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2019年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年10月

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ナイル讃歌

「ナイル讃歌」

彼は白い王冠をいただく石像として
彫刻されるはずがない

この一節から始っています。これだけでも大したものです。どこの文明でもすぐ神を彫刻してしまいます。しかしエジプトでは最高なるナイルの神に対して彫刻など夢にも思えなかったのです。ここにこそ本当の真理に触れさせてくれるものがあります。知ではなく、超感覚で生きたエジプト人のすごさが分ります。身ぶるいする思いです。

彼は眼で見られるはずがない
礼拝すら彼になされるはずがない

ますます、すごくなってきました。礼拝すら彼になされるはずがない――すごいですね。息詰まる思いがします。

ましてや 供物が彼に供えられるはずがない

これは他の国にある「おお偉大な神よ 我らに恵みをたれ給え」
というのと大分程度がちがいますね。

彼はいかなる聖域においても見る事は出来ない

これもすごい事です。ここでは聖域を超えています。人間の考えを超えています。
知性の範囲を越え、超空想力の世界を旅しています。

彼はどこにいるのか 知ることすら許されていない
彼は文字のほどこされたいかなる神殿においても 見られるべきものではない
どのような居住地も 彼を留めておくことはできない
彼の心の導き手として行為するものは誰も存在しない

これはインドでいう宇宙の根源(ブラフマン)の存在への哲学思想と類似しています。神という人格を持たない非人格神、このナイルはナイル神というより、神という名称のある物を超えています。「ナイル」そのものが、神話の実在であったのです。――この表現出来ない宇宙の心、宇宙の相、宇宙の現在の生命を、詩の力と言語をもって十二分に説明することの出来たその言語のすばらしさ、言語の持つ生命力、そしてそれに乗っかって飛翔する豊かな空想力と詩そのものを味わってください。
エジプト人にとってはナイルは、宇宙そのもの、宇宙の根源そのもの、エジプト人そのものであったのです。ところが残念なことに、そのナイル神の彫刻像が出来たのはエジプトにおける王朝の衰亡期――最後の王朝の時でした。
エジプト人の神話信仰には、このナイルへの信仰以外に太陽神ラーへの熱烈な信仰があります。それもナイルと同じく死と神話の力の坩堝の中に投げ込まれる思いのするものです。この神話を語る前に一つエジプト研究で学者たちを困らせているネティールという言語があります。そこでこのネティールの讃歌の中から下記の者を選び、説明することにしました。

| エッセイ | 21:53 | TOP↑

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白紙の舞の根源的リズム

白紙の舞の構図。この白紙の舞の構図は、私の40年以上の求道の結果の最終のものだった。それが宇宙の根源的リズムであった。

ここには軽やかな角度、構図、そういった宇宙の根源の持つ性格がそこに凝縮されている。それ故、この構図を思い浮かべると、歌えて来るし、身も心も軽くなって来る。

すると、人々に会うたびにハーイと言えるようになって来た。ちょうど「私も人間、あなたも人間」と心の中でつぶやいて、躍動の中で出会う人ごとに挨拶した時のように。

再び全ての人々にハーイと言えるような一元的人間になっているのを知って驚いたのだ。

その時、白紙が天上から舞い降りて来る相をイメージした。その幾何学的リズムの世界に入った時、地上から離れている自分、重苦しい歴史的世界から抜け出せている自分にウキウキして来た。

手を打ちながら、歌って歩く。人が、何と思おうと気にもとめないぐらい調子よく歌って歩けるのであった。

白紙の舞の構図は、純粋極まりない統一された構図の世界である。人はそこで「原始の意志」にぶつかる。

そして人はその軽やかで自由にして、輝かしい音楽性の中で舞い、歌い、至福に満たされるのである。純粋なるその構図、その高貴と永遠の浄福を備えた崇高さ、造形芸術の完璧な表現、それにただただ恍惚とならざるを得ないのである。

自然の一切なる根底にあるその純粋な形相に触れて、そこに根源的形相「神話」を見つけるのである。それが「白紙の舞」そのものである。

「神話」とは何か。それは神話的物語の中にある説教的なものでなく、幾何学的な世界であり、絶対なるものと人間の間に位置するものである。そしてそれは非合理なるものでもある。

そのような意味で、哲学においても、宗教、芸術、科学においても、いくら知識の道をわけ入っても絶対への道は幾何学的構図の道であるという事に気づかない限り、人は道を誤り、さ迷うばかりである。

その正しい道を行くのに一番近いのは何か。音楽である。音楽にはリズムがある。リズムとは幾何学的構図である。

宇宙の本性なる神話の持つリズム、幾何学的構図を探すのだ。その構図、角度、線と合致したリズムがある。それが、私が歌いながら歩いた歌の中にあった。

歌を歌うこと、その根源的構造の持つリズムの中で歌うのである。歌って、その構図の中へ、その角度の中へ溶け込むのである。その中で、宇宙のあらゆる存在がリズムを刻み、歌っているのが分って来る。

鳥は歌い、岩も大地も呼吸している。月も太陽も呼吸している。出力と入力という宇宙の慣性力を音楽的な呼吸をしている。宇宙の一切が、慣性力というエネルギーで、空間の中を出たり入ったりしているのである。

開きと統一の構図の大洋なる空間で、全てが生き存在している。

天上から白い一枚の紙が舞い降りて来た。軽い羽毛が風に吹かれ飛んで来た。柔らかい幾何学的角度をもってやって来た。それはリズムだ、角度だ、線だ、やわらかさだ。そこに宇宙の原始の意志を感じないだろうか。

神話とはそれだ。そこに自己がある。

出力があり、入力があり、透明な可能性の中に、それらは泳ぎ、呼吸している。リズムがそこにある。そのリズムの歌を歌え。宇宙のリズムに沿った歌を。そして、舞え。

それが出来れば、誰とでもハーイと笑顔で手を取りあえる。人種、宗教、国家間の違いを超えて、本当の社会はここから始まる。

| エッセイ | 21:16 | TOP↑

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