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1981年03月 | ARCHIVE-SELECT | 1981年05月

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踊り狂っている者がいた

踊り狂っている者がいた
狂いだ

そこには人に何の関係もない明るさがあった
明るさ 明るさ
インスピレーションの停止の世界

人は今 停止することを忘れた
夜空の星を見ることを忘れた

この二つがなくなると 人は人から滑り落ちてしまう
インスピレーションから滑り落ちてしまう

美の最高の地点はインスピレーションである
「震え」である 踊りである 狂いである

人から離れた時 それはなる
超スピードと超明るさは そこある

ブラフマン
始めも 終わりもなくそれはある
人や宇宙に何の関係もなくそれはある

踊り狂っている者がいた

1981.04.29.
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| 1981年 | 09:51 | TOP↑

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人は人をこえよ

衣をつけよ 衣を

僧の衣をつけよ


僧とは 僧だ

人間をこえたものだ


人間は人間をこえねば

ならない


人間をこえた時

人間は人間となる


人間にかえるのだ

人間を通りこえよ

人間への関心をすてよ


性からはなれ

ふれ合いからはなれ


人間と人間との間で

何かをしようとするのでなしに

人間と人間との間で

何かよいものが なされようと

さがすのでなしに


ちがう者になるのだ

衣をつけよ 衣を 僧の衣をつけよ
僧とは僧だ 人間を越えたものだ
人間は人間を越えねばならない
人間を越えた時 人間は人間となる

人間に帰るのだ 人間を通り越えよ 人間への関心を捨てよ
性から離れ 触れ合いから離れ
人間と人間との間で何かをしようとするのでなしに
人間と人間との間で何か良いものがなされようと
探すのでなしに違う者になるのだ

この感覚の世界で この感覚の世の中で 宇宙とか 人間とか
いくら追っかけても 全て感覚の世界を追うだけとなる
それらは全て人間の迷いだ

禁欲主義も それの反対の性の自由も
またそれに何らかの理由をつけて性を美化しようとする試みも
或は人間と人間との触れ合いも全て試みに過ぎない

それらは果てしないゲームである
人は停止することを忘れている 停止の中に全てがある
全てを含み 全てを超越し 全てを支えている
それに帰れ それは僧だ

僧とは人間を越えて 人間となったものをいう
衣をつけよ 一枚の衣を
俗や人と 或は宇宙と縁を切った衣をつけよ

その時 人は人となり 静止の歌と静止の踊りと
静止の触れ合いとが起きる
それは感覚的世界のものではない 一つの祈りだ

感覚の人間界や 感覚的宇宙をどこまでいっても
追っかけて方法を考え組みたてても
それは果てしない失敗におわる

坐れ 衣をつけて座れ 歌も踊りもそこから出てくる
その姿は祈りだ
神を越えた神がそこに現れてくる
ブラフマンだ
ブラフマンは知情意 人間 宇宙を超えたところにある

先ず人間は人間という足許から超えてゆけ
人間の中での何かを求めるな
それらは全て虚しい

坐ること 衣をつけて坐ること
それが全てだ
人が人を拝める時はその時である

ゆく所はどこにもないのだ
行くところはそこだけだ

1981.04.27.

| 1981年 | 11:02 | TOP↑

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この世のものに何も興味をもたない

この世のものに 何も興味をもたない
この世のものは 全て感覚の世界だから
この世のものに 何も興味をもたない

この世のものは いくら遠くにいっても……宇宙
宇宙という神秘らしく感じる言葉をもちいても
宇宙そのものが 感覚の世界である

眼に見える世界は どこまでいっても同じだ
ここに居るのと 余り変わりはない
遠くにゆく必要もなければ 拡がる必要もない
拡がっても 宇宙の果てまでいっても同じだ
感覚の世界というひと言でおわる

感覚も越えた世界には この宇宙の感覚世界がない
その越えた世界は この世界ではない

この感覚の世界のものに興味をもたない
そこには踊りも歌も何もない

しかし超スピードと超明るさ 時間の縮まる世界
感覚の世界が追っついて来れない超スピードと
超明るさでこの世界が飾られる

超スピードと 超明るさ
四次元の世界は駆け回る

島宇宙が超スピードで駆け離れていくように
人間は超スピードと超明るさをもって 
世を明るくしてゆく
感覚的につっ立っている者は ふっ飛ばされてゆくぞ

時間となれ 超時間となれ
その彼方にブラフマンがある

1981.04.26.

