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2019年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年10月

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夫を甦らせたイシス女神の神話

エジプト文明の中で最もむつかしく、しかも最も興味ある謎は、翼にあります。それはイシス女神が翼を羽ばたかせることによって、夫オシリス神の生命を甦らせたという神話物語にあります。
イシス女神は、嘆き悲しみながら、殺された夫でるオシリス王の死体を探しまわります。そして方々に散らばって居た死体を見つけだし、それらを集めましたが、男根だけはどこにも見つかりませんでした。しかしそれらを台の上にのせて、元の人体の形にまとめあげました。
イシス女神は翼ある女神で、魔法の力をもって奇跡を起こさせる事の出来る女神でした。そして他にも様々な力あるマントラ(秘密の唱えごと)を持っていて、その特別の発声法を知っていました。イシス女神は、夫オシリス神のその遺体の上で翼を羽ばたかせて、特別のマントラを、特別の発声法で唱えました。すると不思議なことに、その死者の遺体が蘇って来たというのです。そしてその夫の魂を我が身に宿して、息子ホルスを産みます.――これがキリストの母、マリアの処女懐妊のモデルになったといわれています。
さてどうして、翼を羽ばたかせる事によって、生命が蘇ったというような神話が生まれたのか……ここが最もむつかしい所です。その謎の鍵は翼の上下運動の中に隠されています。それは、その上下運動の角度と、瞬間という時間制の中に秘められているようです。――その上下運動によっておきる瞬間・瞬間の一本の線が、角度を創ります。その角度は開きの角度を意味し、物を創造する場となります。その場において、生命は瞬間・瞬間につくられ、保持されていきます。
永遠の生命を夢みた太古のエジプト人は、その瞬間と線と角度が織りなす、連続する生命の詩的幾何学的閃きの中に、生命生成の源泉を夢みていたのでしょう。そして太古の人々は、この宇宙を生成している瞬間の連続と開きの角度の創造力をマントラの言語の中に秘めて、それを唱えたのでしょう。
瞬間が瞬間になる時、鳥が歌い始める。鳥のもつ元なるもの、その線上を閃きが走る。生命は瞬刻、瞬刻に創られ、軽やかに舞い踊る。天から舞い降りる白紙の様に、零と線と平面と立体を創りながら、それは舞うのである。
エジプトにおいて生命を甦らせた神話の神イシス女神は、生命を生み出す元なるものとして太陽の娘マァート女神と出産の神であるカバ女神と同一視され、その信仰はローマにまで伝わって行きました。そしてそのイシス女神の信仰は更に、処女懐妊という神聖な神話と,慈母及び良妻として、また奇跡を起こす魔法の使い手としてローマ人の心をとらえ、熱烈な信仰が起き、この信仰は単なる宗教的信仰にとどまることなく、その奥にある形而上学を研究する学者たちの為のパストフォリ(pastophori)とよばれる大学まで創設されました。これはBC80年頃の事です。
それが更にAD70年頃より増大し、イシスの祭典日は公共のカレンダーにまで記載されるほどの重要行事になり、キリスト教の一般的な導入に至るまで存続し、その信仰の勢いはギリシャにまで広がっていきました。
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太古の人々の知恵

