2004年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2004年07月

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目を持つこと 違うものを見る目を持つこと

人は頭に 知識をたくわえていると

幻想力を 失ってくる

人間の魂は 幻想力そのものである


幻想力が おとろえると

なぜ太陽が 東から昇り 西に沈むのか

なぜ 朝やけと 夕やけがおきるのか

それが 分らなくなる


なぜ 1に1をたしたら 2になるのかも

分らない

なぜ 子が親から 産まれるのか

なぜ 花が咲き 鳥が歌うのかも分らない


足を一歩前に出したら なぜ前に進むのかが

分らない

人は 天人の羽衣を どこかに置き忘れて

来たのである

また その事すら 気が付いていない


人は 浄福に満たされている自分に

気が付いていないのである


それで お金を求め 大きな家を求め

名誉 地位を求め 苦労のあげく

死んでしまう

自己が何であるかも 知らないで……


目を持つこと 違う目を持つこと 

魂の自由を持つことの 出来る心の

目を持つこと

親と子の関係の 分る心の目をもつこと


思考する世界から 抜け出て

天の親に 手伝いをすること

手伝いを させてもらうこと

自己発見は そこから出来てくる


自分の本当の自分と 出会う事の

出来る心の 目をもつこと

これを先ずしないと いかなる事を

しても 道は開けない


第一の儀式を 自分に与えよ

そこから道が ただちに開けてくる


2004.06.29.
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| 2004年 | 16:48 | TOP↑

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インドとエジプトの架橋となるもの

インドのウシャス女神と エジプトのマート女神は

同じものである

ウシャス女神は 太陽ののぼる前に

東天を 紅に染めて 太陽の進路を

祝いしめす


エジプトのマートは 太陽の娘であって

太陽のすすむ舟の進路を 見さだめて

その前面にくる悪きもの共を おいはらいつつ

進むのである


インドとエジプトは 遠くはなれていても

古代文明の人々の 心の波動には

同じものがあった

それを イタリアのヴィーコが 言っている

「太古の人々は 生れながらにして詩人であった」と


現代人は 太陽は動かず この地球が動いて

いると とらえている

この理にかなった知性は 詩と神話を

追いやってしまうのである


こういう者を こういう考えを 悪しきものと

いうのである

ドルガ女神も カーリ女神も このような

悪き者どもを やっつける為に現れたのである


宇宙存在と 人間存在を 合理のみの中に

つっこんでしまうと

世界は 闇となってしまうのである


宇宙存在と 人間存在のもとに 合理以外に

非合理というものが あるのである


理が通ると 真理がひっこむというが

それを 言っているのである

真理は 合理の世界には ないのである


美しいを どのように合理で 説明するので

あろうか

うまいという味を どのようにして 説明するので

あろうか


世の中には 説明の出来ないものが いっぱい

あるのである

その世界が 詩の世界であり

神話の世界なのである


人は 美しくあろうとするなら

人は 高貴で 優雅であろうとするなら

人は 素朴で 透明であろうとするなら

人は やさしく すなおであろうとするなら

理づめや 知識のみでは そうなれない

のである


むろん 幸せも 浄福といった 永遠の

富を得ようと思えば

やさしく 素朴な 波動体とならねば

ならないのである


心にも 体にも 天人の羽衣を 持たねば

舞は 舞えないのである


2004.06.24.

