FC2ブログ

1975年07月 | ARCHIVE-SELECT | 1975年09月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

神と人間

あるところに 大変信仰深い一人の男がいた 

ところが彼は 何を思いたったのか 

今まで ていねいに拝んでいた神像や 

神の写真を 壁からはずしはじめた 

そして箱に しまいこんでしまったのである


するとそこへ その神が姿をあらわし 

その男に言った

「お前は一体どうしたのだ 

今まで 私を信心深くおがんでいたのに

もう私を 拝まない気なのか」


すると 男が答えた

「神様今日まで あなたを拝んでいましたが 

私はあなたより もっと偉大なお方を見つけたのです

それで私は……」


もっと言おうとする彼を さえぎって

「何という事だ

私より偉大なものを見つけたとな……

それは一体何者だ」


「ハイ それは神でもなく 

人間でもありません

神様よりもっと偉大なお方……」


「分かった もう言わなくともよい 

私にはよくわかったよ 

お前は ブラフマンを発見したのだな 

ブラフマンは 神や 人間や むろんこの宇宙が

生れる以前から あるものだ

我々は そのピュアーという ブラフマンから

生れたのだよ」


「さようでございます 

わたしは あなた以上のものが

この世にあることを 知っていました 

創造もなく 破壊もなく はじめも 

終りもないもの……

そして 神という名称もないもの

それには手も足も眼もなく 

我々のような知識など……

それに到達することが 出来ないもの

ブラフマンを 存じておりました」


「そして どうした」


「はい 私はそのブラフマンに 合一しようとして

あなた様に 信仰深く 愛をささげて おりました

そうすれば ブラフマンに 合一出来ると

教えられていますから……


すると ある日 おがんでいるあなた様も 私も 

むろん 他の人々も 消えてしまって

そのブラフマンが
 
私の中に 入って来てしまったのです


その時の自分のことを

どうして そんな事になったのか……と

後で考えてみても はっきりしませんが 

どうやら私は

相対であるいろんな眼の前のもの

あなた様もそのうちに入るのですが

それを相手にせず

しかも 自分も 相手にしないで

ただ茫然と 空を見ていたのです


あの時は夜で 空には星が 一杯きらめいていました

そしたら その天から ブラフマンが 私の中に

流れこんできてしまったのです 


私は 涙もなく 

ただそのものに なりきってしまいました

頭の中には 『ピュアー』という

言葉が のこったままでした


それからというものは 私はこの肉体の私を

私と思わなくなってしまったのです 


それと同時にあなた様をも 

考えなくなってしまったのです

どうしましょう 神様」


「そうか それはよかった

実は私も お前のようにそうなりたいのだよ

ところが お前たちが 

私の名を 呼んで拝んでくれるものだから

つい お前たちの所に 

その願いを きいてやりに来たり 

拝んでもらいに 来たりしていたのだよ 

お前はいい事をした……」


「あなた様のお陰です」


「いや 私のお陰ではない 

お前自身が 一生懸命ブラフマンを

実現したいと望んだからだよ」


「………………」
 

「これから お前と私は どうなるのかね」


「神様 私はもう 私がないのでございます 

また 相対であるあなた様も 

ないのでございます」


「それはわかる それからどうするのだ」


「どうするとおっしゃっても 神様 

私はあなた様を 拝みたくないのですから 

いたし方ありません」


「そうか お前もなければ 私もない 

そしてこの自然界の 一切も

お前にはないのだ 

それはよく 私にもわかるよ」


「それから神様‥…しかしですね 

あなた様の おっしゃりたいのは

こうなんでしょう‥‥‥


すべてはなく ただブラフマンだけだ…‥

しかし ここにやはり 私の肉体があり

神様があり 自然界も厳然とてある 

それをどうするのか……

そうおっしゃりたいのでしょう……」


「そうだ その通りだ」


「そうですね神様 そうなったら 

我々は 我々で

もう遊ぶより他 ありませんね」


「そうだな」


「どんな遊びを すればいいのでしょうね

このブラフマンの実在に

とりのこされた 幻の私達は」


「遊ぶのだよ 

お前もないし 私もない‥‥いいか

何と明るい事ではないか

今まで お前だ 私だと

かかわり合ってばかり来ていたね


それより お前も私もなくなったら

気楽になるじゃないか

幻は幻たちで明るくさ(ハーイ)と言って

言葉をかけ合おうよ」


「なる程 そうです神様」


男も 神様も 急に明るくなった 

そのとたん 言おうと思っていなかったのに

「ハーイ」と言えてしまった


二人はほほえんだ 

神と人間のさかいが 無くなった

二つをへだてていた 河の堤がこわされてしまった

二つは 一つとなってしまったのだ


しかし もう一つ ピュアーなるブラフマンと

彼等との関係が その遊びの中で

どうなるのか わかってこなかった 


「『ハーイ』と言えても それからどのように

遊んだらいいのか わからないよ」


「そしたらやっぱり こんな事は

天のピュアーに たずねましょうよ」


「そうだ そうだ お前は時々 すばらしいことを言うね」


二人は天のピュアー 自分たちの故郷にたずねた 


しかし天のピュアーは 何も答えず

ただ ピュアーとして輝いていた


「チェッ 薄情だなピュアーは

我々この幻であるものを 産んでおきながら

何も答えてくれないや 

しかし しょうがないよね

ピュアーには答えることなど ないのだものね」


(二人だけで……いや仲間を みんなよんでこよう)