神話性と詩の心でないと入って行けません。ヴィーコはそれについて次のように述べています。「プラトンは、知恵とは人間を完成するものと定義している。しかし太古の人々の知恵というのは、詩的な知恵であって、今日の学者たちのような理論的・抽象的な形而上学で無かったが故に、太古を解明しようとする者は感覚的でなければならない。しかもそれが空想的、想像的な形而上学でなければならない。彼らには我々の考えるような理性などほとんど通用しない。彼らの感覚はすばらしく、その空想力は自由奔放である。」
この自由奔放な空想力、これこそ神話の領域に入る通行手形のようなものです。そしてそれは無知の深淵から清く、静かに踊り出るものなのです。詩人であったヴィーコは象形文字も解読されていない時期にもかかわらず、そのエジプトの太古人々の無知の深淵にまでもぐる事が出来た天才ともいえます。そして空想力と感覚的悟性の必要性を未来の人々の為に示してくれたのです。
ここで問題となるのは「感覚」という言語です。現代人は感覚的であるとかいって、感覚を知性より下位に見る傾向があります。(あの人は感覚的な人だ)など、知的でない人だと、人を見下げたような言葉をよく聞きます。ところが知性より感覚の方が上位なのです。現代人は、その超感覚性――超感覚的悟性を失っているのです。
一言で言うなら太古の人は、肌で宇宙を感じていたという事です。空想力はそこから出てくるのです。ヴィーコは更に述べています。彼等は事物を知的に追及するのでなく、空想力の中で生き呼吸していた。現代人はそれを無知という言語で彼等を見ようと努めるが、その太古の人々をつかまえて無知な人々と簡単に言えるだろうか。――無知と言われてもよい、無知こそ驚きの母なのだから。この宇宙で至高神を志向し、神について語ることである。」
言い変えると、太古の人々はすぐれた感覚を持って、動物や物や樹々や空気や太陽や星々と語りあい、その中で遊戯していた人々であり、現代人は知性という限られた……ともすれば凍ってしまう道具を持て、歴史の中をうろつき、おびえ、おびえさせているのです。
無知は驚きの母である……何とすばらしい言葉ではありませんか。ちょうど地上の草樹を焼き尽くそうとしている知性の火に、水をかけた思いがします。我々の文明はやたらと燃えている火の文明です。一寸先も見えないでは在りませんか。その火がますます拡がろうとしている火遊びのような歴史をくりひろげています。それで「頭を冷やせ」と。……アホ、バカと言われてもいい。ホラ吹きと言われてもいい、その人は幸せをそこにつかむでしょう。

| エッセイ | 13:25 | TOP↑

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線は真理の別名である

エジプトの神ラーは、天則に従って、天の河を船で渡っていきました。その天則の河の海路、そこに何があったのでしょう。それは知の路ではないはずです。そこにあったものは何でしょうか。船は一直線に河を渡っていきます。それは幾何の河です。一直線上を船は渡って行くのです。河は線であり、方向即ち正しい真実なる道です。線は幾何を指し、真なるもの、正しきものをさします。その幾何の上を秩序は流れているのです。船は太陽ラーを乗せて、その線上をゆきます。太陽とは生命であり、その秩序の上をいくものです。
先にのべた太陽の娘マァート女神は太陽の目ともいわれ、太陽の進む船に立って進路を見定め、行く手に現われる悪者をやっつけながら、直線なる道、即ち真理と生命と秩序の線上を船を安全に運ぶ者でした。そのマァート女神とは一体何を意味しているのでしょうか。
マートとはエジプトでは『まっすぐであるところのもの』『正義』『真実なるもの』『真理』『実在の真性』『清廉な』『公明正大で明らかなるもの』『不動なるもの』『変化することのない不変なるもの』と言う意味を持っています。以上をまとめて考えますと「直線」ということになります。線ということは真理の別名であります。この秩序の別名であります。
この太陽神なる火(生命)の運行の規定者の能力を持つ太陽の目――マァート女神は天界の貴婦人、地上の女王、そして黄泉の国の女王であるといわれ、彼女は死の審判の広間において正義の化身として、自ら天秤の皿の上に羽毛として現われます。そのマァート女神は女神群の中でも最高の女神であり、審判の広間の立て役者(貴婦人)であり、その広間はマァート女神を象徴する羽毛で飾られています。
ではそのマァート女神の羽毛によって、死者は何を秤られるのでしょうか。正義即ち生命が真に「まっすぐ」であったかどうか。その者は直線の中に生きていたかどうかをはかられます。もしその者が直線の中で生きていたなら復活が許されます。

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永遠の生命を復活させるには

無知の顔、無知の人相、そんなものはどうしたら造れて来るのでしょうか……。それをエジプト文明の中からさがし出していきましょう。それには特別な幾何学の知識が必要です。ただアホのような無知ではそうはなれません。いえば知恵の知恵の大知恵が必要なのです。しかしその大知恵は無知という深い井戸から湧いてくるものなのです。
そこでそれを解かるためには、無知であるかどうかの支点を通らなければなりません。だからウソでもホラでも素直に受け入れられる純朴な人間になっているかどうかです。そこでそうなる為に自分の知識を頭からポケットに移し替えて、頭をカラッポにしてください。神話とはそんなものです。非合理の遊びと空想の世界なのです。
しかもその中が、生命を誕生させる泥海なのです。その泥とたわむれて遊べるか、遊べないかが問題となります。子供達はドロンコ遊びをしましたね。大人はそれができなくなった。子供はドロンコになって自由な天国の大空と土中の深淵の中にもぐり入っております。だから大人………とくに真面目な人間は面白くなく限界があるのです。宇宙存在にかなっていないのです。こういう人は最後の審判ではねられてしまいます。その腐った魂を食う怪物が死の審判で待ち受けています。
永遠の生命の復活を願う者は、このエジプトの神話をよく理解して死の審判を無事通過してほしいものです。 死の審判では広場に大きな秤が置かれています。その一方の皿には人間の心臓を入れた壷がのせられています。他の一つの皿には羽毛が一枚置かれています。それが釣り合えばいいのですが、心臓(ハート)の方が重ければ怪物の餌食になるでしょう。この審判は、一体何を意味しているのでしょうか。羽毛より重かったらダメなんです。
私が以前に見た五つの啓示の中にも羽毛がありましたね。それがヒントになります。羽毛は軽いです。風に吹かれると何の抵抗もなく、いずこへも飛ばされ、舞い、揺れ、踊り、幾何学的線を描いていきます。
五つの啓示の内もう一つは、天から舞い降りて来る白紙の舞です。これも幾何学的な線上を舞い降りる音楽師のような軽やかさを持っています。音楽とは幾何学であり数学なのです。また、言語なのです。夢を歌い上げる波の舞そのものです。
知的な人間はそれと反対に合理でかたまっていきます。答えが出ないと満足できないのです。自由さがなくオチャメがないのです。そんな心臓を持つ人は羽毛より重い魂となり、怪物の方に投げやられてしまいます。

| エッセイ | 16:43 | TOP↑

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ホラと神話

私は青年の頃面白い人に出会いました。その人はホラばかり吹く人でした。そのホラはとても面白いのです 本人がホラだと気付かずにホラを吹くのでよけい面白いのです。ホラそのものがホラそのものになってしまうのです。私たちはそのホラ吹き老人が姿を現すのを、いつも心待ちにしていました。そのホラ吹き老人が来ると、その場は天国になるのでした。ホラも一つの空想力から出るものでしょう。
コロンブスも一人のホラ吹き男でしたが、やがて大陸を見つけました。又ヨーロッパから中国に旅したマルコポーロは言いました。「中国に黒い川が流れている。それに火をつければ燃える」「東の果ての大きい島のジャポス国の家々は金でできている」と言いました。それで彼は大ホラ吹きといわれましたが、人々に大きな夢を与えました。
我々はエジプト文明について、いつまでも心がひかれますが、そこに人間の魂を魅惑するやさしさと音楽性・芸術性・神話性があるからなのです。神話は人間の命であり、命より大切なものなのです。知識の多いことばかりが賢いのではありません。いつも温かく、やわらかく、羽毛のようなピュアーで透明度のあるものでなければなりません。芸術作品というのは、そんなものです。
うそでもよい、ホラでもよい、そこに夢さえあれば、それは神話になります。うそもホラも非合理なものです。ホラを悪いものだと思うこと自体が知恵の塊です。世によく言うでしょう。面白味のある人間でないと人間でないと。
人々に夢と希望を与えるような言葉、態度。人相をしていないといけません。雲の上を歩いているような人………。もしそのような人がいたら、どんなに良いかしれません。人間離れした人というのは、このように雲の上を歩いているように見える人です。透き通った顔、悠々と歩く歩き方、この世に何の関心もこだわりも持っていない様な顔、いつもニコニコ、心の底から豊かなよろこびが湧いているような顔、そういう人相、姿、形が必要です。

