった着物を着ることも
許されていない。
一年に一度ホーリー(春の祭り)に、決まりの着物の新しいのを買い、
それで一年間いくのだ。
それが一方では、慎しい人間というものが出来上った原因ともなる。
何でも手に入れられるものは手に入れ、着、食べ、行動するといった可能性は
自由で良いようだが、それなりに失うものがあるようだ。

この物質文明は何かを犠牲にして押しられてい進められて来ている。
例えば時空の広がりだ。 
人間にとって最も必要なもの、「時空」というスペースが失われ、
スピード化して行く生活の中で、車が幅をきかせ、手押し車や、市電、バス、
ローカル線等をなくしつつある。
ただ申し訳け程度に市バスが走る。
タクシーもいらなくなる程、自家用車で国土が埋まってしまう時代が来る。

アメリカはこの物質文明をうまくコントロールしてはいるが、土臭い生活、時空と共に
生きる生活が、あらゆる可能性にとってかえられていく。
発展と可能性はくっついたもののように考えられる。
しかしそれが真の発展であろうか。

人間はあらゆるものを可能にすればする程うぬぼれ、喜びに満ちるのみである。
これで人間は幸福なのであろうか……?
失われたものが在りはしないか。
あのアジメールあたりのラジャスタン州のマルワリ達。
この賤民はあらゆる可能性を奪い取られている。

私はかつて十二年に一度行なわれるという、インド北部のハリドワにおける
クンバメラ大祭(神への大祭)に参詣した事がある。
当時私が住んでいたのは、それより南にあるラジャスタン州の小都市アジメールだった。
その一番山に近い所にフォイサガールという、湖のある美しい土地がある。
いわゆる賤民であるマルワリ族の部落が一キロおきぐらいに点在する場所だ。

その一つの部落のはずれに私は居た。
彼等は住む家がわずかにあるぐらいの生活である。
そのマルワリの人々も、ずっと北部行われているクンバメラの祭りに来ていた。

この祭りには何十万人とインド中から参詣者が集まり、寺々に宿泊するのである。
しかし、このマルワリ族には宿泊する所もないのか、女性百人位が、
男性の指導者数名とともに道路わきの広場の木陰にたむろしているのを見かけた。

彼等は特有の服装をしている。
男は頭に赤、黄、青のターバンを着け、その一端を長く垂らしている。
ピンとした口髭をほとんどの男はたくわえている。
来ている物は白木綿の身にぴったりしたものだ。

女はサリー風なものを着ているが、長いベールのようなものを頭からすっぽりかぶり、
両足首には大きい重い銀の輪をはめている。
着物の染めは大胆でとても素朴な原色を使っている。
着る物は一手に決められているのである。
だから「マルワリの女だな」と、どこで会ってもすぐ分かる。

メラ(祭り)は熱気をおびて、どこの寺からも大きな音のスピーカーでお祈りが流れ、
ガンジスぞいの参道には人がひしめいている。
一人でも倒れようものなら、次々にその上に人が折り重なって、踏み殺される騒ぎが
起きる。
警官達は警棒で人々をなぐりながら、必死になって交通整理をしている。
「今日の死者は何十人」と、その一週間の祭りの間に報道された日もあった。

押し合いへし合い――ガンガン流れて来る寺々での祈りの声。
参拝者は歩きながら歌い続ける。
熱気にあふれた騒々しい祭りだ。

私はラーマクリシュナ・ミッションのキャンプ場に宿泊していた。
一週間の祭りがおわると、人々はバスに乗り込み、ある者はバスの屋根にまで
乗って帰っていった。
数知れないたくさんの大型バスは、何十万の人々を二、三日がかりで運んで行った。
私はなかなか乗れそうもないので、帰るのを延ばし、テントの中で夜を過ごしていた。

もう大分人々の数も減って、明日あたりは帰れそうだと思っていたその夜のこと、
一時頃だったろうか、かすかな歌声の群れの移動が聞こえて来た。
何百人としれぬ女性の歌声。
「シバシバコーロ、シバシバコーロ」。
それはまさしく、マルワリの女たちの一群が歩きながら移動していく行く歌声であった。
彼等は泊まる寺もなく、道端でこの一週間寝ていたのであろう。
そして今、帰路についている様だ。

私はこの歌声に魅了されてしまったのである。
何たる歌声か!
ハメルンの笛吹きについて行く子供達のように、私の心は彼等の歌声の移動の中へ
吸いとられてしまった。
私は今の自分の一切を棄てて、そのマルワリの群れの中へこの一生を没入させたい――
という気になった。
そして、そのキャンプ場の塀をのり越えてでも、彼等の群れについて行こうと決心した。

小さい荷物を小脇に抱えて、私はテントを抜け出た。
すると運悪くもウォッチマンに見つかってしまった。
彼等は二メートルほどの棍棒を持って、夜でも警戒に回っている者たちだ。
こんな連中にとっつとっつかまっては言葉も通じないし、盗人あつかいされては大変だ。

追っかけてくるウォッチマンは何やら叫んでいる。
私は天幕の細道をぐねぐねと走りぬけ、自分のテントに逃げ込んで静かに隠れていた。
朝までなんのこともなく、やれやれだった。

それにしても、あのマルワリの一群について行きたい――
この一生を投げ棄ててまでも……と思わせた位のその声の魅力。
それはいったい何だったのだろうか?と私はこの数年考え続けてきた。
立派な歌手の歌声でもなければ、素晴らしいお寺のスワミ(僧侶につかわれる尊称)
の歌でもなかった。

スワミや歌手達は偉い坊さんだ、立派な歌手だと人々から言ってもらえる可能性を
もっている。
だが、この賤民達がいくらいい声で歌っても、その可能性は全然ない。
すべての可能性をもたないこれらの人々の何かの中から、こんな歌声が
出て来るのである。

鏡に顔を映し見ることもない女達。
ベールに隠れた日焼けした、黙々と働くより他ない平凡な顔が、時にはほほえみ、
時にはけげんそうな顔となり、時には大声で子供を叱り飛ばしている。
男は昼寝をしても女は絶対しない。
畑仕事か木陰で穀物の中の石をよっている。
こんな可能性の何もない賤民の人々の心の中からこそ、
あれほどまで私の心を捉えてしまう不思議な力が出てくるのであろうか。

……「真実なる響き」をもった歌声がそこから出てくるという事を、
私は知ったのである。

そして今ここに、私はアメリカにいて考えさせられているのだ。
何でもあり、何でも自由で、明るく、スマートであり、クリアーであり、
発展の可能性を一杯持っている国。
私はそこに立たされているのである。

しかし自由、明るさ……これらは結構な事であるが、
「真実な響き」を彼等は作り得るであろうか?
「真実なる響き」……すべてのものを投げ棄ててまで、
そこに飛び込んでしまいたいような、真実の魅力ある世界が、
このアメリカという国の未来に造られて来るであろうか。

アメリカばかりではない、人類にこれは問われた問題である。
その真実なる響きが無ければ、真実なる社会も、真実な生活もつくれない。

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ゼロの中から神が現われる

味わうという言葉は、良い言葉ですね。
知識を持ち知的であるという事と、味わう心を持つという事とは大分違いますね。
例えば存在生命があるという事をしっても、知るだけでは何にもなりません。
それはただの知識でおわってしまいます。
鉛筆をさすり、コップをさする。
そこにひとつの味わいが出てきます。
味わうと言う言葉は非常に良い言葉です。
では、自分たちがこの世に生まれて、宇宙を味わって要るだろうかと、問うた時、
あんまり味わっていないかもしれませんね。

私は1975年の秋から、インドのアジメールという田舎に居りました。
電気も水道もトイレもないところです。
そこはマルワリの賤民の部落で、一般人はその部落に入っていけないような、
そんなカースト制度の名ごりが残っている部落でした。
いわば一つの閉鎖社会なのです。
私はそこで奉仕活動をつづけていたのです。

そこは物凄く暑い所で、三月にもなりますと、朝の十時から夕方の六時まで
戸外に出ないで、部屋の中で寝ころんでいるしか他に、身の起きどころがないほど
暑い所なのです。
ところが、我々のサーバントの夫婦はよく働く人達で、特に女性は男の人が昼寝を
している時でも、そんな暑い戸外で働き通しです。

このように彼等は、来る日も来る日もずっと働いて、しかもまずしい生活をしています。
小さい建物の中には、粗末なベッドと鍋と窯と食器、水壺一つぐらいしかありません。
しかしかれらは、文化や文明から害されていない、昔ながらの透明な心の人々だったのです。

これは私の弟子の一人が体験した話ですが、或る日のことサーバントたちの住んでいる
建物のすぐ隣にある牛糞を積んでいる建ものをフト見たのだそうです。
するとそこが光っていたというのです。
そこは我々が入るのも遠慮するようなうす暗い所であり しかも牛糞の置き場ですから、
私たちはほとんどそこに近づきません。
そんな所が光っている。
光るものは何もないはずなのに……と彼は、不審に思ってじっと見ていたのです。

インドの貧しい人々は、牛糞を20センチぐらいの塊で丸く平らかにして、
干して燃料にします。
そんな牛糞を置いてある小屋の内部が、光っていたのです。
そしてしばらく見ていると、その建物の中からサーバントの老婆が、
牛ふんの入ったざるを頭に乗せて出て来たというのです。
そしてその人物が光っていたというのです。

それを見た彼はびっくりしてしまいました。
貧しい人達です。
働き通しに働いて、服装も本当に貧しいよれよれの服装をしている。
その賤民と言われるサーバントの老婆が、光って小屋から出て来たのです。

これは素晴らしい話です。
我々は立派になろうと思って、修養したり神様を拝んだり、本を読んだり
いろんな事をして立派になろう(光ろう)として苦労しているのですが、
賤民のサーバントの老婆が光って小屋から出てきた……彼の驚きも想像できます。

しかし彼女らには光る一つの原因があったのです。
むろん彼女らは、汗を流しながら熱いのを我慢して働いているのですが、
彼女らは働きながら、いつもシバ神の名を唱えつづけています。
「シバシバコーロ」「シバシバコーロ……」とシバの名を呼び続けています。
彼女らは神と共に生きる、その味わいの世界の中に生きている人々だったのです。 
そういう文化を彼女らはもっていたのです。

私たちはこのようなマルワリの賤民達と共に生活をしていたのですが、
これは人生の内で尊い経験でした。
一般社会では、なかなか味わえない体験の数々をさせてもらいました。

| エッセイ | 08:57 | TOP↑

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