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2003年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2004年01月

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メビウスと円に宇宙を見る

宇宙とは 存在するものである

では存在とは何か

存在とは 存在するものである

その存在するものとは何か

それは 無か 有か


それは 無でもなければ 

有でもないものである

そういう存在するものがある


それは 中性子のような存在である

有でもなければ 無でもないもの

それが中性子である


宇宙の初めに何があったかを尋ねるのは

愚である

宇宙には初めがない


宇宙とは 存在してあるそのものの事である

宇宙は在るから それを尋ねるのである

尋ねる人間もあるから

問題提議の内に入るのである

在る者同志が 向い合っているのである


宇宙は別に向い合っているのではない

人間さまが 向い合っているのである

そして無駄な長い時間を 費やしているのである


人間自らが 在る者 存在者の一つである

仲間を調べるより

自分自身を調べた方が賢いのでは

ないか


では自分とは何か 

それは存在物である

存在とは何か

存在するものは 時間の上にのっかっている

存在するものは 距離の上にのっかっている


では 時間とは何か 距離とは何か

それらも 在るものである

となると在るものは 何を 根拠として

いるか

それは 点を根拠としているのである


では 点とは何か

点というものはあるのか

……いや 点とは在るのに 無いのである

線と同じだ


それらは無から現われたのか

いや無から何も 生れてこない

これはヘーゲルも言った通りである

シェリングは 有は無から生れたと説いて

ヘーゲルにやっつけられてしまった


しかし老子も同じように 無から有が

生れたと言っている


もしかすると 無も有もないのかも知れない

あるのはただ 存在というものが在るだけ

なのかも知れない


雲の上に浮いているようなものだ

あるかと思っても 姿が変わる

これは有の内に入らない


変るものは変るものであって 有ではない

では変わるその存在物は 何なのか


それは雲のように 浮いている何かのような

ものであり

有でも無でもないもの

しかもそれが巡環していて 永遠である


その永遠なるものを∞メビウスで見てみよう

円で見てみよう


それらには端がない

端のある物は 有とか無の部類に入る


しかしメビウスの図式を見てみよう

そこに一つの交叉する点がある


円を見てみよう 直径と円周の交叉する

所がある

交叉する所もあるし 距離のある直径と

距離のない物の同居がある


これは一つの遊戯であり オチャメの

遊びである

存在物はすべてこんなオチャメの

遊びを 内在しているのか

それとも 遊戯そのものか

オチャメそのものか


有でも 無でもなく オチャメさん

そんなものが 存在というものかも知れない


存在は中性子を骨子として存在している

のであると言えるのかも知れない


すると存在は 進化するものであり

進化の骨子に中性子的な

法則に従わねば進化しない

のかも知れない


そうでないと存在の意味もないの

かも知れない


そうだとすると 人は永い間

有と無を 論じる事に時間を

ついやし過ぎたのではないか


道徳も宗教も哲学も共に その

線上を 歩んで来たのではないか


何が善で 何が悪かとか

真なるものを その線上でさがし廻って

いたのではないか


そこで仏陀は中庸を説いた

しかしその中庸というのは どんな

ものだったのか

有と無 善と悪の中間という意味の

ものでなかったか


もし中庸を宇宙存在の骨子としたい

ならば

それは有でもない 無でもない 

しかも有であって 無である

無であって有であるといったような


中性子的なものならば

まともなものとなろう


1は1であって 2になり得る

2は2であって 1にも0にもなり得る

といった

巾の広い力を 仕事を 働きを

もっているもの

もっているもの

円やメビウスのように 距離のある物と

ないものとの交わり


仲良く行こうというオチャメな遊び

そのもの

それが1であり2であり

それが数字の骨子である


科学 哲学 宗教をよりよく

高貴にするもの

それが中性子である

いわゆる点である


点がおどると 線となり

線がおどると 平面となり

立体となる

そのおどりなくしては

この宇宙は出来てこなかった

のである


無心のおどりは

進化と存在の骨子である


無心 無知を意識すると

手が上ってくる


それは 神聖なる門に入る

姿であり

同時に知を投げ捨てて

無心になった姿である


手が自然に 顔の高さまで

両方共あがる


2003.12.31.
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| 2003年 | 23:28 | TOP↑