| エッセイ | 13:28 | TOP↑

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神話的な先生の思い出

私の中学一年生頃に雑賀先生といって図画の先生がいました。その先生は他の教科を教える生徒のように緊張を与えるような先生でなく、全然タイプの違う先生でした。やさしく、やわらかく、まるで小学校の低学年を教える先生のようなタイプの人でした。
或る日のこと、私たちがその翌日に遠足に行くことになっていました。その先生が、「お前たちは明日遠足に行くんだが、その行く所の話しをしてあげよう」というのです。
「その目的地は高野山の山すそにある葛城町という所です。そこは柿の産地で特に干し柿の産地で有名な所です。そこに行くと、家の軒に渋柿の皮をむいた干し柿がいっぱい吊るしてあるのです。そしてその辺おばちゃんたちが、渋柿の皮をしきりにむいているのです。ところがその皮をむくのがものすごく速いのです。一つ上に放り上げ、それが手に落ちて来る間に、もう一つの手に持っている柿の皮をむき上げてしまうのです。柿をまるでお手玉のようにして、皮をむくのです。その速いことといったら、目にもとまらぬ速さです。」
これを中学1年生の私たちは、その先生の話に夢中になって茫然と聞き入っていました。一瞬に神話の世界に巻き込まれてしまいました。そして翌日遠足でその葛城町に行きましたが、どこに家の軒にも柿一つぶら下がって居ませんでした。〈あれ、あの雑賀先生の話はどうなったのか?〉と思っただけで、先生がうそを言ったとは、誰も思っていませんでした。
雑賀先生のホラは神話の中に我々を誘い込み、夢を見させてくれたものでした。大人になっても私は、その雑賀先生が話してくれた速く柿の皮をむくという話を忘れませんし、なつかしく、その話と先生を慕い、大切にその時のことを、心の中に宝のようにしまっています。
その先生は私が旧制中学五年生を卒業した後、間もなくどこかの中学校の校長に選ばれたようです。そしてその先生が亡くなられた時には、多くの人々が集まったようです。ところが真面目でこわい先生が亡くなった時には、生徒があまり集まらなかったという事です。生徒にとってはやはり、知力を越えて、やさしく神話的な面白い先生が慕われるようです。

| エッセイ | 22:14 | TOP↑

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無知の偉大さに気付いた人達

ヘルダーリンその他の詩人や、シェリング、ニーチェの哲人たちは詩の心を持って永遠の魂の故郷を探し求め、それへ接近していきました。しかし非合理というオチャメとか、無知の深淵という意識構造を組み立てることは出来ませんでした。無知になろうとする大それた考えが彼等の中から湧いてこなかったのですが、詩と神話は真理の近くにあるという事は知ってはいました。
ロシアのトルストイとドストエフスキーは、無知という宝のあることに気づきましたが、それ以上、アホになる方法がみつかりませんでした。老子は「聖なるもの、賢なるものにあこがれてはならない。自然の奥なる無知の深淵に帰れ」と言いました。このように無知の偉大さを知っていた人達もいたのです。

| エッセイ | 11:34 | TOP↑

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エジプトの神話の船

では非合理性、神話性、これを身に付けてエジプトの謎の中へ飛び込んでいきましょう。知性を捨てて、無知の船にのる無知の旅人になりましょう。エジプトの太陽神ラーは天の河を船にのって運航するという神話の中に見出されます。ラーは宇宙の秩序を司り、マァートはその娘であり、ラーから直接放射されたものでありました。そしてそのマァート女神は天上の河を渡る太陽の乗る船を守る役目でした。
エジプト人は二つの河を理解していました。昼と夜の河です。そこを太陽が進むのです。日出ずる国と日沈む国、即ち生の国と死者の国の物語です。彼等は永遠の生命は、神話という非合理の中から得れると考えていました。神話は彼らの生命の母であり、生命の科学の母でありました。そして太陽神ラーはまた生命の世界の審判者であり、月の神オシリスと共に、死者の裁判を審査するものでした。
マァート女神は船の先頭に立ち、天の河を渡る船を見守りながら船を進めます。船の行く手に現われる悪魔をやっつけていきます。太陽はその船に乗り、昼の河の天の河を渡り、地の河に隠れていきます。その太古につくられた神話の船が現に見つかっています。それは当時につくられた船で、それが発掘されたのです。もう一つ西にあるはずの船も、科学の力によって、そのある位置が見つかっています。

