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1977年06月 | ARCHIVE-SELECT | 1977年08月

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ただ それだけがある

消えた者には

人間も

自己もない

ただ それだけが

あるだけだ

ピュアーだけが

あるだけだ


1977.07.30.
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| 1977年 | 09:17 | TOP↑

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白鳥パラマハンサ

今朝ほどいい気持になった日はない

体が羽毛につつまれている様な

さわやかな感じだ

体が軽々として 空をとんで

いるような感じだ

私の体は この肉体は あるのか

無いのか わからない


二つの白く なよやかで長い翼が

動いているのを感じる

白鳥パラマハンサとは この事を

いうのだろう

白鳥のように ふっくらと大きい

限りを知らぬ 羽毛につつまれて

軽々と翼を 動かしている

何と豊かな 軽やかな

このはばたき


古代人はきっと これを経験して

自らが 自らに

白鳥という名称を

与えたのであろう

一般人が 聖者を見て

それに与えた名前では

なさそうだ


羽毛につつまれて

私は 軽々と飛ぶ


人間が 自分におびえ

人間に おびえていたとは

何と変なこと なんだろう

私は そのおびえから

解放されたのだ


1977.07.20.

| 1977年 | 10:30 | TOP↑

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偉大な実現

万歳 二元と一元の同時存在

これを知ってから 人間に

おびえなくなった

また自分にも おびえなくなった

超越してきた

声も通るようになった

ピュアーな者になった

人間からのひっかかりが

なくなってきた


同時存在の二重性のこの世界では

人間に関わるのであるが

関わりながら超越している

まるで関わっていないかのようだ

ピュアーな関わりとでも

いおうか

ピュアーって 何んていいのだろうか

ここまで来ると

今までの解らなかった事

感じなかった事だが

私は今まで 人間におびえ 

自己にも おびえていた事がわかった


相対でありながら 同時に

一元であるという そのすばらしい世界

ラーマクリシュナの住んでいた 世界は

これだ


彼は決して 一元にとどまったのでも

なければ

二元にとどまったのでもない 

二元におりて来たのでもないのだ


一元と二元の同時存在する 位置に

やって来たのだ

偉大な実現者だ


1977.07.24.

| 1977年 | 00:16 | TOP↑

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同時存在する世界

人間は人間である

私もあなたも人間である

人間直視は 一元の世界に入ると

同時に

人間の間にも とどまる


一元を二元にいかそうとするのでなしに

或いは 二元をほって 一元にゆくのでなしに

一元と二元が同時に存在するのである

これが又しても 幾何学的構造の

世界である


物の存在する背後には

このような構造がある

例えば 光は光波と粒子で

出来ているように

二つの異なったものが

同時に 存在するのである


人間と人間の間に 明るさを

展開するのでもなく

人間と人間の間から……離れるのでもなく

人間と人間の間を……どうしよう

とするのでもなく

例えば 明るさが必要だとか

明るくやろうとか

明るい事はいいことだ……とか

明るさだけの必要ではだめだ


明るさの中には暗さが

内在している

明るいものを求める者は暗い


明るい者は暗さを感じさせ

明るい者は弱さを感じさせる

明るいものでも暗いものでもない

ものピュアー

ピュアーはどこからくるのか

ピュアーはもともとあるのである

それなのに人間は 明るさを求めて

失敗をする

ピュアーだ ピュアーが一切だ

人間直視がなされた時

そのピュアーがつかめる

その時特に 背骨の神経A点に

意識を集めておかねばならない

なぜならピュアーは一元に属する

からである

一元は頭でなしに背骨の神経で

なければ

それに参入出来ないのである

一元と相対がそこに同時に

存在するのである

ピュアーは一元にも相対にも

存在するというのではない

ピュアーは一元にも 相対にも

同時に存在するのである

万歳!



