FC2ブログ

1989年10月 | ARCHIVE-SELECT | 1989年12月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

詩と神話の関係が分って来た(4)

禅味は無と有の境にあって
無の性格を多量にもっている
その神話が もっと全ての物の中に精を見る時
それらは踊り出し透明な遊びとなる

わびさびの透明から 遊びの透明に変わって来る
ダルマ大師の厳しい姿や 乞食の世界や葉隠れの世界でなしに
いつも未来に向って踊り出す輝いた世界がやって来る

ダルマ大師に葉巻をくわえさせてみよ
ダルマ大師をキャデラックに乗せてみよ
両手を上げて踊り出すかも知れない

厳しさや 黒い服装を一生続ける必要はない
禅が乞食姿や 葉隠れの武士道とひっついた所に迷いがあった

無であれ 空であれ 一神教であれ 多神教であれ
先ず人間は 人間存在そのものが詩であり
人間の内なるバイブレーションそのものが神話である

「樹が一本立っている それは詩である」
「松は葉っぱと葉っぱを触れ合わせて子供が産まれる」
「僕はワニの眼の中から生まれた」

これらの言葉を足掛かりとして
詩と神話を実現しよう

1989.11.28.
スポンサーサイト



| 1989年 | 21:37 | TOP↑

≫ EDIT

詩と神話の関係が分って来た(3)

神話への旅と詩への旅
禅はそのうち詩への旅の方に近い

空 無 それらの旅は停止の方向に向かう
いわゆる根源の方向である
しかし その根源的なものへの旅は 
行きついた所で降りて来なければならない
いわゆる 人間性の中に

禅味とはそれである
遊びがそこにやってくるのである
透明な角度をもって

では神話の高みとは 何を意味しているのだろうか
それは「詩」である
詩と神話は隣り合い 無と有の接点をもっている

詩は物の有そのもの 存在そのものをとらえ
停止しており 動きがなく 言葉もなく 無の世界側にあり
神話は動きとなり 心となり 有の世界に属する

精も有の世界に属し リンゴや机や椅子が
時には神話と見え 詩と見えることがある

それはそのものの精を見た時 神話が現れ
存在そのものをとらえた時 詩がとらえられるのである

1989.11.27.

| 1989年 | 21:37 | TOP↑

≫ EDIT

詩と神話の関係が分って来た(2)

詩の中には生きた動物 生きてそれ自体がとび廻り
走り回れるものが入らない世界である
それは神話の世界に属する

詩は「樹が一本立っているそこに詩がある」ように
動物が入ってこない世界である
動物には心があり その心の入っていない世界である

例えば夕焼け空もそうである
それ自体が詩である
そこに鳥が飛び うさぎが飛び跳ねて来ると神話になる

いずれにも 根源的には不動があるが
現われとしての神話には動がある
いわゆる植物や鉱物以外の生き物が登場すると
動きの世界 心の世界に入り神話となる

そういう意味で 詩は奥なる世界に近い
現われとしての遊びは 神話と手を結んでいる
神話の中に 遊びが秘かに忍び寄っていく
それはリズムをもって
それは 透明な歌と音楽をもって

現われとしての歌と音楽は神話の中で踊りはじめる
木の精 花の精 人間の心の中にある精
「詩」は踊り出てくる

静かに精は 神話を立たしめ
時にはチャメッケのある世界まで展開してしまう
光司が「僕はワニの眼の中から生まれた」
それがこれである

透明な角度は踊り 跳ね 贈り物として
細い線で布絵を織りなす
そこには知識の世界とは違って
理性の弾き飛ばされる世界である

人間の心の汚れは 無論入ることは許されない
神的な者だけが参入出来る世界である

詩の世界も 無論そうであり
そこでは仏陀のいう空の世界 無の世界がかい間見られる
そういうような意味で禅の世界は詩的で 神話がそこにない

人間が神話の世界から遠のいたのは知的になり 
哲学的になり過ぎ 物質欲的になり過ぎたからである

人間が人間たらんとし 人間が自己実現せんとするならば
この神話を持たねばならないのである
いわゆる今は神話の危機のどん底へ
直行しつつある時代である

それは 神への信仰が余りにも権威を持ち過ぎ
神話の位置をくらませたからである
神は元々なくて神話性が 神を創り出したのである
ということを忘れてしまわせたからである

人間喪失 人間喪失はそうした歴史のもとに
底をついてしまったのである

故に人間は自己の本性である詩と神話を 今こそここに
復活させねばならない

ハイネが言っているように 神話を文学の中から
見つけようとすることは逆さまである
文学的空想はむしろ神話の退化に 拍車をかけたのである

神話こそ 人間の精神が持つ根源的言語であり
この神話の深みより汲みとられるべきである
「松は葉っぱと 葉っぱをふれ合わして子供をつくる」
これは現実の世界を越えて 透明な角度をもっている

我々は自己の浅い 現実的な考えで
神話に近づこうとするのでなく
神話の言葉を聞き取る為に まず神話の高みにまで
自己を高めねばならない

それが為に 透明なる線透明なる角度
透明なるリズムの中を旅しなければならないのである

これこそ 我々がどこかに置き忘れてきた一本の笛である
その一本の笛 神笛を我々は吹き続け
旅し続けるのがこの生きた人生である

1989.11.27.

| 1989年 | 14:48 | TOP↑

≫ EDIT

詩と神話の関係が分って来た(1)

詩と神話が どう違うのだろうか
これを追跡するもなかなか分らない

何日も 何日も 何時間も 何時間も 
何ケ月も 何ケ月も 何年も 何年も
この作業を続けて来たがなかなか分らない

詩には根源的な詩と 現われとしての詩がある
神話にも根源的な神話がある

現われとしての詩を見る時 それには動きがない
しかし 現われとしての神話には動きがある
しかもそこに遊びがある

遊びと 詩と 神話は根源的に関係し合っている
だが 現われとしての神話の中にある遊びと 
現われとしての詩の中にある遊びと 違うものがある
詩の中にある遊びの方が もっと根源的である

世の中の人々は詩とか 神話とかを簡単に口にするが
本当に 詩と神話を理解していない

今までに 神話を真に理解した人にハイネがいる
ハイネは 神話的物語と「神話」との区別が出来た
しかも彼はその「神話の高み」にまで登っていった

だがここで詩についても もっと考えられねばならない
詩とは 文として書いたもの
それを詩ととらえている人が多い
それは人間の言語となったものだ

「詩」は人間の知性を借りなくても
いたる所にそれはある

そのように神話も 人間の知性や言語のやっかいに
ならなくともそれはあるのである

ところで その詩と神話との関係がまだ
はっきりつかめてこない

言語の世界に入ると
詩と神話は 全然違うものである
だから根本的にも 詩と神話は違う性質をもち
違う構造をもっている

まだ まだ 
これがはっきり分るまでには
長い長い時間がかかるだろう

1989.11.27.

| 1989年 | 10:26 | TOP↑

≫ EDIT

透明な角度の中を旅する者

透明な角度の中を旅する者
その者は神話の中にいる者

神話は透明な角度の中を
行く事によって生まれる

遊び 遊びが
そこにある

この世ならぬ 透明な世界
透明な光の角度の中を
旅する者よ

1989.11.11.

| 1989年 | 09:56 | TOP↑

≫ EDIT

英雄的合衆国

礼拝 礼拝 透明な礼拝
相対的な礼拝でなく 透明な礼拝

静かに それは
自己と宇宙の本性が開示する
最初の相

静かに両手を合わせてみよ
そこから歌が 踊りが 語らいが始まる

詩人の誕生
開かれたもの 透明なものの誕生である
開きと透明は神の相そのもの

すべての人種を受け入れる合衆国 
それは開きと礼拝の相 そのもの
合衆国が英雄的であるのはその為である

合衆国自らが 詩人であることを認識する時
偉大な詩人が市民の中から
泉の如く 湧いてくる

全ての男女からなる アメリカ
合衆国の未来を歌う詩人たちが

1989.11.09.

| 1989年 | 10:09 | TOP↑

≫ EDIT

透明な礼拝は遊び

礼拝 礼拝 
透明な礼拝
礼拝は遊びだ
遊びは礼拝だ

透明の中で遊ぶこと
透明が遊ぶこと
それが礼拝である 

静かに両手を合わせてみよ
そこから踊りが 遊びが始まって来る

そのものの中に突入してくる
礼拝が そこに花開いて来る

1989.11.07.

| 1989年 | 09:59 | TOP↑

≫ EDIT

神話は遊びの中から

神話の中で遊んでいる
神話の中で遊んでいる

神話は遊びの中から生まれて来る
神話は遊びの中から生まれて来る

神話の中に遊んでいる
神話の中に遊んでいる 

時間も遊んでいる
流れて来る時間も遊んでいる
空間も遊んでいる

一者の微笑みは そこに輝いている
透明なる一者の微笑みが

1989.11.04.

| 1989年 | 09:12 | TOP↑

| PAGE-SELECT |