| 2004年 | 11:13 | TOP↑

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足に対話の目をつけろ

一昨日あたりから 急にもっと奥に入ってきた

即ちマーケットの中で 足に対話を与えたら

足がタップを 踏み出してきた

それである


それまでの問題は 前面のものの中に

舞を見よという

啓示に関してであった

ところが直に そうする事は まずいと考えていた

なぜなら目は 相対を見る事にならされて

いるから

真なるものを見る事は 無理だと言う事で

ある 


たとえ目を通して 前面の物の中に

舞を見ようとすると

空想力を 用いねばならない

それでは 本物を直に見た事にはならない

だから 目を当てにせず

足に 目をつける事を考えた


いわゆる知恵でなく 波動で

前面の物と ふれ合うのである

ところが 波動でどのように 見る事が

出来るか……

それが なかなかむつかしい芸当である


ところが レディングのマーケット内を歩いて

果物や 野菜や 人を見ている間に

ふと 閃いた事があった


それですぐしてみた すると

足が前面の 物の中にある舞を見て

自分の両足が タップをふみはじめた


体中がウジウジ 踊りの状態となる

ばかりか

知性まで なくなり

恥ずかしいというような気持が なくなり

足をはじめとして 体中が 踊りはじめた

……だがこれで 何をどうしたので 

そうなったかを たしかめるので

そのタップを踏むのを 一旦とめることにした


それは 足に意識を集め 対話の波動を

送ったからである

それは 「対話する事は 見る事である」と

閃いたので 

そうしたまでである

すると足が自然に タップをふみはじめた

という次第である


ところが 今21日午後4時

お茶の時間に 食べていた時

また閃いた事があった

それは

「足に目を付けたからだ」と分ったのである


それで

知的に想像したり 空想をこらしても

それは あくまで

空想であり

想像であり

現実世界に 何も関って来ない

という事が

今日までの世界文明であった という事である


ところが その空想に 目をひっつけると

それが

生き物となるのだと

閃いたのである


なぜなら

対話は 見る事であるという

現実の目を

足の裏に付けた

即ち 空想に目をつけたから

見事に空想が 生きものと

なり

体が 動き出したのである


ゼンマイ仕掛けのエネルギーから 出てくる

空想でなく

宇宙生命が足から 全身に

大生命 即ち大空想力が

宿りはじめたのである


目をつけると その物が 生き物となる

対話と礼拝 という目をつけると

マート女神は 羽(空想)と目が特徴である

そこに 大いなるエジプトの法が

かくされていたのである


足許に 目をつけること

前方を見る目を つけること

対話という目を つけること


ふるえ上って 羽はとぶ

それが タップとなったのであろう

おどりとなったのであろう


対話の目は

全身を 翼とかえる

ふるえ上って 天をあまかける


大鳥 目をもつ大鳥

ワシの目は するどい

それは まばたきもしない


天空 前面をにらみつけ

前面を のみこみ

不動で 何ものにもおびえない


おお 不動なる者 汝大鳥


デカルトの言うように

精神文明から 感覚文明へ

近代哲学は 移向した

古典哲学は 科学文明へと

移向したのである


空想だけでなく

目という感覚を ひっつけたのである


生きたものとなった

答の出てくるものとなった

それが 足と全身のふるえとなった


精神と 空想は 古典文化 

古典文明の遺産である


しかし 近代哲学 近代文明は

詩神の助けを 得なければ

まともなものとは

ならないのである


彼らは詩の重大性を 知ってはいるが

詩神を 礼拝しなければ

その恩恵は やってこない


2004.06.21.

| 2004年 | 11:02 | TOP↑

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頭文明から 足文明へ

マーケットの中で 足文明が

よみがえってきた


これまでは 頭文明で

足文明を 忘れた文明であった


足文明とは 頭での思考をとめて

大地から 知恵を得る文明である


仏陀もその大地から 仏が湧き出て

くる事を 

法華経でいっている


人は 足を地につけよ と昔から

言っている

人は それを忘れると 頭ばかり

働かす人となる


徒弟奉公や 職人気質なども

この足文明の 一つである

足に意識を集め すべてと対話すると

足がふるえてくる


タップダンスもそこから 来ているのでは

なかろうか

天を向いて 天と直結して

地に アースをさしこむように

その直結したものを 地に

さしこむのである


連鎖も 合一も

天と地を つながなければ

本当のものと なって来ないのである


足文明はそれを 教える

知恵は 足から 

湧いてくるのであることを


2004.06.19.

| 2004年 | 16:57 | TOP↑

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足裏の大生命

足の裏に 宇宙生命なるそれを 入れていたら

その底から ミルクのようなものがやって来た

そしてそれを 霧と考えて うけとめてみた

すると それは詩という事になる


……となると

詩とは 大生命である

詩が 大生命なら

詩は 「対話と礼拝」だという

事になる

これで正解――


――この間から 書いている詩の中に

対話と 礼拝をはぶいては

詩も神話もありえない と書いたが

その時はまだ 「対話と礼拝」が

詩そのものであるとは

分っていなかった 


しかし今 それが啓示として

見えてきたのである


寝ようとして 瞑想していた時に

……いつも寝る前に 瞑想している

そして 寝ているようでも

夜中中 ねころんだまま

瞑想しているようだ

だから いろいろな事を 教えて

もらえるのだ


一晩中 寝ていても瞑想していると

いう 事である

それだから 潜在意識に入って

それが啓示として 表われて

くるのだ 

その答えが――


2004.06.06.

| 2004年 | 22:26 | TOP↑

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ゼンマイ仕掛けの人間(2)