二人は神々をよんだ

木も 石も 山も 自然界のものも 星々も

集まってきた


「おどろうよ!」 と誰かが言った

「そうだ そうだ!」

神は舞を 舞った 

マーヤ舞という舞だ


   天に 守られておりながら

   天に関われない我々

   しかし 天にかえる事が出来る

   そして 天そのものである

   天よ ピュアーよ ブラフマンよ

   我々に 歌い踊り 舞うだけの 

   楽しみを与え給え


神々は あるだけのことを 楽しもうとした

なかには おへそを出し 衣を脱ぎ捨てて

踊るものもいた 

人間もやけになって

踊り狂った

山も 木も 石も ころげまわって踊った


けれども 一向に面白くなかった

とりのこされたマーヤ(幻)のものたちは

天に帰ることを 欲した


神 神々も 

今までもっていた神 神々という名称をすてた

人々も 山も 木も 石もそれにならった

マーヤという意識もすてた


ただ一つ 天には ピュアーのみが 

輝いていた

東洋も 西洋も 地球も 星々も

むろん消えてしまっていた

ただ一つ

天のピュアーの輝きがあった


しかし その輝きの中から「ハーイ」という

声が ひびいて流れてくる様だ

何に向って 「ハーイ」と言っているのか 

それは 誰にも 分からなかった

‥‥‥‥‥


――時がたった

しかしその 「ハーイ」の声が

いつまでも続いたので 

天に入ってしまった神 神々 人間 山 木 石達が 

顔を見合わせて 「ハーイ」「ハーイ」と

言ってしまった 


自然界も 星も「ハーイ」と言って

もと通りに あらわれている自分に

気付いた


彼等は もとの形になって

現れていたのだ


彼等は それから「ハーイ」という

言葉を忘れなかった

彼等は 「ハーイ」の声の中から

ピュアーとして 飛び出して来たのだから……


神々は 神々の座におさまった 

人間は 人間の座におさまった

山は もとの山になった


しかし 以前の彼等ではなく 

いつでも どこでも「ハーイ」と お互いに言い合った


男は 以前のように

神々の像や 写真を部屋にかざって

「ハーイ」と言った

神々もにっこり笑って 「ハーイ」と言った


すべてが「ハーイ」と言って よろこび立った

地上も 天界も「ハーイ」の声で みちあふれた

天のピュアーは 満足げに輝いていた


1975.08.29.
スポンサーサイト

| 1975年 | 10:36 | TOP↑

≫ EDIT

ピュアー瞑想

この肉体の中にアートマンがあろうがなかろうが

私には関係がない

たとえそのアートマンが輝こうが 輝くまいが

私には関係がない


天のピュアーが 我々の故郷だから

ピュアーだけが 我々を助けてくれるのだ

自己の努力で 自己実現しようと苦しまなくとも

実現はそこでは くるのである


そこではいかなる人もすべて

救われ 実現されるのである

我がアートマンの輝きや

信仰のあつい うすいには関係がない

そこでは すべてのものが

受け入れられているのだから

心配する必要はない

安心して ピュアーを瞑想せよ


ピュアーに到達し

ピュアーが我々の頭上を通して

背骨の中に流れ込んでくると

我々の小我はこっぱみじんに

くだかれてしまう

「ピュアー」


そのピュアーにタッチするには

一つの道 知識の道でも

バクティの道でも 何の道でもない

ただ夜空の星を眺め 

戸外で茶をのみながら

くつろぎながら 語らいながらでもよい

星を眺め 星のもっと彼方にある

「はじまり」にまで

意識をのばしておればよい


いつかその宇宙の「はじまり」に

我らの意識がぶつかる


1975.08.25.

| 1975年 | 10:27 | TOP↑

≫ EDIT

ぶつかった者は

自分にかかわる事自体が

相対である

自分にもかかわらず

天のピュアーに定着させていると

誰にでも 「ハーイ」といえてくる

風のようにフワフワしてくる

心がうきうきしてくる



ピュアーには私がない

むろん あなたもない

ただ天のピュアーが あるだけである

私とか あなたとか 神とかいう

相対はすべてない

ただピュアーだけがある


ピュアーには所有がない

ピュアーは聖 光輝 明るさ

礼拝 祈りのような

形のない形であらわれてくる

だがピュアーは それらではない

ピュアーは人の間では人と人が助け合って

仕事をするようになる


ピュアーには所有も私もあなたもない

むろん 私はあなたの為に

あるのでもなく

あなたも 私の為にあるのでもない

その私もあなたも消えるのである

ただ 「ピュアー」だけがあるのである


ピュアーな私も ピュアーなあなたという

相対もない

ピュアーはピュアーとして一つ

あるだけである

これは 単数でも複数でもない


星を見よ 星の彼方を見よ

星の光と時間が媒介となって

我々の意識が彼方の最極点の

「それ」とぶつかる


ぶつかった者は

そこでこっぱみじんとなる

知が消える

ピュアーのみとなる


太陽にぶつかった小鳥は

消されてしまうように

自己がなくなる

私もあなたもない

ただピュアーのみがある

それをインドではブラフマンという


それは神でも 神々でもない

むろん私でもあなたでもない

ただそれだけがある

それは宇宙ができる以前から

あるものだ


1975.08.23.

