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2019年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年06月

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ゼロとの対話

私はこういうマルワリの賤民達と共に生活していた時、井戸を掘って、
彼等を驚かした事もあります。

部落には一つの井戸がありましたが、私は二人の弟子と共に、我々の敷地内に
掘ったのです。それに刺激を受けて、自分の畑に井戸を掘り始めた村人もいました。
私の掘った井戸は最初の1mは土で、後は固い岩盤でした。
その岩盤を水が湧くまで5m以上掘ったのですが、一日かかって3㎝位しか
掘れませんでした。
そしてそこに、コンクリートのわく組みを入れ込んで仕上げました。

……私は青年の頃、キリスト教の熱心な信者であった内村鑑三という日本人のことを、
学校の教科書で学んだ事があります。
その中に彼のいった「働け働け、報酬を得ずとも働け」という、すごい言葉のあるのを
知ってびっくりしました。
私はその言葉を知って、(これは真理だ)と……生まれて初めて真理というものに
出会った!という思いで、大変ショックをうけました。
これはギリギリの地点ですね。
ゼロの地点です。

これも一つの対話です。
自分自身との対話です。
そこに時間の止まった世界があります。

……そのゼロの状態、ゼロの波動の状態の中から神自らが姿を現してくれます。
どんな形で現われて来るか分かりませんが、必ず、何らかの形で現れて来ます。
「ゼロ」と「ゼロ」の対話の中で、どんな対話がなされているのでしょうね。
サーバントの老婆が光ったのも、あのマルワリ達の歌声もこのゼロの中から
出たものだったのでしょう。
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| エッセイ | 14:58 | TOP↑

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真実なる響き クンバメラ

この間、アジメールのマルワリ達の歌に私が魅了された時のことを話した。

……なぜ彼等にそんな歌い方が出来るのかを考えたところ、彼等は賤民であって、
長い年月に渡り自己のもつあらゆる可能性を棄て去って来たと言う事であった。 
彼等にはどんな可能性も許されていない、いわゆるアウトカーストの人々である。

一般人の入っている映画館に入ることも出来ないし、形の変わった着物を着ることも
許されていない。
一年に一度ホーリー(春の祭り)に、決まりの着物の新しいのを買い、
それで一年間いくのだ。
それが一方では、慎しい人間というものが出来上った原因ともなる。
何でも手に入れられるものは手に入れ、着、食べ、行動するといった可能性は
自由で良いようだが、それなりに失うものがあるようだ。

この物質文明は何かを犠牲にして押しられてい進められて来ている。
例えば時空の広がりだ。 
人間にとって最も必要なもの、「時空」というスペースが失われ、
スピード化して行く生活の中で、車が幅をきかせ、手押し車や、市電、バス、
ローカル線等をなくしつつある。
ただ申し訳け程度に市バスが走る。
タクシーもいらなくなる程、自家用車で国土が埋まってしまう時代が来る。

アメリカはこの物質文明をうまくコントロールしてはいるが、土臭い生活、時空と共に
生きる生活が、あらゆる可能性にとってかえられていく。
発展と可能性はくっついたもののように考えられる。
しかしそれが真の発展であろうか。

人間はあらゆるものを可能にすればする程うぬぼれ、喜びに満ちるのみである。
これで人間は幸福なのであろうか……?
失われたものが在りはしないか。
あのアジメールあたりのラジャスタン州のマルワリ達。
この賤民はあらゆる可能性を奪い取られている。

私はかつて十二年に一度行なわれるという、インド北部のハリドワにおける
クンバメラ大祭(神への大祭)に参詣した事がある。
当時私が住んでいたのは、それより南にあるラジャスタン州の小都市アジメールだった。
その一番山に近い所にフォイサガールという、湖のある美しい土地がある。
いわゆる賤民であるマルワリ族の部落が一キロおきぐらいに点在する場所だ。

その一つの部落のはずれに私は居た。
彼等は住む家がわずかにあるぐらいの生活である。
そのマルワリの人々も、ずっと北部行われているクンバメラの祭りに来ていた。

この祭りには何十万人とインド中から参詣者が集まり、寺々に宿泊するのである。
しかし、このマルワリ族には宿泊する所もないのか、女性百人位が、
男性の指導者数名とともに道路わきの広場の木陰にたむろしているのを見かけた。

彼等は特有の服装をしている。
男は頭に赤、黄、青のターバンを着け、その一端を長く垂らしている。
ピンとした口髭をほとんどの男はたくわえている。
来ている物は白木綿の身にぴったりしたものだ。

女はサリー風なものを着ているが、長いベールのようなものを頭からすっぽりかぶり、
両足首には大きい重い銀の輪をはめている。
着物の染めは大胆でとても素朴な原色を使っている。
着る物は一手に決められているのである。
だから「マルワリの女だな」と、どこで会ってもすぐ分かる。

メラ(祭り)は熱気をおびて、どこの寺からも大きな音のスピーカーでお祈りが流れ、
ガンジスぞいの参道には人がひしめいている。
一人でも倒れようものなら、次々にその上に人が折り重なって、踏み殺される騒ぎが
起きる。
警官達は警棒で人々をなぐりながら、必死になって交通整理をしている。
「今日の死者は何十人」と、その一週間の祭りの間に報道された日もあった。

押し合いへし合い――ガンガン流れて来る寺々での祈りの声。
参拝者は歩きながら歌い続ける。
熱気にあふれた騒々しい祭りだ。

私はラーマクリシュナ・ミッションのキャンプ場に宿泊していた。
一週間の祭りがおわると、人々はバスに乗り込み、ある者はバスの屋根にまで
乗って帰っていった。
数知れないたくさんの大型バスは、何十万の人々を二、三日がかりで運んで行った。
私はなかなか乗れそうもないので、帰るのを延ばし、テントの中で夜を過ごしていた。

もう大分人々の数も減って、明日あたりは帰れそうだと思っていたその夜のこと、
一時頃だったろうか、かすかな歌声の群れの移動が聞こえて来た。
何百人としれぬ女性の歌声。
「シバシバコーロ、シバシバコーロ」。
それはまさしく、マルワリの女たちの一群が歩きながら移動していく行く歌声であった。
彼等は泊まる寺もなく、道端でこの一週間寝ていたのであろう。
そして今、帰路についている様だ。

私はこの歌声に魅了されてしまったのである。
何たる歌声か!
ハメルンの笛吹きについて行く子供達のように、私の心は彼等の歌声の移動の中へ
吸いとられてしまった。
私は今の自分の一切を棄てて、そのマルワリの群れの中へこの一生を没入させたい――
という気になった。
そして、そのキャンプ場の塀をのり越えてでも、彼等の群れについて行こうと決心した。

小さい荷物を小脇に抱えて、私はテントを抜け出た。
すると運悪くもウォッチマンに見つかってしまった。
彼等は二メートルほどの棍棒を持って、夜でも警戒に回っている者たちだ。
こんな連中にとっつとっつかまっては言葉も通じないし、盗人あつかいされては大変だ。

追っかけてくるウォッチマンは何やら叫んでいる。
私は天幕の細道をぐねぐねと走りぬけ、自分のテントに逃げ込んで静かに隠れていた。
朝までなんのこともなく、やれやれだった。

それにしても、あのマルワリの一群について行きたい――
この一生を投げ棄ててまでも……と思わせた位のその声の魅力。
それはいったい何だったのだろうか?と私はこの数年考え続けてきた。
立派な歌手の歌声でもなければ、素晴らしいお寺のスワミ(僧侶につかわれる尊称)
の歌でもなかった。

スワミや歌手達は偉い坊さんだ、立派な歌手だと人々から言ってもらえる可能性を
もっている。
だが、この賤民達がいくらいい声で歌っても、その可能性は全然ない。
すべての可能性をもたないこれらの人々の何かの中から、こんな歌声が
出て来るのである。

鏡に顔を映し見ることもない女達。
ベールに隠れた日焼けした、黙々と働くより他ない平凡な顔が、時にはほほえみ、
時にはけげんそうな顔となり、時には大声で子供を叱り飛ばしている。
男は昼寝をしても女は絶対しない。
畑仕事か木陰で穀物の中の石をよっている。
こんな可能性の何もない賤民の人々の心の中からこそ、
あれほどまで私の心を捉えてしまう不思議な力が出てくるのであろうか。

……「真実なる響き」をもった歌声がそこから出てくるという事を、
私は知ったのである。

そして今ここに、私はアメリカにいて考えさせられているのだ。
何でもあり、何でも自由で、明るく、スマートであり、クリアーであり、
発展の可能性を一杯持っている国。
私はそこに立たされているのである。

しかし自由、明るさ……これらは結構な事であるが、
「真実な響き」を彼等は作り得るであろうか?
「真実なる響き」……すべてのものを投げ棄ててまで、
そこに飛び込んでしまいたいような、真実の魅力ある世界が、
このアメリカという国の未来に造られて来るであろうか。

アメリカばかりではない、人類にこれは問われた問題である。
その真実なる響きが無ければ、真実なる社会も、真実な生活もつくれない。

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ゼロの中から神が現われる

味わうという言葉は、良い言葉ですね。
知識を持ち知的であるという事と、味わう心を持つという事とは大分違いますね。
例えば存在生命があるという事をしっても、知るだけでは何にもなりません。
それはただの知識でおわってしまいます。
鉛筆をさすり、コップをさする。
そこにひとつの味わいが出てきます。
味わうと言う言葉は非常に良い言葉です。
では、自分たちがこの世に生まれて、宇宙を味わって要るだろうかと、問うた時、
あんまり味わっていないかもしれませんね。

私は1975年の秋から、インドのアジメールという田舎に居りました。
電気も水道もトイレもないところです。
そこはマルワリの賤民の部落で、一般人はその部落に入っていけないような、
そんなカースト制度の名ごりが残っている部落でした。
いわば一つの閉鎖社会なのです。
私はそこで奉仕活動をつづけていたのです。

そこは物凄く暑い所で、三月にもなりますと、朝の十時から夕方の六時まで
戸外に出ないで、部屋の中で寝ころんでいるしか他に、身の起きどころがないほど
暑い所なのです。
ところが、我々のサーバントの夫婦はよく働く人達で、特に女性は男の人が昼寝を
している時でも、そんな暑い戸外で働き通しです。

このように彼等は、来る日も来る日もずっと働いて、しかもまずしい生活をしています。
小さい建物の中には、粗末なベッドと鍋と窯と食器、水壺一つぐらいしかありません。
しかしかれらは、文化や文明から害されていない、昔ながらの透明な心の人々だったのです。

これは私の弟子の一人が体験した話ですが、或る日のことサーバントたちの住んでいる
建物のすぐ隣にある牛糞を積んでいる建ものをフト見たのだそうです。
するとそこが光っていたというのです。
そこは我々が入るのも遠慮するようなうす暗い所であり しかも牛糞の置き場ですから、
私たちはほとんどそこに近づきません。
そんな所が光っている。
光るものは何もないはずなのに……と彼は、不審に思ってじっと見ていたのです。

インドの貧しい人々は、牛糞を20センチぐらいの塊で丸く平らかにして、
干して燃料にします。
そんな牛糞を置いてある小屋の内部が、光っていたのです。
そしてしばらく見ていると、その建物の中からサーバントの老婆が、
牛ふんの入ったざるを頭に乗せて出て来たというのです。
そしてその人物が光っていたというのです。

それを見た彼はびっくりしてしまいました。
貧しい人達です。
働き通しに働いて、服装も本当に貧しいよれよれの服装をしている。
その賤民と言われるサーバントの老婆が、光って小屋から出て来たのです。

これは素晴らしい話です。
我々は立派になろうと思って、修養したり神様を拝んだり、本を読んだり
いろんな事をして立派になろう(光ろう)として苦労しているのですが、
賤民のサーバントの老婆が光って小屋から出てきた……彼の驚きも想像できます。

しかし彼女らには光る一つの原因があったのです。
むろん彼女らは、汗を流しながら熱いのを我慢して働いているのですが、
彼女らは働きながら、いつもシバ神の名を唱えつづけています。
「シバシバコーロ」「シバシバコーロ……」とシバの名を呼び続けています。
彼女らは神と共に生きる、その味わいの世界の中に生きている人々だったのです。 
そういう文化を彼女らはもっていたのです。

私たちはこのようなマルワリの賤民達と共に生活をしていたのですが、
これは人生の内で尊い経験でした。
一般社会では、なかなか味わえない体験の数々をさせてもらいました。

| エッセイ | 08:57 | TOP↑

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言語のもたらす弊害

最近、面白い話を聞きました
光司君がバークレー大学の3年生の時のことでした
休みで帰って来て話をしてくれたのです

「僕は最近 28才のイタリヤ人と友達になった 
彼はバークレー大学で コンピュータと日本語を学んでいるのだが
彼には奥さんも子供もいる
その2才の女の子はとても賢い子で お父さんがその女の子に
(私のもの)という言葉を教えないようにして育てた
それでその子は 何を持っていても みんな他の子にやってしまう……」
と言うのです

私はこれを聞いて こういう風にこどもを育てることも出来る
という事に興味を持ちました
人は「私のもの」という その言葉からつくられた虚構によって悩み苦しみ
今日まできているのです

光司君は大学から休暇で帰ってくると いつもそのような……お土産話を何か一つ
持って帰って来てくれます
この間は『本能』(instinct)というタイトルのビデオを借りてきてくれました
それはゴリラの映画で 人間の心が悪くなり 
動物を捕まえて檻に入れるようになった……という人間の間違いを語るものでした

そのビデオの内容に興味をもったので 光司君がその著者にメールで連絡を
取ってくれました
するとその著者から私宛に丁寧な返事が届きました

それによると 彼の書いた本の内容と映画の内容は大分違うから
その本を読んでくれというものでした
それで早速日本語に訳された『イシュマエル―Ishmael by daniel quninn』
を取り寄せました
それには興味深いことが書かれていました

その初めの方は イシュマエルという名前のゴリラが著者のdanielに
様々なことを教える――という発想で書かれていました
それによるとゴリラの収集法は1930年代は 先ず群を見つけて雌たちを打ち殺し
後に残されたゴリラの子供達を手当たり次第にかき集め
動物園に売っていたという事です
イシュマエルというそのゴリラにはそういう記憶は無いけれども
捕えられて 檻の中に入れられてしまったのです

そこでその動物園に来る人々がイシュマエルを指して「ゴリラ ゴリラがいる」
と言いました
それで自分はゴリラというものであるという意識になったというのです

それから森にいた時は 食べ物は何でも自由に取って食べていましたが
ここでは飼育係りが時間になると食べ物を与えにきます
それで食べるというものに対して意識が出来てしまったというのです

このあたりが非常に面白かった
やはり言語が出来て それを用い出すとそんなことが起きてきます
このイシュマエルというゴリラの言うことを聞いていると
言語が人間を変質させたもの……がよく分かってきます

UCバークレーのイタリヤ青年が 自分の子供に「わたしのもの」という
意識をもたせないように育てた――という実験も興味深い話でした

| エッセイ | 23:31 | TOP↑

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魂の連鎖から離れた人間

空気というものがありますね 
その空気の分子というものは ものすごいスピードで飛んでいる
という事を皆さんご存じだと思います
空気の分子が飛んでいるのですね
空気というのはジーッとしていて 風が吹いたらあっちへ動いていく
と思うけれど そんなものと違って空気の分子そのものは
ジェット機のような速さで飛んでいます

それは眼にもみえないし その抵抗も感じないのですね 
しかし飛んでいるのです
水素分子だったら もっと速く飛んでいます
ものすごいですね
ジーッとしているものなんて 何もないのですね

そしてすごいスピードで飛び交う物たちが 互いに衝突しては消え 
また生成したりして 相互作用を繰り返し 進化し続けています

そこで今日の話はもっと「宇宙の連鎖」と「秩序」について話していきます
先ず太陽と人間の関わりについて話していきます
野菜が光合成と言って 太陽の光を浴びて成長していきます
野菜ばかりでなく樹木も 光合成の関係によって成り立っています

また太陽の光以外に 引力や慣性力 その他様々なエネルギーの影響をうけて
全てのものが存在しています 
そのように 宇宙にあるものは全て そういうものと皆縁があります 
そういうエネルギーという波動の渦の中で生きているようなものです

ところが人間はそんな事などあまり考えずに 自分中心に生きています
人間は人間だ 石は石だ 空気は空気だ 距離は距離だ 時間は時間だ
宇宙エネルギーはエネルギーだと 
それらを利用することばかり考えています
しかし石も 人間も 距離も 全てそういうエネルギーという波動と
相互関係があって 生き存在している仲間なのです

ところが人間は日常生活に忙しく そういう仲間的な意識をほとんど忘れてしまい
宇宙の連鎖から遠く離れた所で生きています
そして人間の知識で 何でも開発できるというような横着な考えになり切っているのです