1977.07.19.

| 1977年 | 20:05 | TOP↑

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私はすぐ間違ってしまう

私はすぐ間違ってしまう

直接直感の世界には

感情や試み――いわゆる 泥んこにまみれて

遊ぶのはよいが

遊ぼう……というような「考え」が

入ってなされる行為ではだめである


そこでは感情を美化されたその中で

満足させることになる

消えてあるものが

その「考え」を はさんで行為をするであろうか

これはやはり 論理の中の一員である

消えてある者にはただ

それがあるだけである


消えてあるものは感情と知を超えた

世界にあるのである

消えてある者は 他人を気にしない

気にしないという事は 

他人をほっておくということではない

消えてある者には ピュアーがあるのみである


「ふるえ」がそこにくる

人間と人間との間に

明るいものを置こうとするのではない

ピュアーがそこに来るのである


人間と人間との間に

人間と自然との間に

何の技巧も そこにはない

「知」「感情」 それらもない

のである


直接直感――人間直視の世界は

そこで自己が 消えるのである

自己があって 何かをしようと

するのではない


消えて何かが 行なわれるのである

心と精神の切りはなたれた

世界である


そこには ただ一元の「ふるえ」

だけがある

情感で受け止められるような

恍惚はないのである

「ふるえ」の世界は もうろうとしている

その点においては 幻的神は

存在してくるし

それこそ 神である


私は今 幻をつくるのでなく

幻のようなもうろうとした

消えた世界の実体の中を

さまよっている

今この「実体」の森の中を

さまよい歩いているのだ


夢遊病者の如く 眼は釘づけにされ

意識も釘づけにされて

情感を排除された世界に

かきわけ入っているのである



1977.07.16. 

| 1977年 | 17:24 | TOP↑

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三種類の神

ここで神に 三種類の神が出来た


信仰宗教で拝まれている人格神

これはいわゆる はっきりとらえよう

としている神である


そこでは手を合わせ 厳しい儀式があり

光輝にかがやく神の出現を待つ


次はウパニシャッド神秘思想で

とらえた

非人格神

即ちブラフマンである


それは神という名称もつけられない

ものであり

はじめも 終りも 動も 不動も

ないものである

「一者」「絶対」「それ」ともいう


そして人は それに合一出来るとされる

小我と大我の合一

アートマンとブラフマンの合一ともいう

これをなしとげることが人生の

最終目的であると ヒンドゥ教思想

はいうのである


次にあらわれたのが「幻の神」である

これは決して 光に輝く神ではない

むしろ泥んこの中での遊びの中に

こそある神である


よごれた泥んこの着物を着た

子供の中にあるものである

それらと遊ぶ時

それはわかってくるものである


遊びが礼拝となる時

それが感じられ その中で

恍惚とさせられる 神話的

幻的神である


はじめも 終りもないとか

動と不動でもなく 非人格的なもの

という

言葉の説明もいらないもの

「遊び」の中からあらわれてくるもの


……クリシュナの遊んだのも

その中にである

そこには神聖も 善も 愛も

光輝もない


そしてそれは 我々がどんな所でも

実現でき

入ってゆけるものである

いつでも気楽に 入ってゆける

ものである


神を捨てよ と私が言うのは

その英知でつくった神を捨てよと

いっているのである


はっきりしないものの中でこそ

自己は消されてしまうのである


1977.07.15.

| 1977年 | 20:27 | TOP↑

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泥んこの大人たち

泥んこの子供と

泥んこの大人達 遊ぼう

泥んこの子供達よ

泥んこの大人達よ

遊ぼう 君達と


遊びこそ天国

誰とでも 遊べる

天国の人々

泥んこの大人達よ

泥んこの子供達よ

どこにいるの


幻の中に 彼等は居る

幻の中から 見えかくれして
 
私を 招いている

夢の中に

神話の中に 私は

引き入れられてゆく

おお汝 神よ!