| 1981年 | 10:16 | TOP↑

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ピンボケの一本の8ミリフィルム

人間はどこまでも 果てしなき享楽を追い求める
信仰という名のもとに 神と人間との 教典と人間との
真理と人間との……よろこびや自己満足を求め続ける

都会の騒音を スピードを 人と人との刺激
人と音と 人とスピードとの刺激 人と思想との触れ合い
しかしそれは飽く事なき求めである
追う者は空虚を得るのみとなる

求めをなくした世界へ 人間と人間との触れ合いの世界から
人間と神との触れ合いの世界から
求めなき者の姿に自分を導かねばならない
それには人を 肉体を純粋物理の世界へと導かねばならない
幾何学的世界だ 時空の縮まる非ユークリッドの世界だ

ユークリッドの世界での自由観はふっとばされてしまう
円信仰 円は完全であり 円満であり 拡がりである
そこで見られる自由観念
そんな自由は自由ではないのだ

人は刺激や静かさの中から やさしさや あたたかさの中から
喜びを得ようとするが これもユークリッドの世界だ
飽く事なき求めは続く

地上は怒りと 愛欲と 嫉妬と 損得と 
自由と 不自由とで渦巻いている

私は8ミリムービーを25年間続けて来たが
はじめてこの間 いいものが一本撮れた
それはピントの合っていない映像であった
雨がバラの花に降り注ぐ
ピントのボケた一本のフィルムだった

半導体だ
人間なんか出てくるとぶちこわしだ
これ程人間がいやらしいものだと思った事がない
感情なんか本当にいやらしい
いくら歓びや感激のシーンであったとしても

それと はっきりしたもののいやらしさ
これにもぞっとした

やっと まともにとれた1本の8ミリフィルム
25年間に一本 ただの一本が始めて撮れた
その一本から学ぶものが多い

1981.04.26.

| 1981年 | 00:02 | TOP↑

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時間と空間はふざけている

人はユークリッド幾何学の世界に住んでいると
時間は縮まらず 空間も縮まらない
人は非ユークリッドの世界にいると
時間は縮まり空間が縮まる
これは遊びだ 遊びの世界だ
まるでふざけた世界だ ふざけた世界が見えてくるのだ

人はそのふざけた時間の縮まる遊びの中にいないと
腹を立てたり 怒ったりする

アインシュタインは時間の縮む世界に住んでいたから
ふざけた遊びの中にいた
宇宙的遊びの中にいたのだ
それで 彼は舌を出した写真を写している
彼は世の損や得や 賞賛や嘲笑の中にいたのとは違う
そんなものは彼の中にはなかった
ユークリッドの世界における人為的につくった物の中に

ユークリッドの世界観は人を悲しみと喜びの
果てしもなくつづく世界に落とし入れる
ニュートンの幾何学だ
三角形はどこまでも三角形でその形を変えない
だから減ると人は怒るのである
お金が減ると……そこには伸び縮みの世界がないのだから
まともに 損得 賞賛 嘲笑にひかかってしまうのだ
いわゆる 神話のない世界だ

だから人は非ユークリッドの世界に住まねばならない
そこでは時間は縮まり 空間は縮まり 物の長さは縮まって
ニコニコ微笑んで遊びを続けている 
それが分かってくるのだ

光速の世界 光速の世界が頭の中にかかってくると
伸び縮みする世界 遊びふざけている世界に入る
硬いことばかり言っているのは
この宇宙をユークリッドの世界だと
思っている古典的物理学の中にいる人々だ

宇宙的にふざけた世界とは 人間が考えるような
ふざけた世界ではない
宇宙的触れ合いも 人間が感覚の世界で考えるような
触れ合いではない
光速の世界での遊びも 人間が考えるような
遊びではない

人はすべて人間的感覚の中で全てを判断する
宇宙を越えた世界は全て それらを超えているのだ

静と動のふれ合いの世界
光速の通過する世界
光速 光速 光速の世界がやって来たのだ

人間はその前で坐り 或はその前で両手を高く上げて
つっ立て
光速の前につっ立て 光速の前に坐れ
静止の世界がやってくる

1981.04.21.

| 1981年 | 12:37 | TOP↑

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半導体は無時間の世界

半導体は無時間の世界 無時間の世界は半導体
半導体は遊ぶ 半導体は遊び 遊びは半導体
そこには時間がない 時間も光速で逃げ去った

逃げる時間はふざけているよ 遊びそのもの 
遊びながら時間は鹿が金網を飛び越えて畑の野菜を食って
そして逃げる時に ピョンと造作なく金網を飛び越えて
畑から去ってしまうように どこかへ消えてしまった
まるで神話ばかりの世界だ