| 1975年 | 12:56 | TOP↑

≫ EDIT

東洋はまちがっていました ――東洋と西洋の覚醒――

東洋はまちがっていました。

東洋の長い間の約5、6千年間の宗教思想はあやまちをくりかえ

してきました。

しかし全然そこに、良いものが無かったわけではありません。


私は 30年間の宗教思想体験の結果、最後にリグヴェーダに到

達しました。

こんなすばらしいものがアジアにあったのか、と驚きました。


しかしそれは私にとって、これ以外にない救いの星となったの

ですが、それへの道……それを実現するための方法が、すべて

断たれている事に気付きました。


インドの大昔に、ヴェーダの時代というのがあります。

そしてその初めに、リグヴェーダ時代というのがあります。

リグヴェーダというのは、霊感的詩人達によって書かれた宇宙

讃歌であります。

そしてその詩を書いた当時の人の「心」は、とてもすばらしく

ものすごく澄み切っていました。


この美しい心を現代人がもしとらえる事が出来たら、この混乱

した知的社会の悩みを解決することが出来るのであります。


ところが私はそこで一つの壁「不可能」という壁にぶつかりま

した。

なぜなら我々現代人の脳細胞は、大昔の美しかったものから、

次第に知的になり、けがれてしまっているからです。


それは数千年の歴史をもちます。

その数千年のけがれのギャップを、どうして埋める事が出来る

のでしょうか?

それはとうてい埋めようもありません。


思えば……インドも同じです。

そのリグヴェーダ当時は人々の心はきれいでしたが、時代が下

るにしたがって、多くの悩みと質問にみちてきました。


そして、それに多くの解答が与えられて来ました。

ウパニシャッド時代というのもその一つの時期です。

このようにしてインドは、哲学的宗教思想を展開し現在にいた

りました。


それは霊感的神秘思想だとはいうものの、やはり知識的矛盾論

を積み重ねてきています。

インドばかりではありません。

現在の文化人と言われる人々すべてが、とりかえす事の出来な

い大昔のあのきれいな心をもっていません。


その「失われた心」を、どうしたらとりもどすことが出来るの

でしょうか……。

これは知識では、とりもどすことが出来ないのであります。

けがれた頭では、とり戻すことが出来ないのです。


教典でも、説教でもむろんだめです。

神、信仰……それでもだめです。

それには只一つの環境が必要です。


何も考えず、神のことすら考えず、ただぼーっとしてのんびり

憩える環境です。

何の緊張も与えない環境です。

しかも……何千年もの昔の雰囲気がただよっている様な土地で

す。


そしてもう一つ、大切な条件があります。

……星がよく見える所であります。

私はそのリグヴェーダ時代の人々の心を、さがし求めていたちょ

うどその頃、インドのアジメールの片田舎のホイサガールとい

う湖のある村に住んでいました。


そこで私は、一つの賤民への奉仕活動のための無料診療所をもっ

ていました。

仕事は他の者にまかせて、私はその神話にみちたような空気の

中にひたっていました。


昼は安楽椅子にもたれ憩い、夜は星夜をながめて、夜のふける

のも忘れていました。

幸いにもそこは、数千年昔の雰囲気を残しているすばらしい所

でした。

クリシュナ神がそこに、そしてその笛の音が聞こえてきそうな

所でした。


このような、いい環境で2カ月いた時、ある朝突然私の意識が

この宇宙をとびこえて「根源」に(梵 ブラフマン 絶対)に

ぶつかってしまいました。

永年求め続けてきた梵我一如(根源との結合)がやってきたの

でした。


星空のはるか彼方、ブラフマンから「ピュアー!」というひび

きと声が聞こえてきたのです。

それでブラフマンとは、ピュアーというものだと判ったのであ

ります。


今日まで仏教では、それを無とか空とか名付けられ、ヒンズー

教では「否否否」と、それでもない それでもない ……お前

たちの頭では分らぬとされてきたものが、見事人間の前にその

ベールを落とし、姿があらわされたのであります。


「ピュアー」「ピュアー」

……これが宇宙根源の性質 本性であったのであります。


これはやはり毎夜のように星をながめ、意識をその星の彼方―

ブラフマンにまで飛ばしていたからであります。


ピュアー ピュアーこそ私が追い求めていたリグヴェーダ当時

の人々の「心」であったのです。

その心を得るための方法が、ここに見事に発見されたのであり

ます。

……今まで不可能と思いこんでいた数千年のけがれのギャップ

を埋めることが出来たのであります。


これさえもてば人類は救われる……真の人類の未来を築くことが

出来るのであります。


それから私は日本に帰ってから考えました。 

なぜ星を見ていたことによって、宇宙の根源(ブラフマン)に

到達することが出来たのであるか……?

星と人間との関係は一体どうなってのか?