手をお出し

私はあなたの 手をとって

夢の中に 連れてゆこう

神話の中に 神の中に

幻の中に

………おお私は狂いそうだ

涙とふるえとが 一つになって

とけてゆく


幻の中に 入ってゆく

幻の中は 神の世界であり 

神である

この現実の世界にあって

現実の中で 生きると

善し悪しが はっきりしている 

自分をよくしようという

「よいもの」へのあこがれと

あがきがある

又他の人をも 善し悪しで

とらえる

「幻」は 善し悪しがない世界

である

現実のように はっきりしていない

「よい方向」に行こうとするので

なしに

泥んこの中にはいってゆく

……泥んこの中で遊ぶ


これは 幻である

幻の世界に入って行っている

のである

クリシュナは きれいな着物を

着た

ゴピーたちと

遊んだのではない


彼女等の 泥んこの着物と

泥んこに汚れた彼女等と

遊んだのである

はっきりしないものと

遊んだのである


いわゆる 幻と遊び

その中に入り 恍惚となって

いたのである


一般人のとらえている神は

はっきりした現実の神であり

幻の神ではない

幻の神こそ 神である

善し悪しでとらえるすぐれた者

としての神は

人間の英知の神であって

本当の神ではない

はっきりした神である

だから神は神々しく かつ光に

つつまれて

現われてくるのである


泥んこの神を

泥んこの中で遊ぶその

遊びの中にある神を

誰がとらえたであろうか


神々しい 光輝に輝ける神は

知恵の神 こしらえた神である

だから手を合わせて

うやうやしく礼拝するのである

そのようにはっきりさせねば

ならない神と 人間と 儀式とである


泥んこの子供達と

泥んこの大人達と 遊ぼう

遊べるように なろう

その者は 

神の世界に入る


神ははっきりしない世界にある

インド人が はっきりしない中に

生きているのも それである


彼等にとっては きたない きれいがない

きたない きれいの中に生きている者は

苦をうける

神話はインドから消えないだろう

しかし クリシュナの愛人ラーダに

奇麗な着物を 着せた時

インドは滅びる

神が 彼等から去ってしまう

泥んこの子供達と

泥んこの大人達と

遊ぶ その中に 神がある

遊ぶこと自体が「礼拝」である


1977.07.15.

| 1977年 | 11:31 | TOP↑

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「ふるえ」と「もがき」

ピュアーは 明るさでも 暗さでもない

そのピュアーが 「明るさ」である

「明るさ」とは 明暗の明るさではない

人間本来もっている そのものである


我々は人間であるという 人間直視

そして 我々は 宇宙と共にあるという

人間直視

この直接直感は すべてを消してしまう


消されたものは 恍惚となる

ピュアーは 恍惚である

恍惚は 「ピュアー」そのものである

ふるえがくる

人も世界も ふるえねばならない

ふるえの中に ひたらねばならない


世界も人もまだ もがきの中にいる

焦りの中にいる

他人との関わり合いの中にいる

明 暗の中にいる

幸 不幸の中にいる

批判の中にいる

「ふるえ」 「消え」 「ピュアー」

「恍惚」そのものに なっていない


幾何学の世界は 

それらへの 通路を開く

いわゆる 「ふるえ」への通路だ


1977.07.15.

| 1977年 | 09:47 | TOP↑

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消えてあるもの

消える人ではなく

消えた人である

消えた人が自分である

自分が 消えるのではなく


自分が 相対から一元に

入るのでもなく

自分のないものが

二元と一元のない そこに

あるのである


人も自分も人間も

ブラフマンも 宇宙もない

「それ」である


1977.07.08.

| 1977年 | 08:30 | TOP↑

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一元に坐る

一元はすべてを行うことが 出来る

一元に坐れ

二元の中で 実現しようと

するのでなく

二元も実現されてくるのである


一元と二元とは一つのものである

二元から一元を見上げていると

一元があるが

一元に とどまると

二元は 一元化される


一元はすべてを 可能にする

すべてとは すべてを

意味するのでなく

人間の幸せに関して「すべて」という

ことである

範囲は 人間の「幸せ」にかかっている


一元に坐ると 二元は消されて

しまうのである

何をしようかなど 考える必要が

なくなる

チェンジ オブ ユアーステージは

すばらしい

これしかないのである

安心してここに

とどまれ


1977.07.04.

| 1977年 | 10:26 | TOP↑

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