古代の人は 月も太陽も山も 自分と同じように思っていました 
万物と人間が一つになっていたのです 
アメリカ・インディアンなどは 今でも樹に対して「樹のひと」と言って呼び欠けます
そのように太古の人々は 全てに霊が宿るものとして語りかけ
それらと一つの交わりを持って宇宙と共に生きていたのです

そういうように交わりをもち それらが自分の一部に思っていた人間がどうして 
連鎖から離れた人間になったのかといいますと 以前にも述べましたように人間が

「あちらとこちら」「私とあなた」という言語をつくってしまってから
人間は他のものと離れた存在となってしまったのです
こうして自我という個なる自分が出来上り こんな虚構を構築してしまったのです 
文明・文明と人は言って誇らしげに生きていますが それは本当に文明なのでしょうか

そして舞台が人間中心になり 文化人・文化人と言って自慢していますけれど
太古にあった文化と近代の文化とは質が違うのです
今の文化は 連鎖文化をかなぐり捨てた人間独自の合理的理性で
突走っている文化です


本当の文化人とはそういうものではなく透明な感性を主体として
全身で宇宙と一つであると感じ取っている人々のことをいいます
現代の人間は相対的な合理知をもって 人為的に自己と宇宙をゆがめているのです
だから人間は相対的な美感と喜びの中で生き 一体感から出てくる 躍動の生命的な
本当の喜びをもたないのです

人は目の前にコップを見ても ただのコップであり 机はただの机であり 
馬は馬であり空気は空気であって 
自分と離れたところにコップや机があるのです
そして人は ただ美しいものをみたら 美しいと感じるだけの人間に
なってしまっているのです

美しいと感じるだけでは 詩人にはなれません 
詩の心とは 全てのものとの一体感から出てくる「対話」にあります
ホイットマンは どんな人にでも 道端の草にでも「やあこんにちわ」と
挨拶を交わしました

この存在の連鎖―chain of being―と呼ばれる思想は プラトンとアリストテレスを
起源として ヨーロッパ思想の中にも早くから広がっていました
中国においては老子の思想の中にそれを見ることができます 
インドにおいてもウパニシャド時代から梵我一如「多即一」………
即ちさまざまな存在があるが すべては一つの同じものであるという思想があります 
サンスクリットではタトバマシイ(Tatvamasy)と言って あなたはそれです
という意味の言葉があります

| エッセイ | 23:11 | TOP↑

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折り返し運動は甘えと遊戯をつくる

本当の遊戯とこの世での遊戯(この世的遊戯)とはちがう
この世的遊戯とは 自分の力と知力を以って 遊ぶことである
しかし本当の遊戯とは自己の無力を知り
どうにもならなくなった時 苦しまぎれに 最も信頼出来る者に
甘えて頼み込む 頼み込むという事は 甘えがあるから
出来るのであって
いくら苦しんでいても他に頼らない時がある 
それは相手のよしあしや いやな奴には頼みに行かない 
それは親しくないからであるし
その他者に甘える事の出来ない空気を自分がもっているからである

だから太陽の笑いに甘えて頼み込むのは
親と子の関係のようである
そしてすがり付く それは甘えられる人や者であるからである
その甘えが その者との関係において「遊戯」となるのである

即ち 関係の中にある綱である
何らかの綱のない所には頼みにいけない 
その関係をもとにもどす事は遊戯即ち(折り返し)
即ちもとの関係に戻す事である

人は常に自分流に生きもっとも関係の深いもの
たとえば親と子でも何とかして自力で何とかしよう
出来るとして頼みに 甘えにいかない
行くという事は折り返し法則に従ったことになる

                   子
img004.jpg 親
                     
親の許に帰ってくる事
この運動こそが本当の遊戯ではなかろうか
この時に自力のない時におきる

太陽に甘えて遊戯すると心に余裕が出てくる
心に余裕が出てくると他者の言う事を
ゆっくり聞き受け入れられてくる 
今までは「知」で相手の言う事に対応していた事が
分かってきた

知でなく受け入れる事である
それも一つの遊戯だ

太陽に甘え遊戯する(折り返し法則)事になると
他者とも遊戯する(神話)(宇宙的)事が出来てくる 
すると自然が我が内になる 
手中に納まる 
即ち遊戯的になる事が自然そのものの相になった事である
自然と連鎖せよとか言ってもここまで来なければ本当の連鎖ではない
すべてと連鎖できるのは 即ちそれらと遊戯する時である 
と言う事になると――その遊戯の
中に甘えがあるはずである
無力という姿にならねば 即ち無力(無知)
の状態にならねば それらと連鎖出来ないのである 
知力のある間は すべてと連鎖出来ない事である
連鎖は自己の無力を知り
甘えが出て来た時即ち すべてにたよる時である

よく言う
大人になりまた 老いた時 頼る人となると
人は人らしくなる
自力のある間その人はかわいくはない
かわいくないと夫婦でもうまくゆかない
知力その他の力に頼っている間
夫婦でもうまくいかないのである

現今はそのうまくいかない方向に向っている

そこでは自由を失う
自由とか幸せは無力を知った時でないと現われてこないのか 
なさけない事だ 人間というものは

神の顔にはなれない人間なのか?
それが創造の法則である それが法の調べである
法の調べはその時にかなでられてくる

自分一人で生きてゆけると思う事自体が
大間違いである――と言う事になる 
そんな人は知力の人でか たいギスギスした大人である強い
自己を知らない人である
同時に「折り返し法則」という宇宙の法則に背を向けて生きている人である
不幸きわまりない人生をおくる

自然とは 甘えと遊戯の折り返し法則を
持つ事にある
その為には自己の内なる力を捨てねばならない
人はその力を持っていると思っているから 
他者とぶつかるのである
腹が立つのも 自分が正しいと思うからである

アートマンはブラフマンに合一出来る
ということはものすごく間違った教えである
又 自然に帰れという教えも間違っている
なぜならそうなれるという可能性という
力をその者にもたせるからである

悟れというのも 悟れるという力を人に与えるからである
仏陀の教えや老子の教えのまちがいが分かった
こんな力を与えられたがゆえに人は
苦の世界を歩かねばならなかったのである

人は自己の内にあるあらゆる力に気付き
それを無力化すれば甘えと遊戯が出てくる
よろこぶのも幸せをねがうのもダメである

女性の権利云々も力となってわざわいのもととなる
アジメールの賤民には何の可能性も力も与えられていない 
その者は実はめぐまれた人々である
だから光り輝いた姿を見せたのである

人は光ろうと思っても光れない
そこに可能性をもっているから
人は奴隷となる程に自己を無力化しなければ
光もでてこない
甘えも遊戯もでてこない
甘えと遊戯を持った者こそ
自然に帰れたといえるのである

1、内なる力を力をやっつける
2、甘え遊戯する
3、幸せがくる 平和がくる

平和にさえ 光そのものにさえなれたらよいのだ 
幸せなる者たちとなれればよいのである
太陽とも 人とも 自然とも
光の遊戯の中で舞う蝶となる
ウキウキしてくる

2007.02.15

| 2007年 | 20:34 | TOP↑

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在ることが芸術となる

人はいつも中途半端にいる
充分に実際に起きたことを100%認識し 受け止めておらず
中ぶらりんで右往左往している
善し悪しの領域にいるから 
善し悪しがひっかかって 頭の中でいろんな操作をしている

100%充分に受け止めよ イエスと引き受けよ
真にして実のこと つまり真実と受け止めよ
それは芸術になる 奥なる魂から来る芸術

事実と受け止めると
事実の向こう側へいってしまう
純化されるのである

認めた時に消えてゆく 薄らいでいく 
親鳥が全てのひな鳥を羽の下に入れるように
包み込む 
包括すると純化されてゆく

美しいものだけが芸術なのでなく
魂の奥の波動が
真実を高きものへと引き上げてくれるようである
それが本当の芸術である

真(しん)人間の状態こそ本当の人間である
現実ということはものすごい 
それが本当の人間の状態を創り上げる

現実ということは ものすごい
それは在ることというもの
真実とは真なること 実なること
在ることが真実なのである

在るということはものすごいこと
在るということは真実なこと
戦争でも 悲しみでも うらみでも 
在るということはすごいこと

今まで 全て善し悪しの世界で
人間は判断し さ迷って来た
その善し悪しを超えて貫いて
在るということは
時間でも エネルギーでもない

その正体は はっきりしている
それは芸術なのである

2000.07.25.

| 2000年 | 00:05 | TOP↑

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