FC2ブログ

1979年07月 | ARCHIVE-SELECT | 1979年09月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

物凄い谷間

始めから
くっついている者に
別れというものはない

始めから
くっついている者に
改めて
くっつかねばならぬ
ということはない

はじめから
くっついている者に
過去も現在も未来もない
今 あるのみだ

今を明るく 歌い 踊り
手をとり合う
瞬間のみがある

1979.08.29.
スポンサーサイト



| 1979年 | 22:31 | TOP↑

≫ EDIT

内なるクリシュナとラーダ

「私はラーダ」の詩を読んで 
夜すごいこの傑作に気も狂いそう 
おお 動きだした
ロスの宝石の展示場
我々の眼には見えなかったものがそこにあった

一つの輝ける宝石の原石たち
暗い闇に包まれて それらはそこに静かに
外界を遮って生きている

二つのものが一つに見える宝石の原石たち
一つの輝ける宝の石は 二つになって舞っている
石の内なる「精」に恋するもの
その恋人たちが 
その「精」のまわりに舞いに舞っている
それが 見えてきたよ

他の世界を遮断して れらは 一つの遊び 舞い 
踊りの世界をもっている
人も 他の人とどうゆかねばならぬと
気をつかうことは いらない

それより あなたの内なるクリシュナに恋するラーダ
そのラーダになって あなたは自分の自分なるクリシュナに
恋し 歌い 舞いなさい

他を少しも気にすることのない遮断された一つの世界
あなたは 少しも淋しくない
あなたの内なるクリシュナに恋し 舞い 歌えるではないか

人と人の関係でなく それらの気づかいでなく
むしろ それらから遮断された一室に入って
十分この人生を この時を楽しんで下さい
内なるクリシュナの吹く笛の音 その吹く指が
それが見えるでしょう

共に手をとって舞おう 人々よ

1979.08.26.

| 1979年 | 21:31 | TOP↑

≫ EDIT

静かな朝だ

静かな朝だ
まだものが余り動いていない静かな朝だ
透明な空気が夜つゆに濡れて 躍動の時を待っている

時間をもたないものたちがとび出す
透明なる肉体をもつ人間たち
キラキラ輝く疑いをもたない眼

この一か月以上 私は書いては消し書いては消している
最後の段階の如何に難しいかが分かる
やはり東洋的思考にひきずられる事がその原因である

アメリカのロスにおいては スピードと音楽と明るさである
東洋的宗教や哲学はうけようとしない……といった
弁護士の佐古多氏の言葉が浮かんでくる

ピュアー文明
確かに混乱でなく 平和と発展をつくることがその目的である
だが ふと「聖」という一字の中に入ってしまうことがある
「聖」でなく 明るさを私は欲する

神秘も低い世界にはあろうが それに引かれてはならない
なる程 神秘は美をも越えた美の極致ともいえるが
私にとって美の世界も 神秘の世界も必要でない
……ただ ピュアーな世界のみが必要である

ピュアーは 人間を遠ざけてあるものではない
キラキラ光る純心な眼の輝きと その奥を私は
のぞきみたいのである
何の疑いも持たない人の顔を
鳥たちも 犬猫たちも平和で何の警戒心ももたず
同席できる平和と発展を私は望むのである

時間も空間も 私はどん欲に喰いつくしたい
展開だ 展開だ
自由で明るく 尊敬に満ち 疑いを去って
仲よくゆける社会を私はつくろう

人と人が力を合わせ ピュアーとピュアーを合わせて
力強く闇を砕いてゆくのだ
人間の心の中に巣食う闇を砕いてゆくのだ
その場で永遠に連なるような魂
響いて 響いてしびれる社会

インドのアジメールのホイサガールの田舎で見 
味わった丘でのピュアーなひろがり その風景
何たる平和が 神話がそこにあったのだろう

人が動き 手が動いているのに「静」が
そこに感じられる
しびれる空気がそこにあった

クジャクが ふいに腰をおろしている木影のその枝から
飛び下りてくる 眼の前を歩いてゆく
山も水も 人も 牛も 空気も ひろがりも
クジャクも「静止」そのものである

考えてみれば宝石の世界の冷たい神秘と
秘密の世界であったホイサガールの風景は
冷たいものではなかった
ともに 神話の世界だ
クリシュナの笛が聞こえてくるような
神話の世界だった

やはり人間にとって 人間が一番に
なつかしいのではないか
ソフトなそよ風が一番なつかしいのではないか

神は泣きの主であるということは
神が我々を泣かす泣かす主でもあるのだ

元の元に触れさせてくれるもの
そこに 涙が 泣きが
しびれがやってくるのではなかろうか

1979.08.24.