人間の生命という観念は 間違っている

人間は 食物と知識というゼンマイを

かけて動いている


人間の本当の生命とは 幻想力にある

幻想力にたよらず 食物と知識に

たより切っている

それでは 迷いつづけて 疲れはてて

病気で死んでしまう

そして霊界を さまよいつづける


その幻想力とは何か どうする事か

それは先ず 宇宙の親に接近する事である

人は親を忘れ 自分の力のみで生きている

親を(神を)拝む事を知っていても

その親に手伝いする事を 忘れている


そこで先ず第一に せねばならぬ儀式

から教える

歴史的聖者 賢者に一礼し

月 太陽 大地に 礼拝せよ


朝起きると 先ず自分の心から魔法の

小箱をとり出せ

そしてその中から 絵筆をとり出し 東天を

紅に染める

これは太陽の昇ってくるのを 祝して

東天をきよめるのである


そして 太陽よ来ませ と心の中で言え


太陽が見え始めたら 用意してある七頭だての

馬車に乗ってもらい

讃歌を歌いながら 天空を渡っていけ


夕べになると 又西の空を紅に染める


夜になると 星空を仰ぎ見て 両手を

高く上げて 天体を動かす神の

手伝いをせよ

朝に 夕べに 夜もこうして神即ち 親の

手伝いをさせてもらって

その恩恵に浴している自分の

幸せをかみしめてみる


心の底から 涙が込み上ってくる

そして 浄福にひたる自己を見る

これこそ自己の本性 自己自身との

出合いの一瞬である


人はこの幻想の世界こそが 自己自らであり

神自らである事を知らない

いや 忘れ切っているのである

この宇宙と自己との対話を 忘れるな


人は思考しつづける頭文明の 奴隷となっている

人の生命というものは 人の存在というものは

この 親と子の関わりの中にある手伝いという

幻想力の世界の中にあるのである


思考分明から 幻想文明へと移しかえよ


2004.06.06.

| 2004年 | 22:21 | TOP↑

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ゼンマイ仕掛けの人間(1)

人間の生命という観念は 間違っている

人間は ゼンマイを掛けて動く

人形のようなものである


ゼンマイが かかっている間は生きられる


本当のエネルギーとは 本当の生命とは 

そんなものではない


人間にとって 本当の命とは 

「対話と礼拝」である


対話していること 

そして 対話が礼拝となっている時 

その事こそが 生命である


それなくしては 

人間は 人間ではないのである

それは ただの人形である

人形には 対話も礼拝もない

ゼンマイだけがある


そして 人間に 

その 対話と礼拝という生命を

頭にえがいて見ても だめである

足の裏に それを付けよ

すると人間は 人形から人間に 

よみがえってくる

2004.06.06.

| 2004年 | 11:12 | TOP↑

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幻想力と手伝い

人間の生命という感念は 間違っている

人間は 食物と知識という ゼンマイ仕掛けで

動いている


人間の本当の生命とは 幻想力にある

幻想力にたよらず 食物と知識に

たより切っている

それでは 迷いつづけて 疲れはてて

病気で死んでしまう

そして 霊界をさまよいつづける


その幻想力とは何か どうする事か

それは先ず 宇宙の親に接近する事である

人は 親を忘れ 自分の力のみで生きている

親を(神を) 拝む事を知っていても

その親に 手伝いをする事を忘れている


そこで先ず 第一にせねばならぬ儀式

から 教える

歴史的聖なる聖者 賢者に一礼し

月 太陽 大地に礼拝をせよ


朝起きると先ず 自分の心から魔法の

小箱をとり出せ

そして その中から絵筆をとり出し 東天を

紅に染めよ


これは 太陽の昇ってくるのを 祝して

東天を きよめるのである

そして 太陽よ来ませと 心の中で言え


太陽が見え始めたら 用意してある七頭だての

馬車に 乗ってもらい

讃歌を歌いながら 天空を渡っていけ


夕べになると 又 西の空を紅に染める


夜になると 星空をあおぎ見て 両手を

高く上げて 天体を動かす親の

手伝いをせよ


朝に 夕べに 夜も こうして神 即ち親の

手伝いを させてもらって

その恩恵に 浴している自分の

幸せを かみしめてみよ


心の底から 涙がこみ上ってくる

そして 浄福にひたる自己を見る

これこそ 自己の本性 自己自身との

出合いの一瞬である


人は この幻想の世界こそが 自己自らであり

神自らである事を 知らない

いや 忘れきっているのである

この宇宙と 自分との対話を忘れるな


人は 思考しつづける頭文明の 奴隷となっている

人の生命というものは 人の存在というものは

この親と子の 関わりの中にある手伝いという

幻想力の世界の中に あるのである

思考文明から 幻想文明へと移しかえよ


2004.06.06.

| 2004年 | 10:07 | TOP↑

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