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1966年03月 | ARCHIVE-SELECT | 1966年05月

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遊ばし手は遊び手

宇宙のすべてよ

お前たちは

私の中にあるのだよ

遊びたまえ 君たちよ

本当の遊びを

私を見てごらん

私の顔を


そのうちにお前たちも

遊ばし手の 私のように

遊べるように なるよ

宇宙をつつみ

すべてが一つに見える

ように なるよ


遊ばし手は 最大の遊び手

君よ 最大の遊ばし手になろう


花が わらい 鳥が 歌い

空気が 振動し

人が 広い心に

高貴な 温かいものに

見えてくる


警戒の すべてをやめ

相対の すべてをやめて

彼らを 宇宙のすべてを

包めるように なるのは

君には間近かだ


安心して

私の顔を ごらん

お前は 私より

大きいのだよ


1966.04.30.
 
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| 1966年 | 21:41 | TOP↑

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無時間と自由

無時間は無限大の

余裕である

無時間は無限大の

ひろさを有する


無限大の明るさを有する

あたたかさを有する

そして人にかかわりがあって

かかわりがない


ブラフマンの遊びが

遊びとなるのは

この時である

宇宙はその中に包含され

そして遊びをつづける


これが自由そのものの

すがたである


宇宙よりも大きく

遊びが遊ぶ

その姿こそ

汝である


神の権化は

かくして権化となり

人はかくして人となった


自由こそ我らがすべて

高貴こそ我らがすべて

そは 遊びそのもの


1966.04.30.

| 1966年 | 21:19 | TOP↑

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栄冠をあなたに

無時間と神実現

無時間と高貴 崇拝

無時間と宇宙の包含


無時間と永遠

無時間と遊び

無時間と遊びの遊びの

関係を

知りたるこの栄冠を

私はうけとるべきでは

なかった


もったいなくて

それを私は 姫金神に

ささげる


私をずっと守ってくれた

かくあるを得させてくれた

姫金神に私の修養の

幼き時からの友

見まもり手 助言者

そはカーリ女神ならんや


栄冠を 私への栄冠を

うけとりたまえ

これは 私のものではない

あなた自身のためのもの


遊戯が 私とあなたの間

にあったのだ


私は宇宙

私は宇宙

私は宇宙になりました


クリシュナもゴピーも

私の中にあります

ブラフマンも

マーヤも

すべて 私の中に

あります


1966.04.29.

| 1966年 | 09:31 | TOP↑

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無時間と実現

神にすべてをゆだね

先行さすことと

高貴 崇拝の神の本質と

遊びが遊びとして

人にかかわりなく

あらわれたクリシュナ物語

のように


――それと無時間との結合

その四つを

いかに 結び

いかに 神そのものを

実現するか


高貴の中に遊びがあるのか

遊びの中に 高貴があるのか

また無時間と高貴の

関係は――

その結論

いのちの解答がでた


それは無時間とは

遊びの遊びの状態で

あるが

無時間は人にかかわれが

あって

かかわれがない その性質を

有しているが故に

それにはあたたかさがある


生きてあるものであるが故に

人間との関わり合いにおいて

明るさ 温かさが

感じられると同時に

高貴さをもそれは包含する

遊びの遊びもそこから

出てくる

無時間は人間にかかわり

合いがなくて

かかわり合いがある

高貴も 遊びの遊びも

やわらかさも

無時間の中にふくまれる


無時間は 一切を

宇宙を蔵している

その無時間になる時

宇宙を包含することが出来る


無時間の高貴 遊び

やさしさ 温かさが

宇宙大の明るさが

かくして実現される


無時間の謎こそ

神実現の鍵である

笑う事も 泣く事も

言う事も 考える事も

神そのもののものとなる

無時間は余裕をもっている

1966.04.28.

| 1966年 | 21:23 | TOP↑

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差と不差(コンピュータの無時間と実現)

ある時 出来た実現を

いつも 再現しようと

こころみたが

あれ以来できなかった


岡山での 水のような

水の流れにも似た

実現が


しかし今 その再現の

方法を

みつけだした


それは 無時間の中に

自分を立てること

立つだけでなく

立って他を眺める

見るのである


そこに無時間と

時間との差が出てくる


無時間の中に住む状態から

時間の中に住んでいる人の

状態がはっきり

時間差 技の差として出てくる


その時 水の流れの如き静寂が

なお つよく出てくる

つねに 傍観者となる

そして 傍観者ではなく

そこにあって

そこを 超越している

超越においてはじめて

人にかかわりをもつ

そこからすべてが

本物となる

1966.04.24.

