FC2ブログ

2003年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2004年02月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

気息という自分があった

気息だけが 自分だ

自分の名は 「気息」だ

自己一人が 生きている世界だ


古代インドの詩集

リグヴェーダに

「我れは 気息なり」という

言葉がある


それにならい

この世における 全ての出来事 

行為をすて

自分そのものだけがある気息に

かえり

とどまること


それが 助かる道である

酸素は 酸素を呼吸して 生きている

気息こそ 自己であり世界である


それ以外の すべてから

言語からも はなれよ


創造以前の世界に かえれ

そこは 光でない光 白光に

輝いていた


2004.01.21.
スポンサーサイト



| 2004年 | 23:13 | TOP↑

≫ EDIT

気息はゆれである

オチャメは 斜めをつくった

斜めは 気息をつくった

動きである


動きは 興奮となり 躍動となった

生きるものが 産まれた


それが 翼の躍動となった

やわらかい躍動は

空をとんだ


すべてのものを そのやわらかい

舞によって包んだ


羽毛はやわらかく 自由をもった

やわらかさ 自由 やさしさ

その舞は オチャメ儀式となった


点が 線になる様に

オチャメが 儀式となった

それが やさしさ 自由 やわらかさである


気息は シャボン玉を吹き出すように

その舞を 儀式をもって

ひろがった


2004.01.21.

| 2004年 | 09:37 | TOP↑

≫ EDIT

無心の勝利に手が上る

無心の踊りは

進化と存在の骨子である

無心 無知を意識すると

手が上ってくる

それは神聖なる門に入る

姿であり

同時に知を投げすてて 無心になった姿である


手が自然に顔の高さまで

二つ共上がる

俗に人々が「お手上げ」という事を

言うではないか

又降参する時も 両手を上にあげる

ではないか


これは 自力が無くなった 限界であると

自力を捨てた時に 両手を上げて無力

無心 無抵抗となる

そのように 無心無知といったような

知力 知恵 思考に限界ができて

手を上げる事である


そのように 人は両手を上げて

万歳をするのである

万歳とはこんな勝利の時をいう

即ち神聖なる門に立った時の

事である


無心を意識して 無心になれて

無心に入った時

人は神聖への門に立つのである

その時人は 両手を上げた姿勢をとる


また様々な舞踊でも

両の手が高く 眼の高さまで

あがるのである

それが踊りの元型である

完成の印である

自然に人は確かなるものを

すでにもっていたのである


2004.01.18.

| 2004年 | 22:19 | TOP↑

≫ EDIT

オチャメは踊る それがオチャメの儀式

オチャメは 踊らなくては

オチャメにならない

点は 線にならなくては

点ではない


線があるから 点も存在価値が

ある

1があれば 2がなければ

1の存在価値は ありえない


オチャメは 踊らなければ

静かなものは 停止しているものは

動かなければ

停止などは なくてもよい


零が 1になる可能性が

なければ

零なんて いらんものだ


オチャメが 踊りとなって初めて

オチャメらしくなるのである

その遊戯こそが 儀式である


儀式なくして 太陽も無価値だ


オチャメは 斜めのゆれをつくる

平面立方の舞は その儀式である

やわらかく それは ゆれる


2004.01.17.

| 2004年 | 09:34 | TOP↑

≫ EDIT

親の手伝いをする者が詩の形相をもつ

自分をウシャスだと思え

詩の世界以外に

何も真実なものはない


詩からも 神話からも

言語からも離れよ


光でない白光

創造もない世界にかえれ!

何も望むな


2004.01.15.