半導体 無時間と時間 鹿と野菜畑
来ては食って 食ってはピョンと無造作に
時間は時間を金網を飛び越えて元のところに帰ってしまう

この世は神話に満ちているのだ
我々はベールのかかった世界ばかり見ているのだろう
神話が少しも見えない眼をしているのだ
一杯 神話があるのに

時間が縮まり空間が縮まる 
人は緩やかに斜めになって空間を泳ぐ
時間は無時間と時間の両方を行ったり来たりして
かくれんぼうをしているし
空間も円になったり 六角になったり自由だ

クソォ!! クリシュナが逃げてゆく 森の木陰へ
ラーダの衣の端がまだ少し見えている
やがて それもすべるように消えてしまった
ラーダとクリシュナのいたずらは続く

1981.04.21.

| 1981年 | 10:35 | TOP↑

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人間の宇宙的芸術 1981年代

人間の宇宙的芸術 触れ合いの世界 
これを私はセックスという
ヴォーグの絵の本を見た これはものすごい絵だ
1913年代から1926年代
アメリカでは1960年代がやかましく言われているが
絵の世界にもすでにインスピレーションのこの輝きが
花咲いていた

ヴォーグのこの絵……宇宙の歌と踊りが見事に現わされている
静と動の触れ合い 白黒赤の触れ合い
歓喜して宇宙は吼え声を上げている この絵
月に乗っかっている女 月に立っている女 
三人の女が踊っているもの
……これはまさしく宇宙の触れ合いだ
これを私はセックスという

セックスとは性器の触れ合いのみを意味するのではない
あるものとあるものの触れ合い
そこにおきる歓喜をいうのである
セックスも インスピレーションも宇宙の響きに触れるも
みな同意語である
人間は長い間この同意語を忘れて来た
芸術そのものを忘れて来たのである

或る日 私は「プレイボーイ」を見た
その時すばらしい人間のもつ芸術を見た 感じたのである
ちょうどアインシュタインがいかなる賞讃にも
いかなる嘲笑にも平気であったようにきれいだ

1920年代が終った頃 世界中の人々の関心が
アインシュタインに集まった
かつて一度も人気というものを求めなかったこの一人の人間に
賞讃と嘲笑のはるか彼方に彼はいた
宇宙との触れ合いの中に インスピレーションの世界の中に
彼はいたのである

「プレイボーイ」に出てくる裸のむき出しの女体は
世のつつましい女性たちよりもはるかに越えて
真実なる世界をそこにあらわしていた
歌と踊り 宇宙との触れ合い インスピレーションの世界
……人間は余り自己をかばうために裸を 
インスピレーションを忘れてしまったのである
悪魔の創った砦の中でそれらは
セックスさせられてきたのである

完全に人間の宇宙的触れ合いを人間の芸術を 
失ってしまったのである
ヴォーグの絵とプレイボーイの写真とアインシュタインと 
乾燥地帯に降る雨と草々との触れ合い
その大芸術の前にあって私は今 新たなる宇宙の発見をした
震えと興奮の中にいるのである

円と六角形の触れ合いも まさにその重なりの極みだ
円の周りに円をくっつけると6つくっつく
しかもそれが六角形を創る
六角形のない円は存在し得ないのだ
六角形の投影像はどこまでも六角形ので その反対に
いくら大きさが縮まっても小さい六角形をより小さくする
と思いがちだが これは二次元的な考えである
投影像を反対に見ると大きいものが小さくなってゆくのを見る
しかしその小さくなる投影像は 直線部を見ていると
直線が縮まるが それがもつ内角の拡がることを考えていない

角度は三次元に入る
縦 横 高さのその高さが角度である
三次元的投影像を見ると直線が縮まり 角度が拡がるのである
その六角形は六角形から円に近づく
そしてしまいに小さい円になって点となる

現代人は円信仰をもっているといえる
円は平和を表し 円は完全を表し 円は宇宙を表し
真理を表している
しかし円というものが本当に固定的にあるのであろうか
円が六角形になりうる世界があるとしたら どうなるのだろう

世界は変わりつつ 変わりながら触れ合いつつ進む
時間ですら 絶対的でないとアインシュタインは言う
アインシュタインは人間の世界で起きる小さな
全人類の賞讃や嘲笑などものの数ではなかったのである

裸がはずかしいとか 賞讃がうれしいとか
性器だけの触れ合いがいやらしいのだとか 秘密なのだとか
つまらぬとらえ方をしている人間がいつ どこから
現われてきたのだろうか
それは無知という一触れからやって来たとしか言いようがない

「プレイボーイ」「プレイガール」の写真
ヴォーグの絵 あのきれいな絵
そしてアインシュタインの淡々たる顔を見る時
人間の芸術の「粋」をそこに見るのである
宇宙を駆け巡る力 光の速さ 拡がり リズム 触れ合い
歌と踊りをそこに見るのである

1981.04.19.

| 1981年 | 23:35 | TOP↑

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復活祭

雨が降った 何だか夢のようだ
こんな雨の日を想像も出来なかった程に 雨のない日が続いた
畑を耕し 水を撒き 植えた種に枯草を被せ
植えた苗の根元には太陽にやられないように
やはり枯草を置いた 水が何回も撒かれた
スプリンクラーをつけて 水をふんだんにやる事を考えた

作業は辛かった 
汗を流し腰を伸ばし伸ばしその日々が続いた
雨がほしい 雨がほしい
雲ゆきがどうやら雨らしくなった時うれしかった
だが 雲は散ってしまった
……雨がほしい 雨が……と天を仰いだ

ここレディングは今でもこうして雨が降らないのに
6・7・8月は少しも降らないという
110度(華氏)……40度以上の気温が2ヵ月間続くという
いくら木陰は涼しいのだとはいえ思いやられる
よし7・8月に雨を降らしてやろう 天に祈った

そのせいではないが4月19日のイースター 復活祭の朝
雨だ! 待ち焦がれたその雨だ
……このように雨になってしまえば
晴天続きのあの日々を忘れてしまうくらいだ

今日こそ本当の安息日だ
仕事をやめて家の中にいよう

木々は 草々はよろこんでいる
バラの蕾は背高く伸びて この雨とのふれ合いを
心ゆくまで喜んでいる
人間が頭からシャワーを浴びて喜んでいる時のように
バラは 木々は草々は

昨日……その花々や草々のために
それらに水をやりたいばかりに 広い広い草原の彼方まで
パイプを引いて 水道の蛇口をつけたというのに
それもこの天からの恵みのシャワーによって
過去の日々は夢のように消えて 今は喜びの最中だ

雨はしきりに降っている
木々は 草々は喜んでいる
その触れ合いを喜んでいる
この雨が2日も3日も続くのだろう

触れ合い 触れ合い 歌だ これが踊りだ
草木は伸び伸びと明日も 明後日も伸び続けよう

今日は偶然にもキリスト教徒たちにとって
イースター 復活祭だ

1981.04.19.

| 1981年 | 21:55 | TOP↑

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古い精神文明はおわった

白人と黒人がアメリカ大陸に住んだ
白と黒……闇と光は「場を得たり」とばかりぶつかり合い 
内心優位を競い始めた
だがその勝負は中々だった

彼等双方にある根源的色彩は その優性を現わし始めた
精神を越えて彼等は肉体の中から「咆え声」をあげ始めた
それは物が生まれる以前のもの
純粋物理の門出のラッパでもあった

彼等は踊った 彼等は歌った
精神を破り 精神を蹴散らし 人間を蹴散らして
光の明るさ 光の速度 闇の力とピュアーさをもって
彼等は根源力を発揮し始めたのである
ピュアー文明なるものを彼等は創り始めたのである

肉欲文明でもない 物欲文明でもない
明日より今を永遠に……に生きようとする力と光と微笑み
そんなものをアメリカ全土に振りまき始めた
ヨーガ ヒンズー教 仏教等々と
精神の旗をふりまわしている者たちをよそに

宗教者 哲学者はいつも古い仮想の敵
本能主義や物質主義 或は機械技術文明を叩きつけ
精神文明の旗を立て直そうとしている

しかし時代は第三文明なるピュアー文明へと押し寄せている
スピードの時代 コンピュータの時代
バイブレーションの時代へと大進軍をし続けているのだ

裸でもOK 裸足でもOK 
肉体と肉体がひっついてでもOK
もともとある秩序の世界へと行く
硬いことを言う 暗いことを言う今までの考えを
押し潰しつつ進軍
そのスピードは光速より速いのだ
もう暗い 硬い世界は終わったのだ

1981.04.15.