| エッセイ | 10:52 | TOP↑

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エジプト文明の翼の法

エジプトの文明には、このように分らぬ雄大なものが、ここかしこにあります。鷹の姿であったり、猫であったり、蛇であったり、羽毛であったり、猿であったり、羊の頭を持つ男性であったり、強力な夢と空想力が自由自在に人間の中に組み入れられています。これがエジプト研究者たちを迷路の中に迷い込ませるものです。中でも注目すべきは、羽毛であり、翼の羽ばたきであります。その翼の羽ばたきによって生命を甦らせるという、そういう神秘な物語が含まれています。しかしこの謎の解明に関しては最後で説明することにして、ここでは太陽神ラーやその娘マートについて話をおしすすめ、死の審判とかカバ信仰の偉大な謎について述べていきます。
そこでエジプトを知るうえで、基本的な心構えを身につけておかねばなりません。それは前にも述べたようにエジプト人にとっては王朝がどうであったとか、栄える、亡びるといった政治的な変遷を重要視するような歴史観などもっていなかったという認識、そんな興亡は永遠の流れの中の一瞬の出来事であり、気にも留めていなかった。彼等にとって重要な事は、つねに空想力を翼とする永遠の生命の生成という事でした。
それに比べて現代人は、栄えることすら夢を見ることも出来ない社会情勢の中に住んでいます。なぜそんな希望のない社会をつくってしまったのでしょうか。それは太古を忘れ、知的に眼の前の欲ばかりに走ったからではないでしょうか。夢をもっても、間違った夢をもったからではないでしょうか。無知をバカ者と見下げ、知性の世界にばかり走ったからではないでしょうか。感覚を見下ろし、知性を見上げたからではないでしょうか。頭は悪くても、体全体で感じとるとか、肌で感じとるといった神経が低下したからでしょう。

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ネティール讃歌

ネティール讃歌
(1) 少年netri 永遠の継承者
    自らを生みだし 自ら生を与えるものよ!
(2) 我が心に偽ることなく おお 汝神以上のnetriを崇拝する
    我はNeterとなれり
(5) 我は鷹の姿netriにおいて飛翔するなり
(6) 我はピュアーとなり ネティール(Neter)となり
    精霊となり 我は雄々しく魂そのものとなれり

この詩節から想像できることは、ナイルをエジプト人は宇宙の母として、そこに感じ、更にそれを感じている子たる人間自らを、その化身ネティールと見ているかのようです。そこにインド人のとらえたブラフマンとアートマンの関係を見ることが出来ます。インドではブラフマンを大我と見て、人間を少我と見ています。
これは人間という小宇宙の中に大宇宙の本性を宿しているという考えです。エジプト人の考えた少年netriはインドで言うところのアートマンである……と見てとれます。
永遠の継承者アートマン(小我)は、NETER(人間)となったということ。そしてその人間(NETER)の中に宿るアートマン(大我の精霊)は、鷹の姿となって宇宙中を駆け回る。おお雄々しい魂netri(アートマン)よ、という詩だと思います。
この底深い神秘の深淵をのぞき見せられる時、宇宙と人間の関係の妙なるドラマを見事に音楽化した、この詩の力を見せつけられます。太古の人々は、このような限界をもたないイマジネーションの持主でした。現代人の心はせいぜい、この太陽系をぬけ出す夢ぐらいしか持っていません。
遠くにある星雲群を望遠鏡で覗き見るでしょう。しかしその大宇宙を我が飛翔の庭とするその大胆な空想力は鷹の姿netri(アートマン)となり、精霊となって宇宙の外まで飛翔することが出来るでしょうか。その光速の翼は、線と角度の生命元素の中心を貫いて飛ぶでしょう。エジプト人は神学的詩人でした。そしてそれと同時に芸術作品そのものでした。角度の中を光速以上のスピードで飛んだのかも知れません。幾何の線上を横切って。

| エッセイ | 22:38 | TOP↑

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