| 2004年 | 13:25 | TOP↑

≫ EDIT

中庸を解き明かす円とメビウス

宇宙とは何か

宇宙とは存在するものである

その存在するものとは何か

それは無か 有か

それは 無でもなければ 有でもない

ものである


そういう存在するものがある

それは 中性子のような存在である

有でもなければ無でもないもの

それが中性子である


宇宙の初めに何があったかを尋ねるのは

愚である

宇宙には初めがない

宇宙とは存在してあるものの事である

宇宙は在るから それを尋ねるのである


それは問題提起を引きおこすのだ

在る者同志が 向い合っているのである

宇宙は 向い合っているのではない

人間の心が向い合っているのである

そして宇宙とは何かと

今まで問いつめて来たのだ

そのように人間は 無駄な長い時間を費やして

来たのである


しかし対象物を調べるより

自己自身を調べた方が賢いのでは

ないか

では自分自身とは何か それは存在物である

では 宇宙も人間も含めて存在とは何かを

尋ねた方が賢い


さて存在とは何か

存在するものは 時間の上にのっかっている

存在するものは 距離の上にのっかっている

では時間とは何か 距離とは何か

それらも在るものである

となると在るものは

何を根拠としているか


それは点を根拠としている

では 点とは何か

点というものはあるのか

いや点とは 在るのに無いのである

線と同じだ


それらは無から現われたのか

いや 無から何も生れてこない

これはヘーゲルも言った通りである


シェリングは 有は無から生まれた

と説いて

ヘーゲルに批判された

しかし老子も同じように 無から有が

生れたと言っている


もしかすると 無も有もないのかも知れない

あるのはただ存在というものが在るだけ

なのかも知れない

雲の上に浮いているようなものだ

在るかと思っても 姿が変わる

これは有の内には入らない


変るものは変るものであって 有ではない

では変るその存在物は何なのか

それは雲のように浮いている何かのような

ものである


有でも無でもないもの

しかもそれが 巡環していて永遠である

その永遠なるものをメビウスで見てみよう

円で見てみよう


それらには端がない

端のあるものは

有とか無の部類に入る


しかし メビウスの図式を見てみよう

そこに一つの交差する点がある

円を見てみよう 直径と円周の交差する

所がある

交差する所もあるし 距離のある直径と

距離のないものの同居がある


これは一つの遊戯であり オチャメの遊びである

存在物はすべてこんなオチャメの

遊びを内在しているのか

それとも 遊戯そのものか

オチャメそのものか


有でもなく無でもなく オチャメ

そんなものが 存在というものかも知れない


存在は中性子を骨子として 

存在しているのであると

言えるかも知れない


すると存在は 進化するものであり

進化の骨子に中性子的な法則があり

それに従わねば進化しない

のかも知れない

そうでないと存在の意味もないの

かも知れない


そうだとすると 人は永い間

有と無を論じる事に時間を

費やし過ぎたのではないか


道徳も 宗教も 哲学も 共にその

線上を歩んで来たのではないか

何が善で 何が悪かとか

真なるものをその線上で探し廻って

いたのではないか


そこで仏陀は中庸を説いた

しかしその中庸というものはどんな

ものだったのか

有と無 善と悪の中間という意味の

ものではなかったか


もし中庸を宇宙存在の骨子としたい

ならば

それは有でもない無でもない しかも

有であって 無である

無であって有であるといったような

中性子的なものならば

まともなものとなろう


1は 1であって 2になり得る

2は 2であって 1にも0にもなり得ると

いった働きをもっているもの

円とメビウスのように 距離のあるものと

ないものとの交わり

仲良く行こうというオチャメな

遊びそのもの

それが1であり 2であり

それが数学の骨子である


科学 哲学 宗教をよりよく

高貴にするもの

それが中性子である

いわゆる点である


点が踊ると線となり

線が踊ると平面となり

立体となる


その踊りなくしては

この宇宙は出来てこなかった

のである


2004.01.10.

| 2004年 | 22:17 | TOP↑

≫ EDIT

点と線の異質の同時存在が エネルギーをつくる

「今ここで」は 点文化である 

人類は今日でも 線文化(距離文化)の

中に生きている
 

だから 様々な言い分が

出てきているのである

距離文化では 真理なるものは

その姿を 現わすことはない 
 

点と線の関係が 分った 

線は 点なくして

エネルギーを出せない


距離は 距離だけでは エネルギーとならない

そこに 点なる支点がなければ……


点と線は 異質の同時存在をしている

そこに非平衡系がある

興奮である 躍動がおきる


光の翼は 点と線の 異質存在の

中から起きる

興奮は 翼を動かす


舞うもの 踊るもの とぶ者

それは 点と線の 異質存在の

非平衡系から起きる


おお 光速で 天かける者よ

強力な翼の 上下運動をする者よ

光速はとぶ

斜めになって それはとぶ

生命は生れ 永遠に輝く


これで イシスがオシリスを甦らせた 

その謎がわかった

イシスは 自らの翼を羽ばたかせることで

オシリスを 甦らせたという


翼はなぜ 生命の甦りに関係があるのか?

それは 翼には支点と距離(点と線)が

あるからだ


距離なる大鳥はとぶ

大いなるエネルギーをかかえて


点と線

点と線よ

異質の同時存在する者よ


エネルギーは

そこから生まれ

宇宙は かくありつづけるのだ


2004.01.09.

| 2004年 | 22:00 | TOP↑

≫ EDIT

私とは点である

私とは? 何が私か?

この肉体をもつものが私か?


否 これは欲望のかたまりである

では本当のお前とは どんなものか?


