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2004年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2004年07月

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目を持つこと 違うものを見る目を持つこと

人は頭に 知識を貯えていると
幻想力を失ってくる
人間の魂は幻想力そのものである

幻想力が衰えると なぜ太陽が東から昇り 西に沈むのか
なぜ朝焼けと夕焼けがおきるのか 
それが分らなくなる

なぜ1に1を足したら 2になるのかも分からない
なぜ子が 親から産まれるのか
なぜ花が咲き 鳥が歌うのかも分からない

足を一歩前に出したら なぜ前に進むのかが分からない
人は天人の羽衣を どこかに置き忘れて来たのである
また その事すら気が付いていない

人は 浄福に満たされている自分に
気が付いていないのである

それでお金を求め 大きな家を求め
名誉 地位を求め 苦労のあげく死んでしまう
自己が何であるかも知らないで……

目を持つこと 違う目を持つこと 
魂の自由を持つことの 出来る心の目を持つこと
親と子の関係の分かる心の目を持つこと

思考する世界から抜け出て 天の親に手伝いをすること
手伝いをさせてもらうこと
自己発見は こから出来てくる

自分の本当の自分と出会う事の 出来る心の目を持つこと
これを先ずしないと いかなる事をしても道は開けない

第一の儀式を自分に与えよ
そこから道がただちに開けて来る

2004.06.29.
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| 2004年 | 16:48 | TOP↑

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ピラミッドの秘密

ピラミッドは広く大きい底面積をもっている
それが高さをつくり 頂点を持ち それを見る人をして
圧倒的な安定感を与えている
底面積の小さい建物は 地震や風による災害で
いとも簡単に倒れてしまう

しかし人は 旧約聖書に出てくるバベルの塔のように
天をも貫く高層建築物を作りたがる
それは 宇宙を立体だと思っているからである
高さには必ず底面が付き物であるが
人間は高さのみを考えて生きている 

立派な人 精神の高い人 知恵の高い人
……と頭にばかり意識がいっている 
高きを得る為に 頭に知識を詰め込む
これが一万年間の歴史と文化であった

では人間の底面積はどこにあるのか……?
それは足の裏であり 足許である
顔や頭にばかり 飾りを付けたがる文明から
足許 足の裏を大切にする文明にならねばならない
空想力一つにしても 頭や胸でそれをつくって来た
……そんな人間であった

仏陀の教えに 仏足石といって足の裏が描かれている
ものがある
仏陀は足の裏の秘密を知っていたようだ

宇宙で言えば天空より 地こそ足である
仏陀は法華経で 我は三ヶ月後にこの世を去る
……だから本当のことを説くといって説いたのが法華経である

しかるに中国から日本に渡って来た仏陀の教えも
間違って入ってきている
法華経というのは 実は神話を説いたものである
それを知っている仏教徒は一人もいない

法華経第十一と第十五に「仏は地から湧き出た」とある
この神話こそ仏陀が80才になるまでかかって
見つけた宇宙構造であった

人間の五体全体のどこに仏がいるのか……?
それは胸でも頭でもない 足の裏に居るのだ
これがピラミッドの秘密であり 仏教の秘密であり
旧約聖書の秘密である
人間は土から生れた これである

樹々も動物も すべて土から生れたのである
まだ神になり切れてない神は 天上でうろついているが
本当の神は地にいるのである

アメリカの詩人ホイットマンが
「私に会いたければ あなたの足の裏にある草を見てくれ
それが私だ」
「私は地上に落ちている木の葉一枚の中に
神のメッセージを聞く」と言っている

ゴッホは作業に使ったドタ靴を
ゴーギャンは土と共に生きる土色の顔をした婦人を
ニーチェやゲーテが イタリアの土に腰をおろして
海と田園風景を眺めて 魂に大自由を得て
鳥たちと共に大空 大海を渡った 
知的ドイツから逃げおえたのである