結論はこうでした。


ブラフマンとの結合は、宗教で得られるのでなく、我々の頭の

コンピュータを改良しなければならない。

しかもそれが、光速化しなければならないのだと判ったのであ

ります。


時間です。

速度です。

それが我々を救ってくれるのです。


我々の頭に1秒間の100億分の1の間に起きる事物を観察する

能力が出来なければならないのです。


星を見て頭を光速化した私は、それから物理学の奥にある幾何

学の世界が見える自分になっている事に気付きました。

頭が大分よくなったのです。


そしてちょうどアインシュタインが「宇宙は膨張している」と

言っておきながら「宇宙は静止している」と言い直しているよ

うに、相対的世界から一元の世界へ入る道筋が分って来ました。


このように見える相対の世界の奥にある幾何学的構造の世界に

入り、一元の世界に突入するためには星を見て我々の頭のコン

ピュータの回転を、光速化させねばならないのです。

ピュアーな人間、シャープでしかも明るい人間はこうしてつく

られるのであります。


「ピュアー文明」……これからは「ピュアー文明の時代です。

そんな時代がやって来たのです。

人類が夢にも思わなかった精神文明、機械技術文明……そして

その次にくるピュアー文明というものに、今遭遇し始めている

のであります。


私は以前から、アメリカ人のきれいな眼に魅せられていました。

一度はアメリカに行って、アメリカ人を研究したいと思ってい

たのです。

……ところがアメリカに来てみるとびっくり――どこを向いて

も誰を見ても、東洋人がさがし求めてきたあのきれいな「ほほ

えみ」に出くわしたのです。


どうしてこんなきれいな人間が、このアメリカ大陸に出来上っ

たのか?

それはそれは、驚きの一言につきるものでした。

ピュアー、ピュアーがそこにあったのです。


リグヴェーダ当時の心にも似たものが、そこに展開しているで

はありませんか。

私のアメリカ人研究が、この驚きを発端として始まりました。


それにはやはり鋭い観察力が必要でした。

しかし幸いなことに、物理学の奥にある構図の世界にまで眼が

届くコンピュータは、それを容易にしてくれました。

これもすべて星を見ていたおかげです。


アメリカにヒッピーが誕生しました。

1960年代は性への目覚めの時期でした。

そして性以外にもある硬いもの、真面目くさったものへの闘い

の時期でもありました。


若い人々は明るいもの、明るいものへと眼をむけはじめました。

1975年、私はアメリカに上陸したのですが、アジアとちがって

明るい風景のみが眼に映じました。


老夫婦が手をつないで道を歩いています。

中年の夫婦も若い人々も、むろんそうしていました。

車の中にいる男女が別れる時にキスしていました。


公園にいっても人々は自由に様々なことをし、ほとんど裸の

男女が寝ころがっているかと思えば、キスしあっていました。

靴を手に持ち、わざわざ素足になり、オヘソまで出してブラ

ジャー姿の女性が歩いていました。


また誰と出会っても「ハーイ」とあいさつを交わし合います。

日本でしたら道を通る人々は、知った人以外はあいさつをしま

せん。


特に驚いたのは、若い男女が長い間キスをし抱き合ったまま、

立っているのを見た時でした。

日本では戸外でキスするとか、ほっぺにキスすることはありま

せん。

なぜなのでしょう!?


アメリカ人は他人のしている事に関心をもちません。

どんな服装をしていても、見たりふり向いたりしません。

人を信用していますし、学歴、職業を問いません。

どんな職業をしていても、人を見下げません。

男性は上半身裸でいる人が多く、女性もブラジャーとショート

パンツといった気軽な姿です。


こういうピュアーな心をもったアメリカ人が最近、物質文明の

ゆきづまりから東洋に眼を向けるようになりました。

しかしこれはアメリカになかった神秘主義や芸術に関心をもっ

たのですが、今では余りその関心をもたなくなっています。


それはそこにある矛盾と、封建制と暗さにがっかりしたからだと

思います。

なぜならアメリカ人の心は明るく、ピュアーでシャープだから

です。


アメリカ人は、東洋にあるような哲学は必要としていません。

なぜなのでしょう!!

彼等には、もっとはっきりしたした哲学が一般生活者の心の中

にしみわたっているからです。

それは何なのでしょうか?