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無心の儀式が踊る

宇宙の奥はピュアーだ

ピュアーには 心の要素がない


ただ無心の運動がある

循環という遊戯的な

運動のみがある


人間は 宇宙を体現しようと思えば

心でなく

その無心の深淵に入らねば

ならない


それ故その無心を儀式化

してしまうことだ


人間という生き物は宇宙のピュアーから

出来てきている

それは無心をさらに展開した

ものである


宇宙の循環の遊戯を 更に

心の世界を超えて儀式化するのが

人間の役割である


無心が儀式となると 踊りが始まる

全身が手足をふって 踊り始める

舞だ 踊りだ

これが人間だ

神話とはこれだ


無心を儀式化したのが

人間そのものである

無心を儀式化すると 今までゆれていた体が

手足が動き出し それが

踊りとなる


儀式とは春の発芽のように

踊り出す儀式なのだ

春の芽生えとして現われたものが

生命なのだ


無心が踊りに変化したのが

人間であった 

命あるものたちであった


生命あるものも 生命のない物も

躍動するものとして現われた

月も 太陽も 星々も

踊る者たちである

原子ひとつでも 

踊っている


人間だけが踊りを忘れて

心の世界に囚われている


踊れ 踊れ 

踊りながら宇宙は進化して

ゆくのだ

宇宙の進化を祝して

時空と供に踊るのだ


2003.12.31.

| 2003年 | 15:40 | TOP↑

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時間を止めた行為の現われ方

時間は思考によって出来ている

これが分った時

思考を止めた 

つまり時間を止めたのである


すると そこに人がいない時

それはオチャメ踊りの儀式として

飛び出て来た


そこに人がいた時には

「やさしさ」となって現われた


儀式がやさしい行為と 言葉となって

出て来ることが分った


この二種類の現われ方があることに

気付かされた


2003.12.24.

| 2003年 | 11:27 | TOP↑

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思考は時間をつくる

霊感を得ようとすることは 間違いである

なぜならそれは頭での世界 つまり思考に入る

ことであるからだ 

それでは時間を超えられない


思考を止めると

オチャメ踊りがふき出てくる

それは頭の世界でないので 

時間を超えた世界である


時間を超えたものが

儀式として やって来る


時間は 思考の世界にいると出来てくる 

その思考から行為の世界 踊りの世界に入ると 

時間を超え 

時間から抜け出せているのだ


時間は思考の産物である

時間を抜けて

開けた天地の世界に入れ


以前 神から「天地を開け」という啓示を

受けたが 

これがその答えであったのだ


2003.12.24.

| 2003年 | 11:25 | TOP↑

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「やさしさ」と「遊戯性」とはちがう

「やさしさ」「親切」は 孔子の用語である

宇宙と人間の本性は 「やさしさ」ではない

「遊戯性」(オチャメ)である


そのオチャメを忘れている人間は

儀式という言葉を唱えて

引き出さねばならないのである


悟りも何もいらない 

本性さえ見つければよかったのである

それが啓示によって 知り得たのである

決して自分が見つけたものではない


連鎖の中には 合理と非合理が遊戯している

それが存在の真理である

もし真理という言語をもちいて

それを探すならば遊戯 即ちオチャメこそ

真理である

それが自己そのものである 


故に儀式なる言語を唱えて

それを その忘れ切っていたものを

誘発するのである

それだけが求道の結果

その金の細かい通しに 拾い上げられたものだ


永い歴史のあやまちをつくり

それに育て上げられて来た自己を

歴史的にカムバックしなければならなかった


それに50年の歳月がかかった

勝利は天の手助けからやって来たのである


2003.12.22.

| 2003年 | 21:59 | TOP↑

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儀式は遊戯性を誘発する

神話は言語なき言語である

すると言語を持たない人間に

アホの顔が出てくる

それは

知識の世界をもたないという知の顔だ


言語でない言語が神話なら

何もかもあるもの 石ころでも

神話である

すると世界は神話に

囲まれているのである

それが響だ!!