彼等は大地の神々 神話の踊り 神話の舞 
神話のささやきを見たのである

我々は目を頭につけているが その眼を足に付けてみよ

アメリカの一ドル紙幣にピラミッドと それに目がついている
底面に目を付けてみよという建国者の知恵
これはエジプトのイシス女神とマート女神によるものであった

この信仰はエジプトからローマに渡り
ギリシャにまで渡ったと歴史書に述べているが
よく見れば その信仰はアメリカまで
飛び火していたことが発見された

足に目を付けると 足が動きタップを踏み出す
これはアーリア人の宝でもあり
それがスペイン人の気質にもなっていた
フラメンコ ジプシーの踊りがそれである

彼等の目は 足に付いているのだった
高貴優雅はそこから来る

2004.06.27.

| 2004年 | 15:57 | TOP↑

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宇宙構造

宇宙は立方体になっていて 平面体ではないと
人間の意識では認識される

それ故 人はその立方を支える平面という
下部構造を忘れ 縦 横 高さの中に生き 
堅く閉じられた限界ある世界の中で生きている

それが人間をして 知識 常識という限られた世界で
生きる動物にしているのだ

イマジネーション――宇宙をも越えて
生きる創造力をもっていない
神話は空想力の世界である

いじけたり おびえたり 
ひけ目を感じたりしているのは
人間的時間 目の前の空間の中で人を見 
ひけ目を感じたり 怒ったり 
人をとがめたりして生きている
それは相対的に生きているからである

平面の世界には 相対というものはない 
平面体の世界はいつも変化している
即ち踊っているのである……

自己を変えてくれるものは何か 
どうすれば変ってくるのか――

それは 立体を平面として見ると
次元が変わるように
自己も 角度や線の幾何学的転換の中から
立ち上がってきたものであると
感じる事から始まってくる

その幾何学的転換が 自己であり
神話なのである 

人間が神話を忘れ 感じないから
知情意の中で苦をもつのである 
神話こそ救世主である

2004.06.27.

| 2004年 | 15:56 | TOP↑

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インドとエジプトの架橋となるもの

インドのウシャス女神と エジプトのマート女神は
同じものである
ウシャス女神は太陽の昇る前に 東天を紅に染めて 
太陽の進路を祝い示す

エジプトのマートは 太陽の娘であって
太陽の進む舟の進路を見定めて その前面に来る悪きもの共を 
追い払いつつ進むのである

インドとエジプトは 遠く離れていても
古代文明の人々の心の波動には 同じものがあった
それを イタリアのヴィーコが言っている
「太古の人々は 生れながらにして詩人であった」と

現代人は太陽は動かず この地球が動いていると捉えている
この理にかなった知性は詩と神話を
追いやってしまうのである
こういう者を こういう考えを悪しきものというのである

ドルガ女神もカーリ女神も このような悪き者どもを 
やっつける為に現れたのである

宇宙存在と人間存在を 合理のみの中に突っ込んでしまうと
世界は闇となってしまうのである
宇宙存在と人間存在のもとに 合理以外に
非合理というものがあるのである

理が通ると真理が引っ込むというが
それを言っているのである
真理は 合理の世界にはないのである

美しいを どのように合理で説明するのであろうか
旨いという味を どのようにして説明するのであろうか

世の中には説明の出来ないものが いっぱいあるのである
その世界が詩の世界であり 神話の世界なのである

人は美しくあろうとするなら
人は高貴で 優雅であろうとするなら
人は素朴で 透明であろうとするなら
人は優しく 素直であろうとするなら
理詰めや知識のみでは そうなれないのである

むろん 幸せや 浄福といった永遠の富を得ようと思えば
優しく素朴な波動体と ならねばならないのである

心にも 体にも天人の羽衣を持たねば
舞は舞えないのである

2004.06.24.

| 2004年 | 11:13 | TOP↑

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足に対話の目をつけろ

一昨日あたりから 急にもっと奥に入ってきた
即ちマーケットの中で 足に対話を与えたら
足がタップを踏み出して来た それである

それまでの問題は 前面のものの中に舞を見よという
啓示に関してであった
ところが直にそうする事は まずいと考えていた
なぜなら目は 相対を見る事にならされているから
真なるものを見る事は 無理だと言う事である 

たとえ目を通して 前面の物の中に舞を見ようとすると
空想力を用いねばならない
それでは 本物を直に見た事にはならない
だから目を当てにせず 足に目を付ける事を考えた

いわゆる知恵でなく 波動で前面の物と触れあうのである
ところが波動でどのように見る事が出来るか……
それが なかなか難しい芸当である

ところが レディングのマーケット内を歩いて
果物や野菜や 人を見ている間にふと閃いた事があった
それですぐしてみた すると足が前面の物の中にある舞を見て
自分の両足がタップを踏み始めた

体中がウジウジ踊りの状態となるばかりか 知性までなくなり
恥ずかしいというような気持がなくなり
足を始めとして 体中が踊り始めた
……だがこれで 何をどうしたのでそうなったかを 
確かめるので そのタップを踏むのを一旦止めることにした

それは足に意識を集め 対話の波動を送ったからである
それは「対話する事は見る事である」と閃いたので 
そうしたまでである
すると足が自然にタップを踏み始めた という次第である

ところが 今21日午後4時 お茶の時間に食べていた時
また閃いた事があった
それは「足に目を付けたからだ」と分ったのである

それで知的に想像したり空想をこらしても それはあくまで
空想であり 想像であり 現実世界に何も関って来ない
という事が今日までの世界文明であった という事である
ところがその空想に 目をひっ付けると
それが生き物となるのだと閃いたのである

なぜなら対話は見る事であるという現実の目を足の裏に付けた
即ち空想に目をつけたから 見事に空想が生きものとなり
体が動き出したのである

ゼンマイ仕掛けのエネルギーから出てくる空想でなく
宇宙生命が足から全身に大生命 即ち大空想力が
宿り始めたのである

目を付けると その物が生き物となる
対話と礼拝という目を付けると 
マート女神は 羽(空想)と目が特徴である
そこに 大いなるエジプトの法が隠されていたのである

足許に目を付けること 前方を見る目を付けること
対話という目を付けること
ふるえ上って羽は飛ぶ
それがタップとなったのであろう 踊りとなったのであろう

対話の目は全身を翼と変える
震え上って 天を天翔ける

大鳥 目をもつ大鳥
ワシの目は鋭い それはまばたきもしない
天空 前面を睨みつけ 前面を呑み込み
不動で何ものにも怯えない
おお 不動なる者 汝大鳥

デカルトの言うように精神文明から 感覚文明へ
近代哲学は移向した
古典哲学は 科学文明へと移向したのである

空想だけでなく 目という感覚をひっ付けたのである
生きたものとなった
答の出て来るものとなった
それが足と全身の震えとなった

精神と空想は古典文化 古典文明の遺産である
しかし近代哲学 近代文明は詩神の助けを得なければ
まともなものとはならないのである

彼らは詩の重大性を知ってはいるが
詩神を礼拝しなければ その恩恵はやって来ない

2004.06.21.

| 2004年 | 11:02 | TOP↑

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頭文明から 足文明へ

マーケットの中で 足文明が甦って来た
これまでは頭文明で 足文明を忘れた文明であった
足文明とは 頭での思考を止めて 
大地から知恵を得る文明である

仏陀もその大地から 仏が湧き出て来る事を
法華経でいっている

人は足を地につけよ と昔から言っている
人はそれを忘れると 頭ばかり働かす人となる

徒弟奉公や職人気質なども この足文明の一つである
足に意識を集め 全てと対話すると足が震えて来る

タップダンスもそこから 来ているのではなかろうか
天を向いて天と直結して 地にアースを差し込むように
その直結したものを 地に差し込むのである

連鎖も合一も 天と地を繋がなければ
本当のものとなって来ないのである

足文明はそれを教える
知恵は 足から湧いて来るのであることを

2004.06.19.

