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2018年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年01月

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科学と宗教に欠けているもの

科学は日々進歩するが

科学では神話に

到着することは出来ない

なぜなら 神話の中には 

科学が持てないものがあるからなのだ


神話というものは 静かで清らかで 

透明なもの

それは純真で素朴な魂に

やどるものである


では純粋 純朴であったら

それで充分なのであろうか


古代のギリシャの神話 信仰は

すぐれて純粋なものであった


ギリシャの神々は清らかさと静けさの

象徴であった

それら神々は人の救済にむかうもの

ではなかったのであるが

人はその静かで清らかな神々の前に

ひざまづき 

そこから純粋さと静寂にひたることで

自らの魂を 神々の住む天なる世界まで

高めていたのだった


そのギリシャの神々への信仰にも

科学にも一つ足りない

ものがある

それがオチャメなのだ


ギリシャの信仰ばかりでなく

もろもろのその他多くの宗教の中に 

オチャメというものが欠けているのではないか


ギリシャ神話を研究したヘルダーリンや

ニーチェは次のように言っている


世の中が夜のように 暗くなった時

その時は 神話を忘れた時である と


二人とも神話の重要性に

気が付いていた

ヘルダーリンは失われたギリシャ信仰の

清らかさ 静けさということを追い求めた


ところがニーチェは ギリシャの信仰に

欠けているものに気付いた

ニーチェは次のように言っている

宇宙の真理というものは何か笑えるようなものだ と

これがオチャメというものである


ニーチェは踊ることを知っていた

空をとぶことを知っていたのだ


1999.03.28.

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| 1999年 | 16:23 | TOP↑

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合理主義を越えて

神話研究とは 合理主義との闘いのような

ものである

仏教では様々なブッダの像を拝む

そして何事かの望みを

かなえてもらおうとする

ここに合理主義がかくれている


仏陀の生れた時から500年間人々は

仏陀の全身像をつくらなかった

そして仏陀が瞑想して悟りをひらいたところの

菩提樹の樹を拝んだ


どうして全身像を拝まないで 樹を拝んだのか

それは仏陀の全身像を拝むことが 見ることが 

もったいない おそれ多い

悟りをひらかれたその場所だけ拝ませてほしい

あるいは全身像でなく足型を拝んだだけで

満足していたのである


仏陀がなくなった500年の人々の心の中には

そのような神話性にあふれていた

この心は芸術そのものである


自分たちの魂の本質は

芸術的な神話性にある


あるいは仏陀は母親のわきの下から

生れたという伝承の清らかさ

このたとえは キリストが夫のいない

聖母から生まれたというのと同次元のものである


これらのたとえは非常に美しい

その当時の人々はそういうきれいなたとえを

創ることができた


聖者や賢者より そのような一般民衆の方が

賢いかも知れない

一般民衆というのは 土を耕し 作物をつくり

自然の中にとけ込んで生きている

それが彼らの心に神話性を残し

このようなきよらかなたとえを

創造させるのである


1998.08.28.

| 1998年 | 00:09 | TOP↑

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人間は形から出来ている

人間は長い間 宗教的道徳的に

心というものをおさめようとしてきた

しかしそういうものでは人間の心は

絶対におさまらない

その対処の仕方は表面的にすぎない


心は形によって出来ている

これが始まりの一歩である


つまり人間の心を修正するのは

道徳的宗教的方法でなく

形を変えていくこと

幾何学的に変えていかねばならない

ということである

ではその幾何学とはどんなものなのか


私があって あなたがある

主体があり 対象が認識される

認識という行為はいつまでも続く

ここに相対がある


我々は相対という 絶対に交わらない

平行線のような構図に生きているのだ


その相対構図は

人間が言語を発明してから生れた

この構図が約1万年間続いている


その間に賢者や聖者があらわれ

善悪を説き

さらにこの構図を強固なものにした

そこから合理主義が生れた


世の中は表層ばかり追っている

合理主義がそこに巣くっている

その合理主義が

人間の生をさらに貧弱な

ものにしている


人間の生の貧困を破り

善悪に縛られた心の解放を

なしとげるものこそ

幾何学なのである


誤った相対構図から 自分自身を解き放て

直立する平行線を割ってみよ

それらは斜めになり

交わりを持つにいたるのである


角度が出来る

透明な角度とはそれだ

そこから人間が改造されていくのだ


これは意識でDNAを修正していく

ようなものである

コンピューターが日々進化していくように

透明なる角度を意識することにより

人間は自動的に改良されてゆくのだ


1998.08.25.

| 1998年 | 00:07 | TOP↑

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すべては礼拝から

礼拝の時の鐘の音 鈴の音 

その幾何学的な波動

角度と線の交錯 透明な神

いたるところにかくれている

透明な神


神は礼拝することによって

つくられてくる

神が尊いから拝むのではなく

人間に神性があるから拝むのでなく

そんなことに何も関係なく

ただ礼拝する


透明 透明という角度はどこから

現われてくるのか

それは礼拝することによって 現われてくる


現象世界での様々な問題

そこでそれらを解決しようとしても

うまくいかない

その時 心の中で「礼拝」とつぶやく 


礼拝に焦点をあてたら 即座に

始まりの世界へ

ブラフマンと現象界の橋渡しのところへ

もどっていく


人間の感情の世界から瞬間的に

意識は根源へ帰郷し

時間の噴出口そのものとなる


噴出口は創るもの おどりそのもの

躍動そのもの

自己が時間をつくるもの

そのものとして立つのである


時間そのものとして 自分たちは在る

常に創るものとして在る

現象界に在ると誤解してはならない

つねに噴出口に 創るものとして

在ることを忘れるな


そのすべては

礼拝によって導かれるのである


1998.03.21.

| 1998年 | 23:52 | TOP↑

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生命をつき動かすもの

自分の現状がどうであれ

それは

二義的なもの

それは単なる過程 行き過ごさせてしまえ

流れにすぎないのだから


原因があって結果しているだけのこと

それら原因も結果も

実は単なる 思い込みにすぎない

実態はないのだ


それより根底に在る祈り

本当の祈りになること

それのみを思いつづけよう

あらゆる人を あらゆるものを 

あらゆる瞬間を祈りつづけよう


燃える祈り 

一元への燃える祈り

燃えて祈る

一元へ燃えて祈る

ただ一元を激しく思い燃えること


すべては相対のない一元からできている

だから在るということは 形は 現われは

その一元への思い 

それへの思いが凝ったものにすぎない


一元への激しい思いが

生命の本質かも知れない

それが根底から命なるものを

つき動かしめるのだ


1998.03.20.

| 1998年 | 23:50 | TOP↑

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本当の祈りを

祈り それしかない

祈り すべての根底にあるもの

祈りから形のもとができた


そのただ中にあって

自分にできることは何か 

それは たえず祈ること

祈りの連続の中に居ることである


一瞬一瞬を 一刻一刻を すべてを

今を 今のすべてを

ただ 祈ること


祈り そうだ 祈りだ 

祈りがすべて

祈りは相対が消えたところにある

相対を超えたところにある


手を合わす行為は

相手と自己の境を消してしまう


言葉を切って祈りとなろう

言葉はさまざまなかたちで

自己弁明に努める

自己の存在をなんとか主張し

意味あるものにしようとする


言葉 言語の作用は 相対構図を

強め固定化し

消すべき自己を強化してしまうのだ


言葉を切り 言葉の持つ現実的可能性を

放ること


言葉を切った本当の祈りの中から

オチャメがとび出してくる 

羽毛がとび出してくる

ほほえみがとび出してくる


どうしたら本当の祈りになれるか

それだけを

つねに心に止めておこう


すべての根底に在る祈り それを

思いつづけること

そこから決して それてはならない


1998.03.19.

| 1998年 | 23:45 | TOP↑

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平和を実現するために

人類は何千年間もこの地球上に

生きている

しかし平和な社会が 

未だ実現されていない


それは一番大切な教えを

人類が未だに持てていないせいでもある


その一番大切な教えとは何か

ラーマクリシュナの言った言葉

人々に奉仕することは 神への奉仕と同じだ

という一言である


これさえ持てれば良いのだ

これがすべての土台であり 一番シンプルなものである

なんの特別な修養も

哲学思想もいらないのだ


このシンプルな教えがあったら 

たくさんの教えはいらない

かえって迷いの原因とさえなるであろう


奉仕をしたいという気持ちでいたら 

悪い人というのはいなくなる 

どんな人も厭わなくなる


これが自分たちが生きていくための

ベーシックにあるべきものだ

ラーマクリシュナの一言を

実践してほしい


1995.05.28.

| 1995年 | 00:27 | TOP↑

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ニーチェより学ぶ

善いことをせよ

聖者のような人間になれ 愛情深い人間になれ 

この教えは間違っている


これは弱い人間に与える教え

弱い人間に必要な教えでしかない 

それをニーチェは偽善であると言った


彼は善と悪の問題を考えた

それは無価値だと結論づけた 

人間生活の中で人が頼りとする価値を

全部とってしまった


ニーチェは善悪を超越した存在

人を超えた存在「超人」というものを

指し示したが

最終的なものをつかめず 彼は狂ってしまった


善悪を区別する考えを合理主義という

仏陀の教えも合理 キリストの教えも合理

あらゆる聖者や哲学者のいったことは

合理主義でうずまっている


合理を超えるものは何か

それは非合理である

超非合理なるものである


白紙の舞い降りるさま

羽毛の風に漂うさま

ここにその超非合理がある


物が動く 物が落ちる 物がそこにある

その元にこれがある

あらゆるものの元にこの構図がある

これが宇宙の元の構図である


リンゴに羽をはやしてみよ

そして白紙の舞の軌跡をつくって

羽のはえたリンゴをその軌跡に

置いてみよ


リンゴが超非合理の神話の舞を

そこに展開しているのが

見えないか


非合理が 超非合理が

宇宙の全ての存在を

舞い踊らせるのだ

そこに善悪はないのである


1999.02.15.

| 1999年 | 09:48 | TOP↑

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神話的な人の特徴

人はどんな人を手本とすべきなのか

これが人類の歴史とともに

長い間 問われてきた問題である


神話というものが

その答えとなる


理性的でしっかりしていて

かしこいことをめざしてはいけない

神話的な人を手本とすべきである


神話的とは何か

私の「聖者と子供」という詩を見よ

今までの人々は皆 聖者をめざしていた

その間違いにきづかねばならない 


子供のようになること

それが神話的になるということである


18世紀のドイツに

クリスチャンゴットロープハイネという

神話研究の大学者がいた
 

彼は野原で寝ころんで本を読むのが好きであった

それを知った人々は 寝ころんでいる彼のまわりに

集まって来て

時には100人ぐらいにもなった


彼らはハイネの話を聞くのでなしに 

ハイネを見ていたいということだけで

集まり満足していた


それだけハイネという人は

神話的な人だった


神話は

人を惹きつけてやまないもの

人をなごますものなのである

そこに言葉 言語は不要であった


1999.04.06. 

| 1999年 | 13:20 | TOP↑

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線を見る目をもつ

詩的感性は 線をとらえる

そして言葉の中にも 

色彩の中にも 音の中にも

物質のなかにも 線をみる


線ですべてが織られている

そういうことを見てとる繊細な神経が 

感性の世界である


太古のエジプト人は そういう神経をもっていた

しかし現代人はただ単なる感覚をもって

すべてのものを見る神経しかもっていない

そこでものが立体的にみえるのだ


太古のエジプト人はものを見ても

立体には見えなかった

線の織り物であり 遊戯であり 舞であり 

芸術作品そのものである宇宙を

とらえていた


現代人はその神経がなくなり

知識で宇宙をみる知的感覚的神経の

持ち主となってしまった

エジプト人にとっては立体はなかった

そのように詩人にとっても立体はない


2001.12.20.

| 2001年 | 09:50 | TOP↑

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