いや 私というものは無い

しいて言うなら 私は点である

今ここでオチャメである それが

私である


天国からすべり落ちた者がいた

その者は欲望をもって

肉体をもった人間の形ある者を

つくった


人はそれを進化というが 実は

退化である

そして人は その欲望によって

幸せを探しはじめる


聖者とか 賢者と言う者が

その幸せの道を探しはじめた

それは欲望の結果である事も

気付かず

真理とやらを探しはじめた


欲望の薄き者は

貧乏でありながら

その生活を満足していた


真理など探す暇がなかった

ただお天とさんを拝みながら

農業にいそしんだ


彼等は無力に見えた

しかし彼らは 本当に強い人々であった

そこに満足を感じ 欲望をもたなかった

それが強い人なのである


何も望まない人程 強い者はない

そしてその人は 死んでいった

煙となって その姿はもえてしまった

或いは土となってしまった 


その人に残ったものは 今を満足する

心だけであった

死でも 生でも何も関係がなかった

今を生きるだけであった


その者は 今をもつ人であった

今という点が しっかり彼の中に

実っていた

彼は永遠をもった


今ここでオチャメで幸せに生きる者は

天国にゆく

いや天国もゆく自分もない

今だけがあった


その今という点の中に 彼はいた

今を楽しむオチャメの踊りを 彼は

もちえたのである

欲望なき者は 今をにぎる


今という点の中に 彼は生きたのであった

この人生に何も幸せを探そうとは

しなかった

学問は何も彼には 必要ではなかった


今ここでオチャメ踊りだけが

自分であると思っていた

その者には 自分も 宇宙も 他人も

自然もなかった

今ここでオチャメ踊りをすることだけが

あった


ピュアーなるもの ブラフマンだけが

あった

それは 今ここでオチャメ………

それがブラフマンであった


2004.01.06. 

| 2012年 | 21:28 | TOP↑

≫ EDIT

オチャメ踊りだけがあった

私とは何か

この肉体をもつものが 私か


否 これは欲のかたまりである

では お前とはどれか


いえ 私というものは ありません

しいていうなら 私は点です


今ここでオチャメである それが

私です


天国から すべり落ちた者がいた

その者は 欲望をもって

肉体をもった人間の形ある者を

つくった


人はそれを進化というが 実は

退化である


そして人は その欲望によって

幸せをさがしはじめる

聖者とか 賢者という者が

その幸せの道を 探しはじめた

それは 欲望の結果である事も

気付かず

真理とやらを 探しはじめた


欲望の薄き者は

貧乏でありながら

その生活を 満足していた


真理など 探すひまがなかった

ただ お天道さんを拝みながら

農業にいそしんだ


彼らは 無力に見えた

しかし彼らは 本当に強い人々であった


そこに満足を感じ 欲望をもたなかった

それが 強い人なのである

何も望まない人程 強い者はない


そして その人は死んでいった

煙となって その姿は燃えてしまった

或いは 土となってしまった

その人にのこったものは 今を満足する

心だけがあった

死でも生でも 何も関係がなかった


今を生きるだけであった

その者は 今をもつ人であった

今という点が しっかり彼の中に

みのっていた


彼は 永遠をもった

今ここで オチャメで 幸せに生きる者は

天国にゆく

いや 天国もゆく自分もない

今だけがあった

その今という点の中に 彼はいた


今を楽しむオチャメの踊りを 彼は

もちえたのである


欲望なき者は 今をにぎる

今という点の中に 彼は生きたのであった

この人生に 何の幸せをも探そうとは

しなかった


学問は何も 彼には必要ではなかった

今ここで オチャメ踊りだけが

自分であると思っていた


その者には 自分も 宇宙も 他人も

自然もなかった

今ここで オチャメ踊りをすることだけが

あった

ピュアーなるものブラフマンだけが

あった


それは 今ここでオチャメ……

それが ブラフマンであった 
 

2004.01.06.

| 2004年 | 20:33 | TOP↑

≫ EDIT

今ここで それが宝をみつける秘訣である

人間のその中で オチャメの

光を放つことが 高貴たるものである


人間が 何を望んでいる者であるか

それは 幸せを欲しているのである

その為に 真理を探しまわって来たのである


ところが  人間は弱いから 

距離の中(線)に生きているから

何かを求めるのであって

常に 宝となるべきものを

探しまわり それをほっしてきた

欲が そのようにうろつかせたといえる


そして真理 とどのつまり平和と 自由さを

つくる方法を 追い求める……

という欲がある事が わかってきた

人間とは そんな低き者であったのだ



本当の幸せ 宝というものは

そんな程度で よろこぶようなものでなく 

もっと高く 高尚で 

近づけない程のもの

おかす事の出来ないもの……

宝とは そんなものかも知れない


その為に 必要なことは 統一ということである 

それにも 連鎖がある

平たく 横に連なる連鎖でなく 

高きもの おかすことの出来ないものとの

連鎖となるのが 高貴であり

それは 真っ直ぐに立つ直線の 先端が

光っているようなものである


先端の位置の 高きもの 絶対なるもの 

そしてそれを そうあらしめる為のものは

いうまでもなく

「オチャメ」の光である


そして その光と 統一しているという 

連鎖があるのだが

統一者の 光り輝くすがた

その高貴の高きは どこにあるのか 


それは 点にある 

その 高き位置がわかって来た

それは 高低の高き所でもなく 低き所でもない

それは 「今ここ」である


「今ここ」で オチャメで光る事が

高貴という宝を 得ることなのだ


やはり 点だ 

点とは 距離も 時間もない

「今ここ」である
 

「今ここ」でオチャメになる事だ

「今ここ」には距離がない
 
ここ といえば距離がないし 

時間のない今がつくる点 そのものであり

真理なるオチャメと 点が合成された所である


宝は 高貴は その「今ここ」で

オチャメになることであった


2004.01.05.

| 2004年 | 22:15 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT