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2019年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年10月

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線は真理の別名である

エジプトの神ラーは、天則に従って、天の河を船で渡っていきました。その天則の河の海路、そこに何があったのでしょう。それは知の路ではないはずです。そこにあったものは何でしょうか。船は一直線に河を渡っていきます。それは幾何の河です。一直線上を船は渡って行くのです。河は線であり、方向即ち正しい真実なる道です。線は幾何を指し、真なるもの、正しきものをさします。その幾何の上を秩序は流れているのです。船は太陽ラーを乗せて、その線上をゆきます。太陽とは生命であり、その秩序の上をいくものです。
先にのべた太陽の娘マァート女神は太陽の目ともいわれ、太陽の進む船に立って進路を見定め、行く手に現われる悪者をやっつけながら、直線なる道、即ち真理と生命と秩序の線上を船を安全に運ぶ者でした。そのマァート女神とは一体何を意味しているのでしょうか。
マートとはエジプトでは『まっすぐであるところのもの』『正義』『真実なるもの』『真理』『実在の真性』『清廉な』『公明正大で明らかなるもの』『不動なるもの』『変化することのない不変なるもの』と言う意味を持っています。以上をまとめて考えますと「直線」ということになります。線ということは真理の別名であります。この秩序の別名であります。
この太陽神なる火(生命)の運行の規定者の能力を持つ太陽の目――マァート女神は天界の貴婦人、地上の女王、そして黄泉の国の女王であるといわれ、彼女は死の審判の広間において正義の化身として、自ら天秤の皿の上に羽毛として現われます。そのマァート女神は女神群の中でも最高の女神であり、審判の広間の立て役者(貴婦人)であり、その広間はマァート女神を象徴する羽毛で飾られています。
ではそのマアート女神の羽毛によって、死者は何を秤られるのでしょうか。正義即ち生命が真に「まっすぐ」であったかどうか。その者は直線の中に生きていたかどうかをはかられます。もしその者が直線の中で生きていたなら復活が許されます。
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永遠の生命を復活させるには

無知の顔、無知の人相、そんなものはどうしたら造れて来るのでしょうか……。それをエジプト文明の中からさがし出していきましょう。それには特別な幾何学の知識が必要です。ただアホのような無知ではそうはなれません。いえば知恵の知恵の大知恵が必要なのです。しかしその大知恵は無知という深い井戸から湧いてくるものなのです。
そこでそれを解かるためには、無知であるかどうかの支点を通らなければなりません。だからウソでもホラでも素直に受け入れられる純朴な人間になっているかどうかです。そこでそうなる為に自分の知識を頭からポケットに移し替えて、頭をカラッポにしてください。神話とはそんなものです。非合理の遊びと空想の世界なのです。
しかもその中が、生命を誕生させる泥海なのです。その泥とたわむれて遊べるか、遊べないかが問題となります。子供達はドロンコ遊びをしましたね。大人はそれができなくなった。子供はドロンコになって自由な天国の大空と土中の深淵の中にもぐり入っております。だから大人………とくに真面目な人間は面白くなく限界があるのです。宇宙存在にかなっていないのです。こういう人は最後の審判ではねられてしまいます。その腐った魂を食う怪物が死の審判で待ち受けています。
永遠の生命の復活を願う者は、このエジプトの神話をよく理解して死の審判を無事通過してほしいものです。 死の審判では広場に大きな秤が置かれています。その一方の皿には人間の心臓を入れた壷がのせられています。他の一つの皿には羽毛が一枚置かれています。それが釣り合えばいいのですが、心臓(ハート)の方が重ければ怪物の餌食になるでしょう。この審判は、一体何を意味しているのでしょうか。羽毛より重かったらダメなんです。
私が以前に見た五つの啓示の中にも羽毛がありましたね。それがヒントになります。羽毛は軽いです。風に吹かれると何の抵抗もなく、いずこへも飛ばされ、舞い、揺れ、踊り、幾何学的線を描いていきます。
五つの啓示の内もう一つは、天から舞い降りて来る白紙の舞です。これも幾何学的な線上を舞い降りる音楽師のような軽やかさを持っています。音楽とは幾何学であり数学なのです。また、言語なのです。夢を歌い上げる波の舞そのものです。
知的な人間はそれと反対に合理でかたまっていきます。答えが出ないと満足できないのです。自由さがなくオチャメがないのです。そんな心臓を持つ人は羽毛より重い魂となり、怪物の方に投げやられてしまいます。

| エッセイ | 16:43 | TOP↑

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ホラと神話

私は青年の頃面白い人に出会いました。その人はホラばかり吹く人でした。そのホラはとても面白いのです 本人がホラだと気付かずにホラを吹くのでよけい面白いのです。ホラそのものがホラそのものになってしまうのです。私たちはそのホラ吹き老人が姿を現すのを、いつも心待ちにしていました。そのホラ吹き老人が来ると、その場は天国になるのでした。ホラも一つの空想力から出るものでしょう。
コロンブスも一人のホラ吹き男でしたが、やがて大陸を見つけました。又ヨーロッパから中国に旅したマルコポーロは言いました。「中国に黒い川が流れている。それに火をつければ燃える」「東の果ての大きい島のジャポス国の家々は金でできている」と言いました。それで彼は大ホラ吹きといわれましたが、人々に大きな夢を与えました。
我々はエジプト文明について、いつまでも心がひかれますが、そこに人間の魂を魅惑するやさしさと音楽性・芸術性・神話性があるからなのです。神話は人間の命であり、命より大切なものなのです。知識の多いことばかりが賢いのではありません。いつも温かく、やわらかく、羽毛のようなピュアーで透明度のあるものでなければなりません。芸術作品というのは、そんなものです。
うそでもよい、ホラでもよい、そこに夢さえあれば、それは神話になります。うそもホラも非合理なものです。ホラを悪いものだと思うこと自体が知恵の塊です。世によく言うでしょう。面白味のある人間でないと人間でないと。
人々に夢と希望を与えるような言葉、態度。人相をしていないといけません。雲の上を歩いているような人………。もしそのような人がいたら、どんなに良いかしれません。人間離れした人というのは、このように雲の上を歩いているように見える人です。透き通った顔、悠々と歩く歩き方、この世に何の関心もこだわりも持っていない様な顔、いつもニコニコ、心の底から豊かなよろこびが湧いているような顔、そういう人相、姿、形が必要です。

| エッセイ | 13:28 | TOP↑

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神話的な先生の思い出

私の中学一年生頃に雑賀先生といって図画の先生がいました。その先生は他の教科を教える生徒のように緊張を与えるような先生でなく、全然タイプの違う先生でした。やさしく、やわらかく、まるで小学校の低学年を教える先生のようなタイプの人でした。
或る日のこと、私たちがその翌日に遠足に行くことになっていました。その先生が、「お前たちは明日遠足に行くんだが、その行く所の話しをしてあげよう」というのです。
「その目的地は高野山の山すそにある葛城町という所です。そこは柿の産地で特に干し柿の産地で有名な所です。そこに行くと、家の軒に渋柿の皮をむいた干し柿がいっぱい吊るしてあるのです。そしてその辺おばちゃんたちが、渋柿の皮をしきりにむいているのです。ところがその皮をむくのがものすごく速いのです。一つ上に放り上げ、それが手に落ちて来る間に、もう一つの手に持っている柿の皮をむき上げてしまうのです。柿をまるでお手玉のようにして、皮をむくのです。その速いことといったら、目にもとまらぬ速さです。」
これを中学1年生の私たちは、その先生の話に夢中になって茫然と聞き入っていました。一瞬に神話の世界に巻き込まれてしまいました。そして翌日遠足でその葛城町に行きましたが、どこに家の軒にも柿一つぶら下がって居ませんでした。〈あれ、あの雑賀先生の話はどうなったのか?〉と思っただけで、先生がうそを言ったとは、誰も思っていませんでした。
雑賀先生のホラは神話の中に我々を誘い込み、夢を見させてくれたものでした。大人になっても私は、その雑賀先生が話してくれた速く柿の皮をむくという話を忘れませんし、なつかしく、その話と先生を慕い、大切にその時のことを、心の中に宝のようにしまっています。
その先生は私が旧制中学五年生を卒業した後、間もなくどこかの中学校の校長に選ばれたようです。そしてその先生が亡くなられた時には、多くの人々が集まったようです。ところが真面目でこわい先生が亡くなった時には、生徒があまり集まらなかったという事です。生徒にとってはやはり、知力を越えて、やさしく神話的な面白い先生が慕われるようです。

| エッセイ | 22:14 | TOP↑

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無知の偉大さに気付いた人達

ヘルダーリンその他の詩人や、シェリング、ニーチェの哲人たちは詩の心を持って永遠の魂の故郷を探し求め、それへ接近していきました。しかし非合理というオチャメとか、無知の深淵という意識構造を組み立てることは出来ませんでした。無知になろうとする大それた考えが彼等の中から湧いてこなかったのですが、詩と神話は真理の近くにあるという事は知ってはいました。
ロシアのトルストイとドストエフスキーは、無知という宝のあることに気づきましたが、それ以上、アホになる方法がみつかりませんでした。老子は「聖なるもの、賢なるものにあこがれてはならない。自然の奥なる無知の深淵に帰れ」と言いました。このように無知の偉大さを知っていた人達もいたのです。

| エッセイ | 11:34 | TOP↑

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エジプトの神話の船

では非合理性、神話性、これを身に付けてエジプトの謎の中へ飛び込んでいきましょう。知性を捨てて、無知の船にのる無知の旅人になりましょう。エジプトの太陽神ラーは天の河を船にのって運航するという神話の中に見出されます。ラーは宇宙の秩序を司り、マァートはその娘であり、ラーから直接放射されたものでありました。そしてそのマァート女神は天上の河を渡る太陽の乗る船を守る役目でした。
エジプト人は二つの河を理解していました。昼と夜の河です。そこを太陽が進むのです。日出ずる国と日沈む国、即ち生の国と死者の国の物語です。彼等は永遠の生命は、神話という非合理の中から得れると考えていました。神話は彼らの生命の母であり、生命の科学の母でありました。そして太陽神ラーはまた生命の世界の審判者であり、月の神オシリスと共に、死者の裁判を審査するものでした。
マァート女神は船の先頭に立ち、天の河を渡る船を見守りながら船を進めます。船の行く手に現われる悪魔をやっつけていきます。太陽はその船に乗り、昼の河の天の河を渡り、地の河に隠れていきます。その太古につくられた神話の船が現に見つかっています。それは当時につくられた船で、それが発掘されたのです。もう一つ西にあるはずの船も、科学の力によって、そのある位置が見つかっています。

| エッセイ | 10:52 | TOP↑

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エジプト文明の翼の法

エジプトの文明には、このように分らぬ雄大なものが、ここかしこにあります。鷹の姿であったり、猫であったり、蛇であったり、羽毛であったり、猿であったり、羊の頭を持つ男性であったり、強力な夢と空想力が自由自在に人間の中に組み入れられています。これがエジプト研究者たちを迷路の中に迷い込ませるものです。中でも注目すべきは、羽毛であり、翼の羽ばたきであります。その翼の羽ばたきによって生命を甦らせるという、そういう神秘な物語が含まれています。しかしこの謎の解明に関しては最後で説明することにして、ここでは太陽神ラーやその娘マートについて話をおしすすめ、死の審判とかカバ信仰の偉大な謎について述べていきます。
そこでエジプトを知るうえで、基本的な心構えを身につけておかねばなりません。それは前にも述べたようにエジプト人にとっては王朝がどうであったとか、栄える、亡びるといった政治的な変遷を重要視するような歴史観などもっていなかったという認識、そんな興亡は永遠の流れの中の一瞬の出来事であり、気にも留めていなかった。彼等にとって重要な事は、つねに空想力を翼とする永遠の生命の生成という事でした。
それに比べて現代人は、栄えることすら夢を見ることも出来ない社会情勢の中に住んでいます。なぜそんな希望のない社会をつくってしまったのでしょうか。それは太古を忘れ、知的に眼の前の欲ばかりに走ったからではないでしょうか。夢をもっても、間違った夢をもったからではないでしょうか。無知をバカ者と見下げ、知性の世界にばかり走ったからではないでしょうか。感覚を見下ろし、知性を見上げたからではないでしょうか。頭は悪くても、体全体で感じとるとか、肌で感じとるといった神経が低下したからでしょう。

| エッセイ | 20:17 | TOP↑

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ネティール讃歌

ネティール讃歌
(1) 少年netri 永遠の継承者
    自らを生みだし 自ら生を与えるものよ!
(2) 我が心に偽ることなく おお 汝神以上のnetriを崇拝する
    我はNeterとなれり
(5) 我は鷹の姿netriにおいて飛翔するなり
(6) 我はピュアーとなり ネティール(Neter)となり
    精霊となり 我は雄々しく魂そのものとなれり

この詩節から想像できることは、ナイルをエジプト人は宇宙の母として、そこに感じ、更にそれを感じている子たる人間自らを、その化身ネティールと見ているかのようです。そこにインド人のとらえたブラフマンとアートマンの関係を見ることが出来ます。インドではブラフマンを大我と見て、人間を少我と見ています。
これは人間という小宇宙の中に大宇宙の本性を宿しているという考えです。エジプト人の考えた少年netriはインドで言うところのアートマンである……と見てとれます。
永遠の継承者アートマン(小我)は、NETER(人間)となったということ。そしてその人間(NETER)の中に宿るアートマン(大我の精霊)は、鷹の姿となって宇宙中を駆け回る。おお雄々しい魂netri(アートマン)よ、という詩だと思います。
この底深い神秘の深淵をのぞき見せられる時、宇宙と人間の関係の妙なるドラマを見事に音楽化した、この詩の力を見せつけられます。太古の人々は、このような限界をもたないイマジネーションの持主でした。現代人の心はせいぜい、この太陽系をぬけ出す夢ぐらいしか持っていません。
遠くにある星雲群を望遠鏡で覗き見るでしょう。しかしその大宇宙を我が飛翔の庭とするその大胆な空想力は鷹の姿netri(アートマン)となり、精霊となって宇宙の外まで飛翔することが出来るでしょうか。その光速の翼は、線と角度の生命元素の中心を貫いて飛ぶでしょう。エジプト人は神学的詩人でした。そしてそれと同時に芸術作品そのものでした。角度の中を光速以上のスピードで飛んだのかも知れません。幾何の線上を横切って。

| エッセイ | 22:38 | TOP↑

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ナイル讃歌

「ナイル讃歌」

彼は白い王冠をいただく石像として
彫刻されるはずがない

この一節から始っています。これだけでも大したものです。どこの文明でもすぐ神を彫刻してしまいます。しかしエジプトでは最高なるナイルの神に対して彫刻など夢にも思えなかったのです。ここにこそ本当の真理に触れさせてくれるものがあります。知ではなく、超感覚で生きたエジプト人のすごさが分ります。身ぶるいする思いです。

彼は眼で見られるはずがない
礼拝すら彼になされるはずがない

ますます、すごくなってきました。礼拝すら彼になされるはずがない――すごいですね。息詰まる思いがします。

ましてや 供物が彼に供えられるはずがない

これは他の国にある「おお偉大な神よ 我らに恵みをたれ給え」
というのと大分程度がちがいますね。

彼はいかなる聖域においても見る事は出来ない

これもすごい事です。ここでは聖域を超えています。人間の考えを超えています。
知性の範囲を越え、超空想力の世界を旅しています。

彼はどこにいるのか 知ることすら許されていない
彼は文字のほどこされたいかなる神殿においても 見られるべきものではない
どのような居住地も 彼を留めておくことはできない
彼の心の導き手として行為するものは誰も存在しない

これはインドでいう宇宙の根源(ブラフマン)の存在への哲学思想と類似しています。神という人格を持たない非人格神、このナイルはナイル神というより、神という名称のある物を超えています。「ナイル」そのものが、神話の実在であったのです。――この表現出来ない宇宙の心、宇宙の相、宇宙の現在の生命を、詩の力と言語をもって十二分に説明することの出来たその言語のすばらしさ、言語の持つ生命力、そしてそれに乗っかって飛翔する豊かな空想力と詩そのものを味わってください。
エジプト人にとってはナイルは、宇宙そのもの、宇宙の根源そのもの、エジプト人そのものであったのです。ところが残念なことに、そのナイル神の彫刻像が出来たのはエジプトにおける王朝の衰亡期――最後の王朝の時でした。
エジプト人の神話信仰には、このナイルへの信仰以外に太陽神ラーへの熱烈な信仰があります。それもナイルと同じく死と神話の力の坩堝の中に投げ込まれる思いのするものです。この神話を語る前に一つエジプト研究で学者たちを困らせているネティールという言語があります。そこでこのネティールの讃歌の中から下記の者を選び、説明することにしました。

| エッセイ | 21:53 | TOP↑

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白紙の舞の根源的リズム

白紙の舞の構図。この白紙の舞の構図は、私の40年以上の求道の結果の最終のものだった。それが宇宙の根源的リズムであった。

ここには軽やかな角度、構図、そういった宇宙の根源の持つ性格がそこに凝縮されている。それ故、この構図を思い浮かべると、歌えて来るし、身も心も軽くなって来る。

すると、人々に会うたびにハーイと言えるようになって来た。ちょうど「私も人間、あなたも人間」と心の中でつぶやいて、躍動の中で出会う人ごとに挨拶した時のように。

再び全ての人々にハーイと言えるような一元的人間になっているのを知って驚いたのだ。

その時、白紙が天上から舞い降りて来る相をイメージした。その幾何学的リズムの世界に入った時、地上から離れている自分、重苦しい歴史的世界から抜け出せている自分にウキウキして来た。

手を打ちながら、歌って歩く。人が、何と思おうと気にもとめないぐらい調子よく歌って歩けるのであった。

白紙の舞の構図は、純粋極まりない統一された構図の世界である。人はそこで「原始の意志」にぶつかる。

そして人はその軽やかで自由にして、輝かしい音楽性の中で舞い、歌い、至福に満たされるのである。純粋なるその構図、その高貴と永遠の浄福を備えた崇高さ、造形芸術の完璧な表現、それにただただ恍惚とならざるを得ないのである。

自然の一切なる根底にあるその純粋な形相に触れて、そこに根源的形相「神話」を見つけるのである。それが「白紙の舞」そのものである。

「神話」とは何か。それは神話的物語の中にある説教的なものでなく、幾何学的な世界であり、絶対なるものと人間の間に位置するものである。そしてそれは非合理なるものでもある。

そのような意味で、哲学においても、宗教、芸術、科学においても、いくら知識の道をわけ入っても絶対への道は幾何学的構図の道であるという事に気づかない限り、人は道を誤り、さ迷うばかりである。

その正しい道を行くのに一番近いのは何か。音楽である。音楽にはリズムがある。リズムとは幾何学的構図である。

宇宙の本性なる神話の持つリズム、幾何学的構図を探すのだ。その構図、角度、線と合致したリズムがある。それが、私が歌いながら歩いた歌の中にあった。

歌を歌うこと、その根源的構造の持つリズムの中で歌うのである。歌って、その構図の中へ、その角度の中へ溶け込むのである。その中で、宇宙のあらゆる存在がリズムを刻み、歌っているのが分って来る。

鳥は歌い、岩も大地も呼吸している。月も太陽も呼吸している。出力と入力という宇宙の慣性力を音楽的な呼吸をしている。宇宙の一切が、慣性力というエネルギーで、空間の中を出たり入ったりしているのである。

開きと統一の構図の大洋なる空間で、全てが生き存在している。

天上から白い一枚の紙が舞い降りて来た。軽い羽毛が風に吹かれ飛んで来た。柔らかい幾何学的角度をもってやって来た。それはリズムだ、角度だ、線だ、やわらかさだ。そこに宇宙の原始の意志を感じないだろうか。

神話とはそれだ。そこに自己がある。

出力があり、入力があり、透明な可能性の中に、それらは泳ぎ、呼吸している。リズムがそこにある。そのリズムの歌を歌え。宇宙のリズムに沿った歌を。そして、舞え。

それが出来れば、誰とでもハーイと笑顔で手を取りあえる。人種、宗教、国家間の違いを超えて、本当の社会はここから始まる。

| エッセイ | 21:16 | TOP↑

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