東洋には権威主義、階級制度というものが残っています。 

アメリカには、そんなものは少しもありません。

威張っている人が一人もいないのには驚かされます。

特に日本の男性は、威張りたがります。


インドには「グルに仕える」という思想が残っています。

またグルの足をひざまづいて拝みます。

それが尊敬のしるしです。


アメリカで私が、東洋の僧侶たちは尊敬されたいと思っている

と書いたら、アメリカ青年の一人がびっくりして「それは本当

か それは本当か」と何回も私の顔を見て問い返しました。


人間は誰も同じであり、上下はありません。

誰が誰を見下したり、尊敬したりすることがありましょう。


アメリカ民主々義は「すべて同じ人間である」ということを教

えます。

そしてその上、各自が独立する事を教えます。

他にたよらず、他に関心を持たず、しかもすべてが兄弟である

ことを教えます。


第三代大統領の時に、親の財産を子が継ぐことを禁止しました。

全ての人が一から裸になって働き、自分の力で生きてゆく健康

で明るい道がさし示されました。

私もあなたも人間……私は何かを尋ねるのでなしに「私は人間

である」と直接に自身を見てとる瞬間的ひらめきを、彼等は身

につけはじめたのであります。


彼等の頭はシャープになりました。

いつまでも問いを発してくだらぬことを言っている者は、頭が良

いように思えても実は頭が悪くなっているのです。


問いかける暇を彼等はもちません。

すぐ実践にうつります。

彼等は前へ前へと進みます。

失敗をおそれません。

決して後ろを見ないのです。


私がある老婆に「あなたはどこから来たのですか、もとはどこ

の国の人ですか」と尋ねたら、「私たちには過去はありません」

と答えられました。

これです。


彼等には過去がありません。 

ただあるのは未来だけです。

未来の明るさを彼等は夢み、それへと前進してゆきます。


アジア人は過去から物事を判断してゆきます。

「それはいけない事だ」とか「それはよい事」とか。


アメリカの西海岸にブラウン教授という人が住んでいます。

彼が言っています。

「私は私 あなたはあなた 

私はあなたの為に生きてきているのではありません 

また あなたも私の為に生きててきたのではありません

それを理解した者同志が一緒になるのならどんなにすばらしい

人生を送おくれる事でしょう」


これはエゴイスト的な考えでなく 各自が独立する事を教えて

います。

よりかからずに一人が一本ピンと立って、そのピント立った人

と人とが寄り集まって生活してゆきましょう……という力強い

生き方を教えるものです。


人間が自分とは一体なんなのかと問うていると、いつまでもそ

の問いを続けねばなりません。

そしてそれを求道という美名にかくれて、いつまでも問い続け

ます。

その者はしまいに、うっとうしい眼付きの人間となるでしょう。


アジア人は大体に眼付きがよくありません。

疑い深い眼、物を深刻に考え込む目、他人を信じず他人のいう事 

考えてることに批判の眼をもっています。

眼にほほえみがありません。


シャープな頭の人は、そんなつまらぬことを考えません。

彼等はアメリカ大陸にわたって来た時には、やはりアジア人と

同じく考える人でした。

しかしこのアメリカ大陸に来てからの彼等は、そんなことを考

えている暇はありません。

いつも身が危険にさらされていました。


そしてみつけたものが「我々は同じ人間ではないか けんか 

奪い合い にらみ合いはよそう」ということでした。

同じ人間じゃないか そうだ人間なんだ……と直接的に「人間」

であること、お前も人間なんだという同一の性質(同一性)を

見いだしたのであります。

即ち相対的な見方がなくなっていったのであります。


人間が、自分が「人間である」と知ったとき、そこから人間の

第一歩が始まります。

神とは何か、宇宙とは何か、人間とは何かを尋ねるのでなく、

かれらは自らを発見したのです。

これが自己発見です。


アジア人は自己実現をするために、自己を問いつづけますが

いくら問いつづけても、知的反応の世界をうろつくか何かを

みつけて自己陶酔的になるかです。


それは、知識と哲学と瞑想と信仰の遊戯をくりひろげるばかり

です。

意識神経がいつまでたっても時間と光速をこえることが出来な

いのです。


私はアメリカに来て、アジアの思想を教えようとしてやって来

ましたが、アメリカを見習うべきだと知りました。

何故なら彼等の神経にはスピードがあることを知ったからです。


これからの時代は宗教教典の中をうろつく時でなく、暗くなる

ような顔をもつ時代ではなく、聖者をほっして聖なる道を分け

入る時代ではないことを知ったのです。


光の速さ・時間と空間・質量とエネルギー・我々の細胞コンピュ

ータ、そんな時代でなければならぬことを知りました。

アメリカ人のあのほほえみ。

それはまさしく光速にも近い意識神経によるものです。


物理学の世界から幾何学の世界へ――三次元的宗教から四次

元的宗教へと時代はすすんでゆきます。

アメリカも欠陥はあるでしょうが 学ぶべきところはアジア

人も自己の権威を捨てて学ばなければなりません。

アジア人のためにも 全人類のためにも……。


そんな姿勢になれば、アジアにねむっていた眠って祖先から

の念願が、また世界の人々の注目をあびて人類的にほり出さ

れる日がくるでしょう。


星です。

星を眺めて下さい。

そしてアメリカの明るさを眺めて下さい。

アメリカの悪口を言っておればいっておるだけ、我々の進歩

は遅れます。 

ピュアー文明が来つつあるその夜明けの目覚めに、遅れをと

らないようにして下さい。


特に若い人たちが。


1975.08.23.

