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物凄い谷間

はじめから

くっついている者に

別れというものは

ない


はじめから

くっついている者に

あらためて

くっつかねばならぬ

ということはない


はじめから

くっついている者に

過去も現在も未来も

ない

今 あるのみだ


今を明るく 歌い 踊り

手をとり合う

瞬間のみが

ある


1979.08.29.
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| 1979年 | 22:31 | TOP↑

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内なるクリシュナとラーダ

「私はラーダ」の詩を

よんで



すごいこの傑作に

気もくるいそう


おお 動きだした

ロスの宝石の展示場

我々の眼には見えなかった

ものが

そこにあった


一つの輝ける宝石の

原石たち


暗い闇につつまれて

それらは そこに

静かに

外界をさえぎって

いきている


二つのものが一つに

見える

宝石の原石たち

一つの輝ける宝の

石は

二つになって

舞っている


石の内なる「精」に

恋するもの

その恋人たちが

その「精」のまわりに

舞いに舞っている


それが 見えてきたよ


他の世界をしゃ断して

それらは 一つの

遊び 舞い 踊りの

世界を もっている


人も 他の人と

どうゆかねばならぬと

気をつかうことは いらない


それより 


あなたの 内なるクリシュナに

恋するラーダ


そのラーダになって

あなたは 自分の自分

なる

クリシュナに

恋し

歌い 舞いなさい


他を少しも気にする

ことのない

しゃ断された

一つの世界


あなたは 少しも

淋しくない

あなたの内なる

クリシュナに恋し

舞い 歌えるではないか


人と 人の 関係でなく

それらの 気づかいでなく


むしろ それらから

しゃ断された

一室に入って

十分この人生を

この時を

楽しんで 下さい


内なるクリシュナの

ふく 笛の音

その吹く指が

それが 見えるでしょう


共に 手をとって

舞おう 人々よ


1979.08.26.

| 1979年 | 21:31 | TOP↑

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静かな朝だ

静かな朝だ

まだものが余り

動いていない

静かな朝だ


透明な空気が

夜つゆに ぬれて

躍動の時をまっている


時間をもたないものたちが

とび出す

透明なる肉体をもつ

人間たち


キラキラ輝く

うたがいをもたない眼


この一か月以上

私は書いては消し

書いては消している

最後の段階の如何に

むつかしいかがわかる

やはり東洋的思考に

ひきずられる事が

その原因である


アメリカのロスにおいては

スピードと音楽と明るさで

ある

東洋的宗教や哲学は

うけようとしない……

といった

弁護士の佐古多氏の

言葉が浮かんでくる


ピュアー文明

たしかに 混乱でなく

平和と発展をつくることが

その目的である

だが ふと「聖」という一字の

中に入ってしまうことがある

「聖」でなく 明るさを

私は 欲する


神秘もひくい世界には

あろうが

それに 引かれては

ならない

なる程 神秘は 美をも

こえた 美の極致とも

いえるが

私に とって

美の世界も 神秘の世界も

必要でない

……ただ ピュアーな世界のみが

必要である



ピュアーは 人間を遠ざけて

あるものではない

キラキラ光る 純心な

眼の輝きと

その奥を 私は

のぞきみたいのである


何のうたがいも 持たない

人の顔を


鳥たちも 犬猫たちも

平和で

何の警戒心ももたず

同席できる平和と

発展を

私はのぞむのである


時間も空間も 私は

どん欲に喰いつくしたい

展開だ 展開だ


自由で明るく

尊敬にみち

うたがいをさって

仲よくゆける社会を

私はつくろう


人と人が 力を合わせ

ピュアーと ピュアーを

合わせて

力強く

闇を くだいてゆくのだ


人間の心の中に

すくう

闇を

くだいてゆくのだ

その場で

永遠につらなるような



ひびいて ひびいて

しびれる社会


インドのアジメールの

ホイサガールの田舎で

見 味わった丘での

ピュアーなひろがり

その風景

何たる平和が

神話が

そこに

あったのだろう


人が動き 手が動いているのに

「静」がそこに感じられる

しびれる空気が

そこにあった


クジャクが ふいに

腰をおろしている木影の

その枝から

とびおりてくる

眼の前を歩いてゆく


山も水も

人も

牛も

空気も ひろがりも

クジャクも

「静止」そのものである


考えてみれば宝石の

世界の冷たい神秘と

秘密の世界であった

ホイサガールの風景は

冷たいものではなかった

ともに 神話の世界だ


クリシュナの笛が

聞こえてくるような

神話の世界だった


やはり人間にとって

人間が一番に

なつかしいのではないか

ソフトなそよ風が

一番なつかしいのでは

ないか


神は泣きの主で

あるということは

神が我々を泣かす

泣かす主でもあるのだ


もとのもとに

ふれさせてくれるもの

そこに 涙が

泣きが

しびれが

やってくるのでは

なかろうか



1979.08.24.

| 1979年 | 19:31 | TOP↑

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透明なるものに

原石があった

宝の石の原石が

アメリカのロスの

ミュージアムに


人はそこに入るや

人を失う


感嘆の声を

思わずもらす


永遠も 永遠も

それをもよせつけない

神秘のかがやきが

息をつまらせる


透明なるものの

停止し 停止しきって

それは そこにある

人はそこでは 人でなく


世界を忘れ

人を忘れ

よごれを忘れ

時間を忘れたものとなる


感たんの声は

息ぐるしきまでに つまり

そのかがやきと 

神秘と

神秘の中に

すいこまれる


人の世界から

物質の世界へ

物質の世界から

「源」なるものの世界へ

すべてを忘れて

のめりこむ


過去 現在 未来は

そこには ゆるされない

はじめて見るものの世界だった


こんなものが この世に

あり得るのだろうか


今 自分は人から 世界から

よごれから

すべてから

しゃだんされた 世界にいる


裸も 裸も 

自己が ころされ

なくなった 世界だ


生物である その生命の

世界をも

瞬間にして 無価値と

させられる

その中に

あぜんと なっている


ピュアーな世界を 

もし 見たかったなら

ここに 来るがいい


あなたの あなたなる

ものが

消され

生きている自分が

いやになる 世界がある


透明

輝きて 無言 

無時間


人をも 名誉をも

いかなる この世の美をも

よせつけないもの

宝石 

原石だ


すらりと ダイナミックに

そこに 在るのだ

人間はそこから

やって来たのだ


お前は 何も言わず

何も考えず それとなれ


海女が 真珠となって

地上にかえらなかったように


ロスの ミュージアムの

そのピュアーな

宝石と 汝はなれ


時間は そこでは

無用だ


金も 肉体も 名も

未来も

お前のもの すべて

無用だ



「源」なる 輝ける

ピュアーな

お前が そこにあるのだ


1979.08.23.

| 1979年 | 14:35 | TOP↑

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天馬の神話の詩が

森と湖と

静けさ 明るさ

けがれなさ

人とかかわりのなさ

天女 天馬 舞台

背景そのものが

一つの実現に 他ならない


人に知られぬ森の

湖の ほとりに

姿をあらわした 天女たちが

樹立の間で 天馬たちと

水浴をし

或いは 輪舞するごとく


人に知られず

人にかかわり合いなく


現われては 遊び

また もとにかえる


この詩が とても すばらしい

これがアメリカ人の 次の

段階である

或いは我々も そうだ


この「神話」は一巾の絵であって

動きをとる神話的物語とは

ちがう


一巾の絵は 停止しており

中空に うかぶ 月のようだ


この「神話」に入ると

人間に かかわりながら

かかわりがなく

人の顔を はっきり 見なくなる


はっきり 見るのは

かかわりに おいてである

かかわって いないのだから

はっきり 見る必要が ないのだ


そして 言葉が なくなってくる

言語が消されてくるのである

人も消され 言葉も 消されるの

である


神も ブラフマンも 自分も 消され

ている


1979.08.19.

| 1979年 | 11:07 | TOP↑

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ソフトな遊び

今夕のお祈りは

「天馬と私」の詩の中に

ひたりきることが

できた


神話……この神話が

我々を救ってくれる


人間が人間に余り

かかわっていても

時には良いこともあろうが

時には 良くない結果

にもなる


それかといって アジア流に

ブラフマンの世界に

一人で入っていっても

これまた人間から 離れて

しまう


こう考えていて はじめから

くっついているという本物に

くっついてみた

歌は急に 力強く ふるえの中

で歌えた


しかし本物に とどまろうとする

ものと

とどまったものとがあった

すべて それらから はなれた時に

「天馬と私」の詩が浮かんできた

私は そこに 入った

歌は うたえた

情感も ともなうことなく

神話の 神話たる ソフトな

空気の中から

歌えた のだ


それから 人の顔をじかに

まともに 見ることがなく

もうろうとした 天馬と私の

神話の

やわらかい 空気の中にいた


人がまともに 関係が

なくなった

神話 そのものの空気の中に

入った


湖と天女 天女と天使

天使と天馬

天馬と その背景

それらは フイに いつか

消えるように


ソフトに これらは

遊ぶ


1979.08.18.