| 1966年 | 10:30 | TOP↑

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レンゲ草つみ

私は心がそう快で

外に出てから 山の頂きに

のぼりたかった


もう一つ 田んぼに入って

レンゲ草を つみたかった

タクール(ラーマクリシュナ)に供える首輪を

つくる為に

まず田んぼに入って

レンゲをつんだ

つみながら 私はすぐ

無時間の世界に

意識が入ってしまって

涙が涙が出てきて

泣けて泣けて

しようがなくなった


私のまわりの者たちが

私たちも連れて行って

下さいねと

すがる


私はうなづく

つれてゆけます

つれてゆけます

一緒に

無時間の世界へ


運転手は一人

しゃしょうが一人

お客が乗って

さあゆこう

私がつれてゆく

無時間の世界へ


タクールはレンゲで

かこまれて

はなやか うれしそう

犬の首輪にも

一つレンゲをさしてやった

一つを口にたべさして

1966.04.23.

| 1966年 | 19:40 | TOP↑

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蛙と天の露

遊びが遊びとなる

―――となった遊び

クリシュナよ

それへの タッチよ

月への 太陽への

タッチよ


人間に関係なく

かかわり合いなく

かつ人間の世に

姿を現わす

そして 人間に

おかされない

侵入されない


彼らは そこにある

天の露が

蓮の葉っぱに

玉なして

ころがる様に

水玉は

はすにも 葉っぱにも

くっつかず

関係をもたず

そこで遊んでいる


きよらかさ

純粋で けがれの

一つもない

天の露


クリシュナとラーダ

月と太陽

はすと露玉の

けがれをしらぬ

瞬間

永遠

無時間


けがれのないものの

遊びには

時間がない


無時間

無時間の世界

そうだ そこには

考えるべき対象の

人もない

それのみがある

玉の露


クリシュナの所に

私は嫁入りをしたい

出来そうだ

私はそこへ

行くよ


行けそうだ

クリシュナの所

やっと 解決が

きたようだ


鍵は無時間にあった

時間をこえないと

人間をこえることが

出来ない


あちらの世界へ

行くのだよ お前が

クリシュナ

永い間 お前は私を

人間の中に 時間の中に

おいやっていたね


これも遊びに来ていたのだが

やはり

鳥はねぐらを

こいしいと 言う


遊びが 遊び

さらに それが

時間の中に

ころがりおちて

人間となった


遊びと時間の中への

遊びとなったのだ


それが私だった

クリシュナよ

遊びの遊びよ

私はそれにかえるよ

無時間の中へ


やはりそこが こいしい

タッチなくとも

私は かえれる

私はそこからころがり

おちたのだもの


かえる路も知っている

露は又

あすの夜 おりよう

そして又 ひき上げよう

今はひき上げる時期だ

露の玉

1966.04.23.

| 1966年 | 16:13 | TOP↑

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遊びの遊び

久しぶりに音が

リズムが

生きものとなって

飛ぶ


歌うのは 私ではない

歌そのものが

歌うのだ

リズムそのものが

羽がはえて飛ぶ


私の実現は

その羽のつけねが

どうどこで

合わせるか

どの辺と どの辺を

どれをどう

くっつけるか

それを捜している

羽が生えて 実現が

完成するのを

心待ちにさがしている

いつかそれはなるだろう

近い中に


歌が リズムが

自分自身で歌うように

実現そのものの本体が

遊びと 高貴と

遊びのあらわれとの

その辺に


いのちをむけ

活動をおこさすのだが

それがうまく

くっつかない


そのいのちのむける

焦点が……

まだつかめない

クリシュナ物語が

人の為にあるのではない

という

そのあらわれを

実現する事

人にかかわりのない

ものとして


実現

それは間近だ

説教や経典から

無縁で しかも

人からも無縁の

天の状態を

地にあらわすということ


あらわすというのではない

あらわれる遊びが

遊びとして 飛び出すこと

いのちをあたえ

羽をはやしてとばし

実現させるもの

それは遊びの

遊びである

1966.04.22.

| 1966年 | 18:49 | TOP↑

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思惟と霊感とはちがう

思惟は 思いをめぐらせ 

考えを 深めてゆくことであり

思惟は 天使のこえを聞き

ながら

意識の深みに もぐること

である


霊感は 意識することでなく 

感じることであって

後に 意識されることである


霊感は 宇宙のいのちの泉に

ふれ 飛び込み

その泉の 噴出とともに 

自己の霊が 飛び出すこと

である


霊感は 思惟の後に来る

そして 思惟を超越している


1966.04.17.

| 1966年 | 21:51 | TOP↑

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全世界の人々に

全世界の人々に 

この幸を 

おわかち与え下さい

永遠無限なる この幸を
 

おお ラーマクリシュナよ 

未来永劫に この幸を

苦しめる人々 

悩める人々 

ひしがれた人々に

力を たすけを 

なぐさめを 

お与え下さい


あなたの光輝を

あなたの一言を

ひとふれを


人々はどんなに

力を 勇気を

うるでしょう

どうか 主よ

私にたまわった この幸と

等しきものを


1966.04.14.

| 1966年 | 09:27 | TOP↑

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