| 1975年 | 11:11 | TOP↑

≫ EDIT

消えてゆきます

消えてゆきます

消えてゆきます

いろんなものが

消えてゆきます


眼に 見えているものが

見えているのに

消えてゆきます


ピュアーが 一切を占領して

しまいました

涙が 涙が あふれてきました


私は 顔を両手でおおって

ひたいをかき

涙にむせびます


ラーマクリシュナが 近づいてきて

私の中に 入ってきます


私の中に 入ってしまいました

黒い 細い細い ラーマクリシュナでした


私は こわいものを見るように

眼に見える 前方の物から

一歩 一歩 身をひきました


眼に涙を 一杯ためて

額を両の手で かきむしりながら

うしろに たじろぎます


前面のものが 消えてゆく

その 驚きに会って

私は 口を開いて泣きました

涙は 口につたい入りました


声を出して私は 泣きました

ピュアーがすべてを のみこみます

ピュアー以外に 何もありません



(翌23日に記す)

この 「消えてゆきます」

の詩を書いたすぐ一時間ほどあとに その詩の

心境の一部(前半)はよいが 一部(後半)が

間違った心境であることが わかった


私はいつも 涙でもって判断する 

恍惚に入っても 涙の出るのは 間違った世界に

入ったときであると………それは相対の世界での

恍惚であるから 感激があったり 感涙が出たり

するのである


それでこの詩で 「前方のものが 消えていった」

のは相対のない 感覚世界とはちがう一元の世界に

入った状態である 


ところが「ピュアーが一切を占領した」というところ

から間違って来ている


これは非常に微妙なところで この微妙な間違いを

とらえるのは なかなか出来ないのである


ところが 私には(涙を流した時には間違っている)

という基準がある 

この詩でも見る如く 私はここで 涙を流している 


それで この詩を書いた直後 私は これは 一寸

間違った方向に入ったのではなかろうか……なぜなら

涙が出たではないかと 気付くにいたった


そこでよく考えてみると その欠陥がばく露されて来た

それは 次のようなことであった


――人間というものは大体に 自分をよく見せたいとか

よく見たいという そういう意識を 奥のほうに もっている 

そんなものを 持っていないとしても 自己に何等かの

価値を おきたがるのである


こういう潜在的意識というものは 自分ばかりでなく

この見え触れる 「有」の世界にも 何らかの価値をみたい

というものがある

そのそれが 涙の原因になっていることがわかった
 

はじめの方の詩では 見ている眼の前の物が 一切消えてゆく

のを感じた


これは 宇宙の本性である「消えたもの」を 見た時であって

そこまでは 調子がよかったのであるが その後すぐに

(有の世界にも何らかの価値を見たい)という 潜在意識が

とび出して来て すぐこのマーヤである「有」の世界に価値を

置いている


マーヤも 実のところは ブラフマン(実在)であった…‥

というように



すなわち 有の世界は 幻の世界でなしに ブラフマンで

あったのだ……と価値付けている 


ブラフマンであると 見るのはよいが 価値付けているところ

がわるい 

消えてあるものには 価値などないのである


それに 「価値」をおくことによって よろこび…‥感激…‥

(ああ そうだったのか!)と 感涙にむせんでいるのである


だから 涙の世界に入るのである 

涙の世界というのは 情感の世界である 



知 情 意をよせつけない「消えたもの」は 感激や 感涙で

あつかっては ならないのである
 

だから自分は 一寸うっかりしている間にそんな潜在意識的な

ものに 潜入されて 泣いてしまったのである…‥ということ

がわかった

ここで言われているピュアーとは ブラフマンのことである



我々は ブラフマンに 合一せねばならないのだが…‥自分に 

神に マーヤ界(幻界)に ブラフマン(絶対)に 価値をおいて

考え勝ちなのである 

気を付けねばならない


1975.08.22.

| 1975年 | 20:37 | TOP↑

≫ EDIT

時間制の神秘

ご神殿の灯をともそうとした

灯の火がまだついていないのに

灯の火のついた時のことが

急に眼に映った

その時インスピレーションが何かにふれた

私は それを追った 何に 今私は

ふれたのだろう……?