神話とは 言語なき言語

連鎖の遊戯性 対話である


ところがその真理なる遊戯性が

いつも人間から忘れさられている故に

それを誘発する為の

「儀式」という言語でもって

自己に言い聞かせる必要がある


人と人が会った時 人と人の関係の中で

「儀式」と心の中でつぶやくのである


すると遊戯性が誘発され(やさしい)行為が

遊戯的に出てくる

このやさしい行為は

孔子のいう やさしさとか親切ではない

遊戯性のあるやさしい行為なのである


儀式という言葉を 常に自分に言い聞かせ 

心の中でつぶやくのだ


なぜなら人間は

永い間の間違った歴史の中で

その遊戯性を失いきっているからである

言語が出来てからそんな悪い人間に 

なりきってしまったのだ


2003.12.22.

| 2003年 | 21:53 | TOP↑

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太古の人の響きとは

太古の人は 響いていたという

その響きという言語に 今まで

ひっかかっていた感じがする

なぜならそれは 現代人が感じられる

響きでないことは たしかだからである


すると 太古の人のもっていた響きとは

どんなものであったのか

……それは 言語でない言語ではなかろうか


言語で現わされない言語

言葉で現わされない言葉

それが響となって 伝わっていたのではなかろうか


だから我々が使っているような 響きという言語の

響とは 全然ちがうのである

となると その原始の響はどんなものであるか――

神話がそれである


神話とはそうした 言語でない言語 即ち 

原始の言語である

だから神話は 原始の言語であると

言われるのであろう


原始の言語 即ち神話

神話とは 言語なのだ


例えば 炎のおどりの形相

又は「ゆれ」なども 言語なのである


即ち 宇宙意志が 炎のおどりとなったり

又は「ゆれ」の形で あらわれたりする

……そういう言語以前の言語が

「ゆれ」であったり 炎のおどりでもある


すると 矢印一つでも

言語でない言語であると

はっきり分ってくる


原子の動きも 言語なき言語である

神話はそれだ

言語なき言語だ


世界は だまって動いている

太陽も だまって動いている


人間だけが しゃべっている

だから 神話がこないのだ


2003.12.22.

| 2003年 | 00:25 | TOP↑

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アホの顔になるには

アホの顔になる事

これには 強力が必要

強力なオチャメが 光をはなつ

それが アホの顔となる

ただ ボーッとしておっては

アホにもなれない


輝けるアホの顔になること

それには今ここで 強力になること

強力は オチャメをつくる


強力を忘れると 今ここでを忘れる

距離の中に入っては 考える人となる


ものを言わない オチャメ

ものを言わない アホ


ものを言わない オチャメ

ものを言わない アホ

顔や体が ものを言う


昔は 言葉がなかった


2003.12.21.

| 2003年 | 20:47 | TOP↑

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構造の世界

二階に上り お祈りをはじめた

すると 神聖ということを 考えている目の前に

神聖というものが

立体になって現れた

そして 平面となった


それで 神聖というものは こういう

物理的な

構造をもったものだと 分った

一つの 驚きであった


これを もっとさぐれば

「神聖」というものが

どうしたら そうなれるのかという

道筋が

分って来るだろうと思い

もっと 見つめていた


すると 平面という生きもの

構造をもつものが 線となった

その線が 消えそうになったり

現われたりしながら 白光 

白光体の線となった


これが神聖というものの 正体なのかと

分った


水でも結晶すると その構造という正体が

現われてくるように 

神聖というものに なろと思えば

単に 聖らか……神のように聖らか……

などと考えても そんなものでなく

こんなものにも 構造がある事が 

分ったのである


即ち こんな神聖というものも 

一つの生きもの

構造によって 組み上げられた

存在物であるということを

知り

宇宙というものを

改めて 認識させられた


白光体の線――それになること

そこに 神聖というものに 

ならせてくれる道筋が

ある事を おしえてもらったのである

天の啓示だ!!


最近は 次々に奥に入れるので

とても愉快だ


2003.12.19.

| 2003年 | 15:39 | TOP↑

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ちがう世界

点も 線も あらゆる可能性も消えた

そこから出てくるものは 何か

そこから出てくるものは

あらゆる可能性である

零ではない


あらゆる可能性を 放ったそのあとに

出てくるものは

あらゆる可能性である 


力である

幻想力である

それは ちがう世界のものである


2003.12.06.

| 2003年 | 21:50 | TOP↑

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