| 1979年 | 19:31 | TOP↑

≫ EDIT

透明なるものに

原石があった 
宝の石の原石がアメリカのロスのミュージアムに
人はそこに入るや人を失う
感嘆の声を思わずもらす
永遠も 永遠もそれをもよせつけない神秘の輝が
息をつまらせる

透明なるものの停止し 停止しきってそれはそこにある
人はそこでは人でなく 世界を忘れ 人を忘れ
汚れを忘れ 時間を忘れたものとなる
感嘆の声は息ぐるしきまでに つまりその輝と 
神秘と神秘の中に吸い込まれる

人の世界から物質の世界へ
物質の世界から「源」なるものの世界へ
すべてを忘れてのめりこむ
過去 現在 未来は そこには許されない
始めて見るものの世界だった
こんなものが この世にあり得るのだろうか

今自分は人から 世界から 汚れから
全てから遮断された世界にいる
裸も 裸も自己が殺され なくなった世界だ

生物であるその生命の世界をも
瞬間にして 無価値とさせられる
その中に唖然となっている

ピュアーな世界をもし見たかったなら 
ここに来るがいい
あなたの あなたなるものが消され
生きている自分がいやになる世界がある
透明 輝きて無言 無時間

人をも 名誉をも いかなるこの世の美をもよせつけないもの
宝石 原石だ
すらりと ダイナミックに そこに在るのだ
人間はそこからやって来たのだ

お前は 何も言わず何も考えず それとなれ
海女が 真珠となって地上に帰らなかったように
ロスのミュージアムのそのピュアーな宝石と 汝はなれ
時間は そこでは無用だ
金も 肉体も 名も 未来も お前のもの全て無用だ

「源」なる 輝けるピュアーなお前がそこにあるのだ

1979.08.23.

| 1979年 | 14:35 | TOP↑

≫ EDIT

天馬の神話の詩が

森と湖と静けさ 明るさ けがれなさ 人と関わりのなさ
天女 天馬 舞台 背景そのものが 
一つの実現に他ならない

人に知られぬ森の湖のほとりに 姿を現した天女たちが
樹立の間で天馬たちと水浴をし 或いは輪舞するごとく
人に知られず 人に関わり合いなく
現われては遊び またもとに返る

この詩がとてもすばらしい
これがアメリカ人の次の段階である
或いは我々も そうだ

この「神話」は一巾の絵であって
動きをとる神話的物語とはちがう
一巾の絵は停止しており 中空に浮かぶ月のようだ

この「神話」に入ると 人間に関わりながら関わりがなく
人の顔をはっきり見なくなる
はっきり見るのは 関わりにおいてである
関わっていないのだから はっきり見る必要がないのだ

そして 言葉がなくなってくる
言語が消されてくるのである
人も消され 言葉も消されるのである

神も ブラフマンも 自分も消されている

1979.08.19.

| 1979年 | 11:07 | TOP↑

≫ EDIT

ソフトな遊び

今夕のお祈りは「天馬と私」の詩の中にひたりきることができた
神話……この神話が我々を救ってくれる

人間が人間に余りかかわっていても時には
良いこともあろうが 時には良くない結果にもなる
それかといって アジア流にブラフマンの世界に一人で入って
いっても これまた人間から離れてしまう

こう考えていて 始めからくっついているという本物に
くっついてみた
歌は急に力強く 震えの中で歌えた

しかし本物にとどまろうとするものと
とどまったものとがあった
全てそれらから離れた時に「天馬と私」の詩が浮かんできた
私はそこに入った 歌は歌えた
情感も伴うことなく神話の神話たる ソフトな空気の中から
歌えたのだ

それから人の顔を直に まともに見ることがなく
もうろうとした天馬と私の神話の やわらかい空気の中にいた
人がまともに関係がなくなった
神話そのものの空気の中に入った

湖と天女 天女と天使 天使と天馬 天馬とその背景
それらはフイにいつか消えるように
ソフトにこれらは遊ぶ

1979.08.18.