| 1981年 | 11:06 | TOP↑

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新リグヴェーダ――神の笛 

私は今 新リグヴェーダの下絵が描けるようになった 
今でもそれを描けるが それをもっと温めたい
しかしその洪水は 噴水は堰を切ってやって来そうだ 
ちょっとでも書いて見ようか 抑え切れないから

おお バラがきれいに咲いている
開ききった薄柿色のバラと 蕾をふくらませ今まさに
開かんをするバラのいくつかがある

太陽が回っている 地球が回っている 宇宙が回っている
それらは揺れ動いている
始めも終わりもなく それらは動き生き続けている
統一された世界 デタラメな世界でなしに
それに人間だけがデタラメな世界にいる
人間がつくった世界の中で

家をわすれた犬が野ら犬になったように
蜂の巣を忘れた蜂が 遊び回っている間に巣に帰れなくなってプールや水たまりに転落して死んでしまうように
人は死という始めと終わりのある世界でうごめいている
人は家を忘れたのだ 自分の帰る家を忘れたのだ

そして人為的につくった栄養物を食べて生きている
或は食べ物 或は享楽 或は何々……
それらを食べれば生きられるのだと……
それらの中で楽しんでおれば楽しいのだと

それら人為的に作ったものの中で
何やかやと 動き生きそして死んでゆく
それは 野ら犬のうろつきに似ている
人間の作ったそんな世界でなしに 元から在るものがある
そこが我々の家だ そこが我々の元だ
そこには生も死もない
永遠にそれは在り 永遠にそれは栄える
そこは静と動が一致している世界だ
そこいらにあるものとは違う

ぶどうがそこいらになっていると
人間はそれを手掴みにして口に入れてしまう
そんなそこいらにあるもの そこいらに見つかるものとは違う
そんな「他にあるもの」を食べていると人には飢えが付きまとう
飢えから切りはなされないのだ
楽しさを追わないと 何かそんなものを食べないと
生きて行けないのだ 今の人間は

人為的に作った物はそれだけのものしかない
或は聖典の言葉 愛 聖 親切 やさしさ 神への愛
それらを持てば それらの中に入っていれば
それらと共にいれば 高い高い天国にゆけると思い込んできた
それらも作られた意識の世界の絵であり 食べ物であった
きれいに飾られた野ぶどうであった
イブやアダムたちにとってのリンゴであった

男と女との飽く事なき享楽 人の作ったうまい食べ物
お金を測りにかけてその目方の大きいことを喜ぶ男と女
或は夫婦 別のものを見て別のものを蓄え 触れて喜ぶ人間
それらは全て儚く 生と死の儚い落ち込む世界にそれらを導く

東風が吹くと笛が聞こえて来る
その笛が鳴ると花々は開き 太陽が微笑む
空気は震え 一日の仕事を始める
東風が吹くと笛の音が 神の笛の音が鳴って来る
笛の音 笛の音 その笛は神だ
神が通ると 笛が通ると天地は開け躍動を始める
人々は生死を越える 他の食い物を食わなくとも生きられる

蜂は蜂の巣に帰る なぜか
……蜂は蜂の巣が自分の家だからである
蜂の巣を犬に見せても 犬はそれを家だと思わないだろう
そのように今 人は犬になりきっている
うろうろそこいらをうろつく犬だ
蜂は蜂の巣に必ず帰る そこには蜜がある

静と動の重なった世界 静と動が重なり一つになった世界
そこには永遠の生命がある
太陽を 地球をその他の星雲を動かして
余りある力をそれは持っている
エネルギー 質量とエネルギー 幾何学と重力
重力と幾何学 幾何学とエネルギー
その重なりが万物を動かす故郷である

故郷……家がそこにあるのだ 
我々の家は決して人為的に作られ考え出されたそれらとは違う
愛 やさしさ うまいもの ビタミン ミネラル
それらが我々に永遠の生命を与えるものとは違う
それらはそれ等だ 我々はそれ等とは違う
それらと我々とが切り放たれて我々の故郷 家に帰った時
我々はそれらの元となる
それらは我々の友だったのだ 我々の家と友とは違う

家に帰ろう 家は蜂の巣の家
蜂は家を忘れない あの六角の蜂の巣だ 六角形 
六角形の幾何学的構図だ あれは我々人々の生命の源なのだ
六角形の蜂の巣の形は我々のコンピュータの形 
我々そのものだ