| 2004年 | 16:57 | TOP↑

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足裏の大生命

足の裏に 宇宙生命なるそれを入れていたら
その底からミルクのようなものがやって来た
そしてそれを 霧と考えて受け止めてみた
すると それは詩という事になる

……となると詩とは 大生命である
詩が大生命なら 詩は「対話と礼拝」だという事になる
これで正解――

――この間から書いている詩の中に
対話と礼拝をはぶいては詩も神話もありえないと書いたが
その時はまだ「対話と礼拝」が詩そのものであるとは
分っていなかった 
しかし今 それが啓示として見えてきたのである

寝ようとして 瞑想していた時に
……いつも寝る前に瞑想している
そして寝ているようでも 夜中中寝ころんだまま
瞑想しているようだ
だから色々な事を教えてもらえるのだ

一晩中 寝ていても瞑想しているという事である
それだから 潜在意識に入って
それが啓示として現われて来るのだ 
その答えが――

2004.06.06.

| 2004年 | 22:26 | TOP↑

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幻想力と手伝い

人間の生命という感念は 間違っている
人間は食物と知識という ゼンマイ仕掛けで動いている

人間の本当の生命とは 幻想力にある
幻想力にたよらず 食物と知識に頼り切っている
それでは迷い続けて 疲れはてて病気で死んでしまう
そして 霊界をさ迷い続ける

その幻想力とは何か どうする事か
それは先ず 宇宙の親に接近する事である
人は親を忘れ 自分の力のみで生きている
親を(神を)拝む事を知っていても
その親に手伝いをする事を忘れている

そこで先ず 第一にせねばならぬ儀式から教える
歴史的聖なる聖者 賢者に一礼し 
月 太陽 大地に礼拝をせよ

朝起きると先ず 自分の心から魔法の小箱を取り出せ
そして その中から絵筆をとり出し 東天を紅に染めよ

これは 太陽の昇ってくるのを祝して
東天を浄めるのである
そして 太陽よ来ませと心の中で言え

太陽が見え始めたら 用意してある七頭立ての馬車に
乗ってもらい 讃歌を歌いながら天空を渡っていけ
夕べになると又 西の空を紅に染める

夜になると星空を仰ぎ見て 両手を高く上げて
天体を動かす親の手伝いをせよ

朝に 夕べに 夜もこうして神 即ち親の手伝いを 
させてもらって その恩恵に浴している自分の幸せを 
噛み締めてみよ

心の底から 涙がこみ上ってくる
そして 浄福にひたる自己を見る
これこそ自己の本性 
自己自身との出会いの一瞬である

人はこの幻想の世界こそが 自己自らであり
神自らである事を知らない
いや 忘れきっているのである
この宇宙と自分との対話を忘れるな

人は思考し続ける頭文明の奴隷となっている

人の生命というものは 
人の存在というものは
この親と子の 関わりの中にある手伝いという
幻想力の世界の中にあるのである

思考文明から 幻想文明へと移し変えよ

2004.06.06.

| 2004年 | 10:07 | TOP↑

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ゼンマイ仕掛けの人間

人間の生命という観念は 間違っている
人間は ゼンマイを掛けて動く人形のようなものである
ゼンマイがかかっている間は生きられる

本当のエネルギーとは 本当の生命とは 
そんなものではない
人間にとって 本当の命とは「対話と礼拝」である

対話していること 
そして 対話が礼拝となっている時 
その事こそが生命である

それなくしては 
人間は 人間ではないのである
それはただの人形である
人形には 対話も礼拝もない
ゼンマイだけがある

そして人間にその 対話と礼拝という生命を
頭に描いて見ても駄目である
足の裏にそれを付けよ
すると人間は 人形から人間に甦って来る

2004.06.06.

| 2004年 | 00:21 | TOP↑

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