≫ Read More

| 1979年 | 11:04 | TOP↑

≫ EDIT

相対はないのだ

物が二つ 相対的に配置されて置かれた
しかし これは相対的であって 相対ではない
この辺が大切なところである

相対というのはないのである
相対と思う人間がいた時 それは相対と考えられるが
相対と相対的とは違うのである
ただ 相対的な配置にあるというだけで
元はひっついているのである

そのひっつきを忘れて離れた位置におかれていると
相対といってしまうのである
相対的にあるだけなのである
だから自分と他が二つあるが これは二つに見えるように
配置されているだけであって 実は一つなのである

その一つであるもの 本物 本当の姿をしっかり捉えると
相対的観念が消えてしまう
すると マーヤというものがなかった事がわかる

人は 人や事物から離れて一元のブラフマンを探し
それに合一しようとするのでなしに
先ず 人に 事物にくっつく事である
――もともとの状態に帰ることである

その元々の状態に帰ったそこに「震え」がおきて 
統一された自己……消えた自己がおきてくるのである
決して人以外にブラフマンを想定してはならない
人は人を通して自己に帰る
――人は人を通してブラフマンに帰る

その燃えたぎる停止の中へ 我々は何の状態もとらず
飛び込むのである
神話はここで 消えるであろう
しかしそれこそが神話である
もえて 消えて 一つになるその中で
ほほえみが 涙が流れ落ちるのである

泣きの 涙の主であるというそのブラフマン
ピュアーそのものが響いて 響いて波打つのである
芸術がそこにある
幾何学的中心軸での転回 相対的位置づけの「遊び」

甘いソフトな遊び 舞いそのものが芸術作品化された
「神話的物語」である
我々は この世で神話的物語の登場人物として舞うのである
一つの舞いをくりひろげるのである

ここで 神話的物語といったが 神話的物語と神話とに 
分ければ これが神話即神話的物語となる
その素材は舞いそのものが素材となる
舞いそのものが 舞ってそれは 消えるのである

真のブラフマンの中へ ピュアーの中へ
そこでは それのみで人も 天も地も 時空もない
「くっつく事」すらない

1979.08.15.

| 1979年 | 23:00 | TOP↑

≫ EDIT

静かな火柱

消えること 消えた世界というのは
自分が消え 消されるのであるが 
相手も消え 消されている世界のことで
ピュアーな世界 ピュアーでの入口の世界である

停止とは 自己が停止するのではない
自己と他との その相対活動が停止するのであって
一元の活動が行われているのである

停止といったら 何も自己も・・・何もかもが
動きをとめた状態をいうのではない
逆にいえば 停止こそ本当のエネルギーの活動の時
大爆発を行っている時でもある

ほほえみとは ほほえんでいることを言っているのであろうか
どうもそうではないのだ
一元の中で泣きさけんで 歓喜しつつぶつかり合い
大可能を展開している時のことである

雷の親と子はドドドンとただ 平凡に
打ち続けているのではない
ドドドン ドドドンと夢中になって打ち続けているのである

静かな打ち方ではない
何もかもを裂く火柱を 中空につっ立てて引き裂く
天と地を結び 焼き切る時である
天と地との離れを結びつける親と子の力である

ほほえみどころか あの苦々しいまでに四角で 
角をはやしたて ぶさいくな顔で
人眼をかまわず打ち続けているのである
始めのくっつきをいつまでもそうさせずには
おかないのである

消えるものは一点の中心軸をもっている
相対は 絶対は その中心軸を軸としてかけっこをしている

遊びが時にはいたずらとなって
相対を泣かしてしまうことがある
相対が ピュアーの兄ちゃんに泣かされて泣きベソをかく時
――弟が自分勝手にはしゃぐ時 
雷の親子が出てきて その中をとりもつのである

ドドドン ドドドン
それは忙しい
常に相対は 泣きベソをかきながら
中心軸を見失うので
それを 探し回るのである

1979.08.14.

| 1979年 | 00:05 | TOP↑

≫ EDIT

静寂と停止の涙

ドドドン ドドドン
ほほえみの 涙が
涙が 流れ落ちる

山になれ の詩も
ブラフマン の詩も
すべて たいした 立派なものだ

ほほえみの洪水の涙が
流れ落ちる

もう 涙をこれから
出すことにしよう

(ここで一寸分かって来た 
人間はとやかく考え 悩まなくともよい 
始めからちゃんとくっついているものが あるのだから
騒ぎ立てるような はでなことをしなくてもよい 
ということで泣けたのだろう)

1979.08.11.

| 1979年 | 14:44 | TOP↑

≫ EDIT

雷の親子

雷の親子がいた
ドドンと親が太鼓を
うった
子はそれにならって
ドドンとうった

雷の親子がいた
同じような顔をしている
大きいか 小さいか
ぐらいの差だ

雷の親子がいた
ドドドン ドドドンと
太鼓をうっていた

ドドドン ドドドンのドンと
彼等は何の変哲もなく
それをうち続けていた

1979.08.11.

| 1979年 | 14:03 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT