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2019年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年08月

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神話は政治の根幹

神話は希望と安らぎと空想力を養ってくれるものである
神話は分け合う性質がある
神話には連鎖がある
あるから分け合いへと移行する

統一は神話ではない
連鎖と統一とは違う
統合と統一とは違う
統一は自由を失う

マルクスは統合を統一へもっていった
そこに失敗がある

物理学では統一場の理論を
探しているがそれは間違っている
宇宙に統一というものはない

毛沢東は統一しようとして 昔の文化を潰し近代化しようとした
いわゆる文化大革命である
統一は自由を束縛する

宗教においても 孔子流に一定の枠に人を入れようとするものがある
それは進化を止めてしまう
老子は言った
法規が少ないことが法規であると

太古にあっては神話が法律のような役目をしていた
人々に製産と生活の自由を与え 分け合う心を中心とする
連鎖は分け合いと移行する
いわゆる兄弟である

メキシコ人がよく兄弟兄弟というがそこに栄光がある
分け合う政治 自由を与える政治
そこに経済は経済となる

言語が生気ある言語となるように
経済は生気ある 神の光りある経済となる
今は悪魔の経済である 取り合う経済である
分け合う生産ができたら 地球がいかに蘇って来るかを
想像してみよ

地球を学べ
自由であり 支えてくれる地に種を蒔け
種は分け合う為にあるのだ

トマトも柿もパパイヤも微笑もう
バナナはもっと喜んで 立派な実をつけてくれよう 
バナナの花を見た事があるか
見事な微笑みを みごとな希望を満面にただよわせて
咲いてくれる
ヤシの木は7年面倒をみると 
70年その人々の為に実をつけてくれるという

樹々 果樹 野菜 魚を大切にしよう
みな兄弟なのだから

天の与えてくれた乳のようなものだから
赤子に乳を与えよ その姿を見てみよ

ローマにイシス女神の信仰が流行したのも
世界中にマリア信仰が拡がったのも 
仏教の慈母観音信仰が拡がったのも
分けるもの 自由へ羽ばたかせるもの
縛り付けるのでなく 統一するものでなく
親は子を統合させて見守っている

一年に一度 祖先の霊前に子孫が集まって
祖先への感謝をのべるのも
統合であり 喜びであり 昨日への贈りものである

力を合わせて分け合うのだ
政治は神話をはぶいてはなりたたないのだ
科学も数学も哲学も 教育 宗教もしかりである

神話からずれると統一理論が出てくる
神に従わならぬのではない 神のように成る事である
生き物をも無茶苦茶に殺してはならない
彼等にも生きる権利はあるのだから

キャッ!という悲鳴を聞いたから足許を見たらムカデがいた
ムカデも殺されるのを 足で踏み付けられるのをこわがったのである
人間は 樹々や生き物の悲鳴を聞く耳を
今では失ってしまっているのだ

大事なのは政治と生産が 悲鳴を聞く耳をもたないことだ
まず最初にそこから改善させてゆかねばならない
そうすれば 犯罪は減るであろう
犯罪を出しているのは政治かもしれない

ヴィコは法律学者であった
彼はナポリに生まれた
ナポリは政治改革の中心地であった
ヴィコは法律 数学にたけていた
そして最後に見つけたものは太古の心 神話であった

神話は人の心であるばかりでなく 宇宙の心である事を知った
その心を……神話をもってなければ
すべての学問は間違ってしまうと考えた
特に政治である

太古の人々の神話は彼らの法律でもあった
ところが人はアダムとイブの知恵のリンゴの話にあるように
神話からずれ落ちた知恵の果実の種をまきちらした

人為的な法律がそこから生まれた
ヴィコは政治は神話に帰れと叫んだ
マルクスもその影響をうけた
ロシアではヴィコは知られている

ヴィーコの神話に関する「新しい科学」の内容が
真にロシア国民に浸透するなら 素晴らしい国として
また立ち上れるであろう
彼らは今何をすべきかを模索中である
模索する者は何かを見つけるであろう

経済や国力で安定している国民は
機械技術力の中で振り回されて骨ぬき人間になってしまうだろう
二度と立ち上がれなくなるかも知れない
目覚めが遅れれば遅れるほど 地下が空洞になり
そこへ落ち込むであろう
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| エッセイ | 23:54 | TOP↑

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無意味から無目的へ

「無意味」というのは意味の解体を示している
それは合理主義は良くないという事であり
合理で今日までの文明が流れてきたが 
それは間違っていたという事である

無意味の奥へ進むと さらにはっきりするものがあった
それは「無目的」という言葉である
宇宙には人間の知りうるような意識では解らないものがあるのだ

「無目的」……この生は何も目的があるのでない
それなのに合一とか帰郷とか 悟るとか 解脱とか 
人はそれらの目的物をもって進み
そうならねば……という重荷を負って生きている

「無目的」なる生と宇宙の存在を知ると 一度に肩の荷がおりるのである
そして本当に自由というものを体得できるのだ

1999.11.10.

| 1999年 | 23:20 | TOP↑

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もしニーチェにオチャメがあったなら

以前、神話は形相に現われるという事を述べました。
神話というと難しいように感じますが、しかし本当は分かりやすいものなのです。
例えば、両手を合わせて合掌するという形がありますね。
これも一つの神話の形なのです。

私は子供の頃、親が満月に両手を合わせて拝んでいるのを見て、
自分も合掌して拝んだ事があります。
こういうのはとてもきれいですね。
純粋ですね。
オチャメがそこに、素直に入っていますね。
このように神話は形相として現われ、いたる所に見ることが出来ます。

「オチャメ」というのは有難いものです。
「オチャメ」の中には権力や、うぬぼれや利欲や腹立ちや、恨み憎しみが入りません。かえって「オチャメ」がそれらを消してくれます。
そして「オチャメ」になると、人と人、人と自然との間に「対話」がなされてきます。すると知恵で割り切れない神話の世界へ、人の心が波動的に入っていけます。

ところが、宗教哲学の世界においては、宇宙の奥生る真理は、言葉や文章で
あらわすことは出来ないということで、不立文字とか、(否、否、否……
お前たちの言うことは全て間違っている。それでもない、これでもない……)
と言って全て否定しています。
サンスクリットでそれをネーティ、ネーティと言います。

また宇宙の真理は無だとか空だとか、有は無から生じるとか言っております。
しかし、これらもやはり合理知から出た言葉であり、悟性のしからしめる所です。
そこでは知的な空回りになり、オチャメという本質的な世界から遠いところに
行ってしまいます。
昔のギリシャにおいて、宇宙の始めに「あくび」があったというのは
たいした言葉です。

ところでニーチェは欺瞞に満ちている社会、これまでの合理的に意味づけられた、
あらゆる体制を受け入れている人々に、
「その既成の意味づけられたものを受け入れてはいけない。」という事を唱え、
人々に新しい方向性を与えました。

そしてこのニーチェェの思想は、特に若い鋭敏な人々に刺激を与え、受け入れられて、ニーチェがなくなる4~5年前からすでに全ヨーロッパにニーチェ熱が広まり、
ニーチェはその時代の地震のような存在であったと言われています。

しかし残念な事にニーチェ自身は、その人生を発狂という形で終わらせる事に
なりました。
もし彼が、意味の解体によって、その奥にあるオチャメというような柔らかい
遊戯的なものを見つけていたなら、もっと神話的な人生を送れていたことでしょう。

人生は舟に乗って、時間の河を渡るようなものです。
しかしその船に、神話というオチャメを乗せなければ、
まともに時間の河を渡っていけません。

| エッセイ | 20:51 | TOP↑

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ギリシャの古典文学の堕落から見えるもの

或る日、ギリシャの神に対する信仰のあり方が、私の脳裏を横切りました。
ギリシャ人の神は清く、静かであることが神の本質となっています。
人は悩み多い時でも、神の前に行って至福を願うのでなく、その清浄の静けさの
前にひざまづき、慰めと憩いを受けるのでした。
即ち清浄で静かなる神の本質の面前で、その偉大なる永遠の瞬間を受けるのです。

ギリシャ語でアイドース(aidws)という言葉があります。
これは女神の名前ですが、神に満たされた世界を意味するものでもあります。
このアイドースは、処女神アテーネの乳母であったともいわれていますが、
このアイドースは、人間の中にも存在しており、自然の中にも存在している
純性で清浄でけがれのないものを意味しています。
そして森や野や山の静かさの中にも姿を現わしているといわれています。

この古代ギリシャ宗教の神々の中の一つである『純潔』(アイドス)の精が
清らかな流れとなって草原をうるおし、草花、樹木、それら一切のものを生かし、
かつそれらのものの精霊ともなっています。

また「自由な喜ばしきもの」を現わす(カリス)という三人姉妹がいます。
この三人のカリスが互いに手を取って、舞踊する乙女の群像です。
彼女等は歌と踊りの名手であり、この聖なるカリスたちが加わらなければ、
歌の会も饗宴も催すことはできないとさえ言われたぐらいです。
絶えず歌い踊り遊戯する姉妹です。

この「喜ばしきもの」というカリス女神の精はまた、春の樹々の成長と開花
としての不思議力を現わしています。
しかもこのカリスは優雅にして魅惑的で与え恵むものです。
与え手、贈り物そのものなのです。

さらにその魅力は、ただ与え手というだけのことでなく、受けとり手としての
喜びをもつものなのです。
喜ばしきものカリスは、なぜ歌い踊るのでしょうか。
与える喜びと受ける喜びを持つ、これが全世界の姿そのものなのです。

しかしここで気になることがあります。
このアイドースとカリスの三姉妹の清く、美しく、恵み深い神々の形相の中に、
オチャメが登場していない事です。
これが今日まで文学や宗教や哲学の中に欠けていたものではないでしょうか。

日本神道の中には、太陽神があまりに荒々しい神から遠ざかるために、
岩のほら穴の中に隠れてしまいました。
その時、太陽神を元の位置に引き戻す為に、一人の女神が臍まで出して、
その岩の穴の前でオチャメな踊りをします。
すると隠れていた太陽神が姿を現わしたという神話的物語があります。
このように日本神道には何も教義はありませんが、オチャメが確かにその
本筋として示されています。
春の花の開花も、秋の落葉もオチャメの一面ではないでしょうか。
それが喜ばしきものではないでしょうか。

あまり純潔とか静とか或いは、甘い蜜のようなことを追い求めていますと、
弱々しいロマンチックな人間になり、真実な強さを失うことになります。
そして自分だけがそういう聖域をつくり洞窟の中に入ってしまいます。

しかしギリシャにオチャメがなかったわけではありません。
ギリシャには哲学が現われる以前に、世界の生成を説明する宇宙神話がありました。
それは「宇宙の始めにカスチイン(あくび)があった」という言葉がありました。
これは正しくオチャメの現われであります。

神的なものは、そのオチャメの中にあります。
またオチャメの中に、神的なものがあります。
純潔のみが神的なものではありません。
高貴はオチャメであるが故に、神的なのです。
オチャメはまた高貴なものであるが故に、神的なのです。
それが人間の内にあるのです。

人間はそれに気が付いていないだけです。
しかしそれに気が付いた者は、神的なものに親しく語り合え、その親しみ深い
清くオチャメな形相をそこに見ることが出来ます。
啓示はその一つの方法であり、一つの現われです。

神的なものは 神的なものだけにその姿を現わし語りかけることが出来るのです。
それが神の訪れであり、啓示の世界であり、神との対話の世界です。
そしてそれは、我々がより広く物を見る謙虚さがあればあるほど、
その者にとって神的な領域が拡大されてきます。
その啓示を受けられる仲間となります。

それにはまず、オチャメと純情と他を思いやる心が必要です。
それをもたないと神も自然も、人間の心の中から離れてしまい、宇宙的人間から
地上的人間になってしまいます。

花の開花はオチャメの対話です。毎日上る太陽もオチャメです。
そのように太古の人間は太陽はもちろん月、星々、植物、動物、風、火、水……
或いは時間や空間との対話が出来るオチャメ人間であったのです。

しかし人間はそれらとの関係の中に在る神的なものと触れ合う波動を
知的合理主義の思考に売り渡してしまったのです。
そして人間中心となり、人間の事ばかり考え、なぜ苦があるのだろうか?……とか、
なぜ死があるのだろうか?……などと考え、その答えを探し始めたのです。
そして天と連なる生命の線を切り放ち、人間の悲劇にのみ意識が集中して、
蜘蛛の巣にひっかかった蝶のようになってしまったのです。

ギリシャの古典文学においても同様に、神的な宇宙生成の神話から、
人間と人間の葛藤の悲喜劇が中心テーマとなっていきました。
人間中心主義が悲劇や喜劇にならざるを得なかったのは、人間の魂の大落下を
明らかに証明することの他になにものでもありません。

本当のものを失った人間の哀れな悲喜劇の動乱は、尚も続くのでしょうか?。
魂を地上に縛り付けるその蜘蛛の巣を取り除いてくれるものは、
一体何なのでしょうか?。

| エッセイ | 21:39 | TOP↑

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