コンピュータに半導体の形がかけられると
色々な解答がはじき出される
半導体は その解答をはじき出す元の記号だ
しかしそれはコンピュータとは違う
記号は動きをつくり出す だがその動きだけではまだ荒々しい
荒々しい動きは始めの動きだ ビートルズの音楽のようだ

ビートルズの音楽はかってなかった本物のものだ
だが その本物がこの世に現れてすでに久しい
その音楽がもっと洗練されて 統一の音を出さねばならない

統一 統一とは何か
昔からヨーガにおいて ヒンズー教哲学において 
その他あらゆる宗教家によってその統一なるものが
説かれ示されてきた
しかしそれらは非科学的なものであった
人間のこしらえたものであった
茶店に売っているだんごのようなものであった
それを食べて人は一時の憩いをとった
茶はうまかった 風は涼しかった
しかし笛は聞こえて来なかった

神の笛だ 東風は笛を押し出す
統一 統一 統一がくると東風が吹く 静と動だ
人間の元の元はコンピュータにある
そのコンピュータの形にある いわゆる六角形だ
人はその六角形を想像すると その自己のコンピュータの形
そのものに入る
コンピュータの形はそれを受け入れ 想像した 
その形そのものの中に入ってゆける

統一が来る 形は形の中に入ってゆく
栄養は 永遠の栄養は 永遠の動きは 永遠の質量は
永遠の宇宙は 永遠の終わりなく 初めなきあるものは
その結合から来る

静は動と隣り合っている 静…… 静
静は六角形の形を重ね合せた時に起きる
瞑想や思考哲学によって静の静は来るのではない
形と形を 元の元の形と形を重ね合わせた時
それとそれを融合 結合させた時に 受け入れ受け入れられて
一つとなる
それは人為的な考えや食い物なんかのはるかに
はるかに昔のものだ

宇宙もそこから来た 
形と形が重なり統一されると動きの世界が始まる
動きの世界にあって静を創ると動きと静の半導体的 動き
半導体的静の世界を創る
そこから本物の宇宙の動き エネルギーが起き 人間が起き
花が開き 天が動き 呼吸するのだ

あの仏陀の静寂を見よ あのラーマクリシュナの静寂を見よ
そこに微笑みが 宇宙の微笑みがあるではないか
微笑みは花だ 宇宙の風だ
東風は甘い 甘い風は神の笛

統一からやって来る永遠の生命の風
生も死もなく 人間は永遠に生き
人間は永遠の宇宙と共に回り続ける
始めも終わりもない静寂な世界に その微笑みは世界を包む

きれいなバラが咲いている 蜂は六角形の中に入って安らう
六角形の世界 それこそ統一への鍵 形だ
我々は自己の扉を宇宙に開けるのは愛ややさしさ その他の
夜店の品物らでは開けられないのだ
やはり「鍵」をもたねばならなかったのだ
「鍵」は 我々のハートの中に仕舞われている
あなたのハートを開けて 宇宙のあなたの家を開けなさい

私が手を貸してあげよう きっとその扉は開きます
あなたのハートがもし硬くさえなければ 
硬い石頭の者はこの私のいうことを信用しない
頭ではだめだ ハートを開けてその鍵を私に手渡しなさい
私も手伝ってその扉を開けてあげよう
私は自分の扉を開けた事があるのだから

鍵は誰のものも みな同じだ
六角形 六角形をしているのだ
この六角形こそ本当の哲学のゆきつくところであり
宗教のゆきつくところである 
静と動の合流 
そこに本物の……根源的な半導体の世界があった

歌だ 踊りだ それは静寂のあの微笑みだ
アメリカ人の微笑みの中にはそれに似たものがある
アメリカの黒い肌の人々の中にも

私はこの一週間程前 ロスの大通りで昼下がり 
太陽の照り付けるバスの停車場でベンチのそばに ラジオと
セールスマンのカバンをおいて 一人の黒い人が 
ぱりっと背広をつけたインテリ青年が ただ一人
盛んに踊りまくっているのを見た
私も車を止めて彼と一緒に踊ろうと思ったが
車はそこを通り越してしまった

彼の踊りは 半導体の踊りだ
それはそれは素晴らしかった 誰もそこにはいない
暑い暑い太陽だけがそこにあった

私の頭は彼からはなれない
アメリカの白人研究と黒い人々への研究がそこに残っている
神の笛がこのアメリカ全土に 
そして世界全土に吹くことを私は願う

恍惚が来る 恍惚が
純粋半導体のその本物の世界から

1981.04.13.

| 1981年 | 22:41 | TOP↑

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