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| 1979年 | 11:04 | TOP↑

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相対はないのだ

物が二つ 相対的に

配置されて おかれた

しかし これは

相対的であって 

相対ではない

この辺が 大切な

ところである


相対というのは

ないのである

相対と思う人間が

いた時

それは相対と考えられるが

相対と相対的とは

ちがうのである


ただ 相対的な配置に

あるというだけで

もとは ひっついているのである


そのひっつきを 忘れて

はなれた位置に

おかれていると

相対といってしまうのである


相対的にあるだけ

なのである


だから自分と他が

二つあるが

これは 二つに見えるように

配置されているだけであって

実は一つなのである


その一つであるもの

本物 本当の姿を

しっかり とらえると

相対的観念が消えて

しまう

すると マーヤというものが

なかった事が

わかる


人は 人や事物から離れて

一元のブラフマンをさがし

それに合一しようとするので

なしに

先ず 人に 事物に

くっつく事である

――もともとの状態に

かえることである


そのもともとの状態に

かえった そこに

「ふるえ」がおきて 

統一された自己……

消えた自己が

おきてくるのである


決して人以外に

ブラフマンを そうていしては

ならない

人は人を通して自己に

かえる

――人は人を通して

ブラフマンにかえる


その燃えたぎる停止の中へ

我々は何の状態もとらず

とびこむのである


神話はここで 消えるであろう

しかしそれこそが

神話である

もえて 消えて 一つになる

その中で

ほほえみが 涙が

流れ落ちるのである


泣きの 涙の主であるという

その ブラフマン

ピュアー そのものが

ひびいて

ひびいて

波打つのである


芸術がそこにある

幾何学的中心軸での

転回

相対的位置づけの

「遊び」


甘い ソフトな遊び

舞い そのものが

芸術作品化された

「神話的物語」である


我々は この世で

神話的物語の登場人物

として

舞うのである

一つの舞いをくりひろげるので

ある


ここで 神話的物語と

いったが

神話的物語と

神話とに わければ

これが 神話 即 神話的

物語となる

その素材は

舞いそのものが

素材となる


舞いそのものが 舞って

それは 消えるのである


真のブラフマンの中へ

ピュアーの中へ

そこでは それのみで

人も 天も 地も

時空もない

「くっつく事」すらない


1979.08.15.

| 1979年 | 23:00 | TOP↑

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静かな火柱

消えること 消えた世界 

というのは

自分が消え

消されるのであるが

相手も消え

消されている世界の 

ことで


ピュアーな世界

ピュアーでの入口の

世界である


停止とは

自己が停止するのではない

自己と他との その相対活動が

停止するのであって

一元の活動が

行われているのである


停止といったら 何も

自己も・・・何もかもが

動きをとめた状態を

いうのではない


逆にいえば

停止こそ 本当の

エネルギーの活動の時

大爆発を行っている

時でもある


ほほえみとは

ほほえんでいることを

言っているのであろうか

どうもそうではないのだ


一元の中で

泣きさけんで

歓喜しつつぶつかり合い

大可能を展開している

時のことである


雷の親と子は ドドドンと

ただ 平凡に うちつづけて

いるのではない


ドドドン ドドドンと 夢中に

なって

打ちつづけているのである


静かなうち方ではない

何もかもをさく火柱を

中空につっ立てて ひきさく

天と地をむすび

やききる時である


天と地との はなれを

結びつける

親と子の力である


ほほえみどころか

あの にがにがしいまでに

四角で 角をはやしたて

ぶさいくな顔で

人眼をかまわず

うちつづけているのである


はじめの くっつきを

いつまでも

そうさせずには

おかないのである


消えるものは一点の

中心軸をもっている

相対は 絶対は その

中心軸を軸として

かけっこをしている


遊びが時には

いたずらとなって

相対を泣かしてしまう

ことがある


相対が ピュアーの兄ちゃんに

なかされて

泣きベソをかく時

――弟が自分勝手に

はしゃぐ時

雷の親子が出てきて

その中をとりもつのである


ドドドン ドドドン

それは忙しい

常に相対は 泣きベソを

かきながら

中心軸を見失うので

それを さがしまわるのである


1979.08.14.

| 1979年 | 00:05 | TOP↑

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静寂と停止の涙

ドドドン ドドドン

ほほえみの 涙が

涙が ながれおちる


山になれ の詩も

ブラフマン の詩も

すべて たいした 立派な

ものだ


ほほえみの 涙が

ながれおちる

もう 涙を これから

出すことに しよう

(ここで一寸わかってきた 人間はとやかく考え なやまなくとも

よい はじめから ちゃんと くっついているものが あるのだから

さわぎたてるような はでなことを しなくてもよい ということで

泣けたのだろう)



1979.08.11.

| 1979年 | 14:44 | TOP↑

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雷の親子

雷の親子がいた

ドドンと親が太鼓を

うった

子はそれに ならって

ドドンと うった


雷の親子がいた

同じような顔をしている

大きいか 小さいか

ぐらいの差だ


雷の親子が いた

ドドドン ドドドン と

太鼓を うっていた


ドドドン ドドドン のドン と

彼等は 何のへんてつも

なく

それを うちつづけていた


1979.08.11.

| 1979年 | 14:03 | TOP↑

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