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日本のドルガプジャへのメッセージ

今年は第30回のドルガプジャです。1973年に始めて日本の大阪の我々の本部でドルガ女神のお祭りをしたのです。それで、ドルガ女神は日本でもお祭りをしてもらえるので大変よろこばれました。

そして1975年、その2年後にはナーラーヤン先生がアメリカに行かれ、アメリカでもドルガのお祭りを始められた………といういうわけです。そして先生の写真やお弟子さんが写真をとると、そこに白光の光として、女神の魂が現われる………という不思議な事が起きています。

次はアメリカの先生から本年度贈られて来たメッセージを読み上げさせていただきますが、そこにも不思議な出来事が書かれてあります。
アンが6月のなかばに日本に帰った、その後の出来ごとです。

7月の或る日、いつものように七面鳥の群れ15羽位が庭に入って来ていました。
これは、これまでは畑に入っては困るので、時々は追うようにしていました。
むろん人間が近かづきますと、そそくさと逃げて移動し始めるのです。

ところがその日は、全然ちがった事が起きたのです。私がその七面鳥の群れに近寄ると、やはり逃げ始め、我々の屋敷内から外へ出て行きました……。

しかしふと眼の前に、一羽の七面鳥が下を向いて、餌をついばんでいるのです。私は何か錯覚が起きたのかと、呆然と見とれていました。(この一羽の七面鳥は眼がみえないのだ。だから私が1m程の所に立っていても、私が見れないのだ)と思い込んで、それを見ていました。眼を他にむけると、逃げた15匹近い七面鳥がどんどん遠くへ移動していっています。この一羽だけ逃げ遅れたのでした。

私はそれで、その逃げ遅れた1羽の七面鳥を少しあわれに思って見ていました。そして、やはり眼が見えないのだな……と思いながら見ていましたが、その1匹を可哀相に……と思っていたものが、そこにある少しの水溜りの水を飲み始めたのです。

そこで私はやっと、この鳥は眼が見えるのだ、と気付いたのです。よく考えたら眼が見えていないはずはないのです。それまで5分間程見ている間でも、ちゃんと餌をついばんでいるのですから、見えているのです。それなのになぜそれがわからなかったのでしょう。それは七面鳥は皆逃げるものと思いこんでいたからです。

私の足許にいるその七面鳥を私は見下ろしている、それなのに私に気にも留めず、私の身近かにいてくれたからでした。私はそのかわいい垢ぬけした子供の七面鳥のそばで、15分ぐらい一緒に時を過ごしていました。そしてやっと私の心に、次のような考えが湧いて来ました

仲間の他の鳥はどこかに行ってしまった。それをどうするのだろう。……皆の行った所が分らない、その哀れさが、その1羽の鳥に集められていたのです。

いつも七面鳥の群を見ると、追っていたのにこの鳥は逃げない。これは、神がこの1羽を私の前に現わしてくれたものだ……と思うと、それが光って見えるように
なりました。(七面鳥を追ってはいけないよ)と、言われているのだ……と思いました。そして 私自身を「哀れ」に思えるようになったのです。

「哀れ」なのは人間の方でした。何かあると、動物などの生き物を人間扱いしないのが人間です。そしてそれらを見下げ、我々は人間だ……これらは人間ではない……という差別をもって見ている人間。 それが「哀れ」になって来たのです。

神様がそういう事を教える為に、今日はその1羽の七面鳥をつくって、私の眼の前に置き、離れなかったのだ……。これからは七面鳥の群れが庭にやって来ても追わないことにする……と決心しました。

そして七面鳥こそ、ここの住人であって、そこへ我々人間様が入って来て、これは我々の土地だと言っているのです。これではいけない。心を改めて、この土地を彼らと共に共有しよう……という気になりました。

我々は七面鳥ばかりでなく、人でもそうです。善し悪しで眺めます。その、そう眺める者そのものが、自分そのものが「哀れ」な者であるのだ、と自分に言い聞かせました。

善し悪しはないのだ。全て、この地球上にいる共有者だ。自分から他を見るのでなく、同じ位置にいるべきだ。自分と他を分けているから、良し悪しが出て来るのだ。「哀れ」なのは人間であり、自分なのだと反省しました。

このようにして、人間以外の生き物をも大切に扱い、地球上に同じく生き、住んでいるという共同体生活という心のかまえが出来てきたのです。すると七面鳥の群が庭に来ても我々が5mぐらいの所に来ても、逃げずに安心しきって餌をついばむようになりました。

こうして7月8月9月はすぎ10月4日となりました。
……ちょうどドルガ・プジャが9日から始まるので、その準備を少しずつ始めようとしている時でした。10月4日の朝食時に、いつものように七面鳥の13羽の群が庭の大きい池に来て、一列に並んで水を飲んでいました。

朝食をとりながら我々5人(私 メアリ マヤ アラン フランク)が眺めて、七面鳥が水を飲んでいる……と言いながら、あれが白鳥のように白いのがいたら良いのになあ……と口々に言うし、七面鳥が黒いまだらな羽なので、ある者は「黒くて汚いし、格好がハゲタカみたいで気持ち悪い、白かったらねぇ……」などと七面鳥があまり格好のいい鳥でないので白鳥のようようなのがいたら、どんなにか庭と池に良い風景をそえてくれるのに……と思った事を口々に言ったのです。

そして一夜は開けました。そしたら翌朝食事の時に、またいつものように13羽の黒い七面鳥の中に、白い七面鳥が3羽混じっているのが見つかりました。私たちは自分の眼を疑いました!!まさに天から降って湧いたものとしか思えません。

私は始め、あの3羽は一夜の内に真白になったのだと思いました。そうでないとそんな白い七面鳥などあるはずはないからです。かつて今まで20年間ここにいて、
白い七面鳥など見たことがなかったからだし、常識的に考えても居ようはずはない。

まして、昨朝言ったばっかりだった……それがちゃんと、現れて来たのです。……こんなびっくりした事はありません。ムカデ成仏もびっくりしましたが、それは私以外に誰も見た事がなく、その驚きを間近に直接に味わうことが出来ませんでした。

しかしこの七面鳥の件は、皆んなで口々に白い七面鳥が来たらどんなに良いか知れない……と空想し、夢をそこにぶち上げたからです。それが見事に……思いもせぬ事が現実化したのですから、みんなの驚きと喜びは言いようもありませんでした。

魔法の小箱から小鳩が取り出されたように、白い七面鳥が3羽も13匹の黒い鳥の中に混じって、同じように水を飲み、庭をうろつき半時間ほど餌をあさっていました。私たちはこれこそビデオカメラにおさめねば……と嬉しい気持ちを抑えながら撮影しました。こんな事はこれきりで、もう二度と見れないかもしれない思ったからです。

そしてその翌朝も、又その翌日も待ちましたが、思ったように二度と現われて来てくれませんでした。10月9日にドルガ・プジャが始りました。私たちの心の内には今日はドルガの祭だから、ひょっとしたらドルガがまた白い七面鳥を遣わしてくれるかも……と思っていたのです。

しかしもう夢を見終わったようなはかない気分が湧いてきました。七面鳥が現われて来なかったからです。せめてビデオカメラにおさめた事だけが後にまで救いになる現実なのだと、淋しい心を慰めていました。

私はこの出来事で、今書いている本の最後の所をどんな風にしてまとめようかとしていましたが、この白い魔法の鳥の出現の出来事をその最後の文に見事にまとめる事が出来ました。

それは神は魔法使いであるという内容です。「幻想 一体感の世界」というまとまった内容が書けたのです。即ち我々の世界は時々刻々に景色が変化していっています。夜の星空もそうです。我々の生命も時々刻々に変化して、終いに姿を消します。

するとこの「ある」という実在は、刻々の幻なのです。直ぐ消え変化する……もう最前のものは消されて幻となっているのです。
それをこの七面鳥が消えた事から学びました。そして神は魔法使いであるという結論でした。

現実……というものはないのです。幻の連続という幻想の世界です。それからというもの景色を見ても、全て神の魔法である。幻に見えて来て、それを見ている自分もその幻の一員であると感じるようになりました。

それで「幻想一元論」というものが生まれたのです。「幻想一元論」即ち全ては幻なのです。それを人は幻と分からず、現実というものがあるように錯覚しているだけなのです。

時間というゆっくりした流れの中に身をおいているから、幻が分らないのです。映像でもスピードを落として撮ると、花が急につぼみから開花するのを見たことがあるでしょう。それは魔法のように感じるのです。急にすごいスピードで花が開く……それを我々はゆっくりした時間で見ているから、魔法のような雰囲気が感じとれないのです。この世はすべて幻なのだと白鳥の消えた事で教えられました

皆さんへ!!
こうして第二日目のドルガプジャの朝です。白鳥の七面鳥が又一群に混じって現われたのです。この時の喜びは天にも昇るようでした。これらの映像をいつか日本に送りますので見て下さい。
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デカルト祭

皆さんこんにちわ 
優秀な友達がたくさん集まってくれました 
それと優秀な音楽家が来てくれました

非常に私はうれしいです 
音楽を聴くと私も胸が踊ってきます 
宇宙の奥に音楽があります 
そこから音楽が流れて来ます
 
デカルトの大きな絵がかかっております 
デカルトの求めたもの そして求め得なかったもの
それは音楽だったのです 
その話をします

その話の中心になる言葉を一つ紹介します
ただいま プロフェッサークヌスからも紹介がありましたように 
デカルトの「我思うが故に我あり」という言葉であります 
「我思うが故に我あり」ということについて考えていきますと 
これからの世界がどのように発展していくかが そこに秘められています

デカルトの居った時に偉大な哲学者が何人か生まれております 
ガリレオ ヨハネケプラー ニュートンがそれより少し前に生まれております

ニュートンはいろんなことをたくさんみつけました 
しかしそれは宇宙の表面的なことでした 
デカルトは表面的なこととちがってもっと深く研究しようとしていました 

デカルトはなぜこの宇宙があるのか?
なぜ人間があるのか? 
人間と宇宙がどんな関係にあるのか?
どうすることが 人間が最も良い人生をおくれるのか? 
彼はそのように宇宙を深くのぞいていきました


そして彼は物理学の限界を知りました
そして彼は詩の研究ポエムの研究に入りました 
ポエムの研究によってもっと宇宙というものが深くわかると言いました

ところが デカルトより70年ほど後にイタリアに
ビコという哲学者がうまれました
ビコは言いました 
この宇宙は眼で見えた世界とその奥にポエムの世界があります
そしてもう一つ奥に神話の世界がありますと


では今度は私の話にはいります
私が神話を考え始めたのは7才の時でした
そして今日まで神話のことばかり考えてきました
そして偉大なことを見つけました
そのことは また後で言います

ニュートンが現れました
それからアインシュタインが現われました
宇宙がバァーッと大きく拡がっているということを言い出しました
ところが次の人々は宇宙がまだ膨張している 
ふくらんでおるということを見つけました 
それから次は宇宙が ビッグバンによって造り出された大きくなったということを
言い出しました
ビッグバンのことを言ったのは1948年であります
ジョージワシントン大学教授ジョージガモフであります
そして今日にいたっています 

そして現在は宇宙は心(意志)があるという研究に入っております
そして意志によって作られた設計図にしたがって動いているという
趣旨のことを述べて
宇宙はなぜあるのかという研究に入っています

そして人間はなぜあるのかという研究に入っています
1961年にロバートディッキーが宇宙の人間原理を発表し
1974年にはイギリスのプリンストン大学のプランドンカーターという学者も 
宇宙には意志があるといっています
この宇宙は何らかの意志によって作られた
設計図にしたがって作りだされ動いているという趣旨のことを述べています

そうすると400年前に生まれたデカルトの考えたことと同じであります
そしてその解明へと最近の物理学は近づいているということです
だがディッキーやカーターのいう意志はただ そうだと思うだけの
考え方―「そもそも宇宙は人間を生むためにデザインされていた」というだけでは 
意志なる品物を人の眼の前につまみ出して見せていないということになります

それでは科学性に欠けていますし 
またその意志なるものは どのような種類のものであるかも述べられていません 
それを私が後程説明してゆきます 

ここに意志があるという事と その意志はこんな性質をもっている……ということを
説きましょう

さて私が神話についてずっと研究している間に4年前あたりから 
鼻の病気になりました
鼻の病気になりますと息をするのが大変になります
今はよくなっております 鼻の病気になって息ができなくなると
酸素が大事だということがわかりました 
酸素が人間の命であると思いました

そうしたら天の声を聞きました 
本当ですよ 本当に聞いたんです
それはね 「酸素は酸素を呼吸して生きておる」という声でした 
もう一度言います 「酸素は酸素を吸って生きておる」

これは 水素が水素を呼吸して生きておるとも言えます 
この水は水を呼吸して生きておるとも言えます
今の科学は水は何であるかがわかります 
しかしなぜあるかがわかりません

宇宙は宇宙を呼吸して生きております 
私がここにあります 
これは宇宙のエネルギーを吸ってそれをまた吐き出しております

太陽も宇宙のエネルギーを吸って エネルギーを出しています 
私はこの天の声を聞いてハッと思いました
そしてデカルトの「我思うが故に我あり」という言葉を思い出したのであります

宇宙には一つの法則があるはずです
その法則には構図があるはずです 
私はこのデカルトの言葉と天の言葉から一つの構図を考えました


img004.jpg

こういう構図です
これは呼吸をこの構図であらわせます 
入ってきます 吐きます
ここでストップして 次に吐かれています 
ここが0です

この宇宙には0という数字が最も大切です
0は無限と同じです
今のコンピュータは0と1の組み合わせであります

では なぜデカルトの我思うが故に我ありと言う言葉が
この構図になるか説明します 

自分たちはいつも自分がここにあるということをちゃんと知っています
これはこの矢印であります
今自分があるとおもっていることは 
これは本当にわかっておるのとはちがいます

自分が我思うが故に我ありと思った時に
始めてぼぉーっとして居る自分というものが消されてゆきます

デカルトが言いました
私の自然科学 私の研究は機械技術の助けをするばかりでなしに 
人間の健康と長生きのために役立つでしょう
と言いました

しかし人間が長生きできても立派な人間が生きなければなりません
悪いことをしない人間が必要です 
それには宇宙の奥の奥にある神話をもたなければなりません


神話は音楽と同じであります
話は一度に飛躍しますが 前述した宇宙にある意志なるものはどんなものか 
その性質は何かですが それが「神話」なのです
酸素が酸素を呼吸して生きている
そこに神話性を感じないでしょうか?

詩的霊感は知性を超えて宇宙をかけめぐります
詩的霊感がないとすぐに二次元的な考えをしてしまいます
宇宙はそんな人間の考えるような簡単なものでなく
意志の世界にもちゃんと構造があるし
それを運ぶのにも 構造そのものがこの消された自分が
ここにあるからと発見されたのがこの矢印であります
ここから無限の可能性が生まれてくるんです

この構図がね どんなに大切かをいいますね
分かりやすい実例で言います

自動車がありますガソリンを入れます
すると自動車が動きます
しかしガソリンが自動車を動かすのではありません
ガソリンを入れたら走るような構造になっておるからです

あらゆる運動は構図によって運動がおきています
もしガソリンを入れなくても動くような構図になってあれば
ガソリンはいりません
構造さえよければ太陽のエネルギーを呼吸して車は走るでしょう

あらゆるもの宇宙が動いておるのも 車の動くのもそのもとに構造があります 
今日までの精神文明は構造を考えていません
よいことをしなさい 悪いことをしたらいけませんと言いました
こうしなさい ああしなさいこうしなさい 
立派な人間になりなさいと言いました

これは構図のない機械 構造のない自動車にガソリンをぶっかけているようなものです 大切なことは自分達の
大切な事は自分たちの頭の中にどんな構造があるかを知ることです
自分たちの中にDNAがあります 
DNAは宇宙との関係をどのような構造で生きておるかを知る必要があります
もう一度この構造について話をします

酸素があります 
その酸素は酸素を吸い酸素を吐きます
そして生きています
それがこの構図です

我々人間は宇宙呼吸をしています
宇宙を構成している距離………この距離というのはエネルギーなのです 
その距離と人間との間に電磁波による呼吸がなされています
いわゆる出力と入力であります
物質も生命のように空間の持つ慣性力の一つである電磁波を利用して
呼吸しているのです

そして不思議なことに物質はそれに働きかけてくる慣性力を
解読するメカニズムによって成り立っています
これを物質のもつ「意志」といえます

この「意志」はDNAにも関係してきます 
この研究を進めていきますと全く新しい電子頭脳をつくることができます

1996.04.28.

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