時間制にだろう……

やっと何かの糸口がつかめた様だ


私が神殿に行って拝もう

灯をともそうとしたのは

――以前から私はピグミー族の言葉に

過去形と未来形のないことを

つねに気にしていた

それを私は何かの時に 何かの形で

実現してみようと……思っていた


そして今 その事を考えて

よし この過去形と未来形のない言葉を

今だに使っているという

その 神秘な心をつかみたかった

そしてそれを現在の文明社会に

活用してみてやろう


これは自分がやらないと

誰にもやれない

よし やってやろう……と

その神秘の中にもぐろうと

決心した時のことであった

そして御神前に すすみ

入ったのであったのだ


こうしたことで その灯をともそうとした

その時のことであったことと

この不思議とが一致している

ことがわかった


ともそうと思っただけで

ともっているという事は

もう未来がここに来てしまったのである

すると 過去も未来もこの現在に

ちぢまってしまうのである

私はそういう次元にとびこんで

しまっていた事がわかった

そういう何かにふれたのである

私はその灯のついていない

ローソクを見て考えた

……そうだ やはり平面立方の問題と同じだ

カウダストアワーと同じだ


灯をつけると その途端

もとの次元でなくなる

灯をつけると もっと明るくなる

夜ならば闇は灯に照らされるであろうし

昼でもっとそのあたりは

少なくとも 灯のまわりだけでも

明るくなる

これは一体何なのか……

…………


時間制がかわったのだ

破れたのだ

朝でもそうだ

太陽が上がると闇が破れる

それは徐々に


しかし マッチでローソクの灯をつけると

一瞬にして次元が変わる

……これは一体何を意味しているのであろうか


灯がつけられたとすると

そこはどうなるだろうか

神殿は更に神秘化するだろうし

神性化する

これは一体何なのか


それでは 今からローソクに

火を点じてみよう

何かがみつかる


灯をともしてみた

そこに何があったか

――「現在」しかないものがあった

過去も未来もない 「現在」だ

「現在」がそこに静止して

灯の火とともにゆれて

静止していた


我々の持つ現在は現在しかない

現在である

だがアフリカのピグミー族の

現在には

過去も未来も同時に存在している

彼等には三つに分れた時間制はないのだ

つねに悠久の一つの世界に

住んでいるのだ


我々はつねに過去と現在と未来の中に生きている

現在は現在で悠久ではない


彼等には灯の火がついていなくても

火がすでにつけられている

つけようとした時には

すでについている現在である

時間的に来る未来は

彼等の中には無かった 


インド人の言葉の中にも

明日も昨日も「カル」という

一つの言葉で表わされる

その前後に過去形や未来形が

くっつくであろうけれど

それらには 関係がない


「カル」は明日でもあり 昨日でもある

明日でも昨日でも 彼等にとっては

関係がない
 
即ち 二つのものではないのだ

明日と昨日とが入れかわって

うけとられても


彼等の生活には

たいした問題ではない

彼等はもっと ちがった所で

いきているのだ


1975.08.21.

| 1975年 | 13:46 | TOP↑

≫ EDIT

人間とは―犬・猫・蟻・モグラ――

犬と猫と蟻とモグラがいた

彼等は或る日

人間とは どんなものか……

について 話し合っていた

蟻は言った

人間はどえらい大きいもので

その大きさがわからぬ

すると犬は言った

いやそんな事はない 人間は我々より

一寸大きいくらいで

二本の足で歩いている

すると 蟻は

人間は足が何本あるのか 見当がつかない

たぶん我々のように

足が六本か 八本か……それ以上だ

……なぜなら 我々より歩くのが

すごく速いから……と言った


或る時 人間が犬と猫と蟻とモグラと

神について考えたとしよう

するとそれぞれ ちがった事を言って

人間は人間流のとらえ方をした

そして神についての 本が書かれた

それが聖典である

神とは こんなものだそれに対して

我々はこうせねばならないと

それに書きつけられた


ここに二つの星がありました

その二つの星は 離れて行きます

……一つの星から見ている人が 言いました

あちらの星は遠ざかって行く 

……これは宇宙が膨張しているからだと

もう一つの星の人も言いました

あの星は遠のいて行く

……これは宇宙が膨張しているのだと


それは見ている者と 見られている者との

二つがあるから

距離があり 時間があり 空間があるので

他を見ている自分の 視点 位置づけをなくすと

それらはすべて消えて行きます

神すら 消えます


感覚的世界に 住んでいる人間は

このように 間違ったことばかりを考えて

そんな事を 教えてもらって

間違った生活ばかりしているのでは 

ないでしょうか


事実そうなんです

とモグラが言った


1975.08.20.

| 1975年 | 23:25 | TOP↑

≫ EDIT

相対の世界

あなたのいる世界は

感覚の世界だ

今あなたが 物を見

今あなたが 神を思い

今あなたが 聖典をひもとき

今あなたが 真理を思っているのも


感覚の世界にいる

感覚の世界にいて

あなたは それらを見

それらを 感じようとしている

又 感覚の世界にいるが故に

それらが あなたの前にあるのだ

即ち 感覚という机の上で

ものを考えているに すぎないのだ


そこでは 物はあなたの前にあって

あなたも そこにある
 
肉体をもっている自分を

意識している自分がある

それは 感覚の世界にいる自分だ


いくら瞑想をしても

瞑想しようとしている事は

自分があるからだ

それは感覚という平面の上にいて

している事だ

平面の上にあなたはいる

感覚という平面の上に


その感覚という平面の上に

いる以上

あなたはいたずらに時間をついやして

神を考え 実現を考え

聖典の教えを考える


これはその 平面の上にある

平面の上にある以上

それは教条主義とか 修正主義とかの

たぐいに ひとしい

その世界で あなたは

ぐるぐる廻いしている

そこには 神があり

あなたが ある


もし神が究極のものであるなら

その神を考える

或いは見ようとする自分が

消えねばならない


自分があって 神がある以上

それは平面 即ち

感覚の世界の中にいる

感覚の世界の中にいる以上

いくらよさそうな事を考えても

いくらこの宇宙から 超越したかの如き

考えを いだいたからとて

それは 平面上の芝居 

あがきに すぎない


そこで 我々は その平面上での

その 「あがき」の行為をやめねば

いつまでも いたずらな事を

繰り返す


神は一つだとか 又は 沢山だとか

神を拝まねばならぬ とか

様々なことを考え

自分に強制し

それらを行う

この神と人間の関係を

とらえたこと自体が

感覚的である

それらは 平面上に

ひろげられた様々な品々にすぎない


経典はそうして

様々なことを 人間に教える

こうしなければならないのだと

……高級な品々を

平面の皿に盛る


しかしそれは いくら

聖らかで 高級であるかの如く見えても

やはり平面上の皿に盛られた

果物にすぎない


人間はその果物を

食べたが故に

知識が湧き

イブとアダムの時代から

下界に転落したのである

即ち 感覚世界の

「まよい」という世界に

感覚は人間の頭を

どこまでも くらます

我々はこの感覚の世界から

抜け出さねばならないのである


月があり 星があり 太陽があり

宇宙が この我々の前にある

このように これらがあると

とらえるのは 感覚である


神があると とらえるのも

感覚である


ではどのようにして

この感覚の世界から

抜け出せるか

その皿の果物から

抜け出せるのか


それには 頭でものを

考えるのでなく

背骨の神経で

感覚の世界でない

世界を知らねばならない


その世界は動いている世界ではない

その世界は「静止」している世界だ

その世界には一もなく二も零もない

ピュアーな世界だ


そこには 神という名のつくものもない

むろん我れとか 我がものというものもない

涙も感激もそこではない

むろん愛もない

生も死もない

ちょうどアインシュタインが説いた

「宇宙は静止している」という

その世界に似ている


そこをとらえるには

背骨の神経でなければ

とらえることは 出来ない

神も己れをも超えた世界だ

この世界の眼に見えるものも

眼に見えないものも

すべて 消えてしまう世界だ


1975.08.20.

| 1975年 | 21:52 | TOP↑

≫ EDIT

アメリカ大陸に栄光あれ

真理は 遥か 彼方にある

人間の知識も とどかない

彼方にある

人間の知識も とどかないのだ


それを 人は 人間の知識でもって

真理を 分析しようとする

何と おろかな事だろうか


知識の斧を 捨てよ

捨てよというより

捨てざるを得ないことを

知れ


それを知った者だけが

真理の中に 参入できる


おお真理よ 我々の手の

とどかない所に

それはある


百億光年のもっと

遥か彼方に

それはある


インドのリグ・ヴェーダ時代の

人々は

その遥か彼方の

真理の心と

まじわり合って

生活していた


彼方の心は 裸であった

彼方の心は 「ピュアー」で

あった

天のように


太陽も 裸だ

「裸」に まさる何物が

あろうか

知識か それは いや

立派な着物か それは

「裸」に勝るものは………


アメリカのピッピー達は

「裸」だ

「裸」は 偉大だ

彼等は 偉大だ


それに ややこしい

説教師たちが

やって来て

ややこしい僧侶という

着物を着て

彼等に着物を

着せようとしている


僧侶は 知識の着物を

着て

その上 僧侶の特別の

着物を着て

何かを うりつけ

おしつけようとしている


君達も アメリカのピッピーの

様に 「裸」に

なってみたまえ

太陽のように


太陽は 「裸」だ

裸に まさるものは

あるだろうか


「ピュアー」 「ピュアー」が

来た

この世に 「ピュアー」がやって

来たのだ


古びた 知識の衣を

必要としない

アメリカ・ピッピーの到来だ


一般の人々も 「裸」になろう

ピッピーを さげずむでは

ないぞ

彼等こそ この世界に

アメリカが生んだ

偉大な遺産だ


誇りをもて

裸こそ 偉大なんだ


様々な服を着て

人間は 歩いている

地位 名誉 誇り

学歴 家の大きさ

顔の綺麗さ


それらを誇る心は

すべて 古いしみのついた

心だ


心のしみを おとそう

アメリカ合衆国国民の

偉大さを

今こそ 世界に知らそう


官能的に我々は

裸になっていないのだ

ということを

世界の人々に 知らそう


真理は 教会や

教典や 知識で

つかめるものではない


「裸」 ピュアーな心になれば

言葉が 如何に

つまらないものであるかが

わかる


おお 太陽はのぼった

星は夜空に きらめいた

無言で その心になろう


すべての衣を ぬぎ捨てよう

神すら すててしまえ

その時

汝等は 神をつかむで

あろう


アメリカ大陸に 栄光あれ!

人々よ 助け合って生きよ!

これこそ 裸の姿なのだ!


1975.08.20.

| 1975年 | 00:13 | TOP↑

≫ EDIT

仏陀の足許――我は奉仕者――

我が足を拝む者の足を 

我れは拝む

おお悠久のピュアーの世界よ

この世には 真の真理はあらじ


真の真理は 足許から来る

礼拝する者の 足許から来る


真の真理は 口から来るのではない

真の真理は 経典から来るのではない

我が心と 星の彼方の心と 人の足許を

結んだ線より来る


手を取り合って 無言で長い間

交わし合った心と心が

「彼」の足許を拝ましむる


足許よ 汝の足許よ

光が 光がそこに

さしているのが見える


汝の名は仏陀 

おお仏陀!

我れに 礼拝の栄誉を

与えたまえ

その機会を我れに……


狂ほしく夕闇に包まれて 

我れは 汝の中にとけてゆく

透明の白光の輝きの中に

おお おお 我れはそこに

我れは そこに


1975.08.04.

| 1975年 | 12:38 | TOP↑

| PAGE-SELECT |