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2019年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年11月

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神話的なケニヤの王様

私はこれを書きながらある一つのことが思い浮かんできました。それは1970年に大阪で万国博覧会が催されました。その時いろいろなショーがありましたが、それを眺めている多くの印象の中に、ケニヤから来たケニヤの王とその従者の一組が特に眼に入りました。そのケニヤの若い王は堂々とした大きな男でした。顔は黒人でしたが、我々日本人より立派な顔をしていました。
とにかく堂々としているのです。歩くのも堂々とゆっくり歩を運ぶ その大きな余裕のある心(意識)には、もうすごく心を惹かれました。王子でしょうか、これがゆるやかに歩くのに従者が傘を持って、その頭上に移し、太陽が顔にあたらないように、まことに忠実な従者として、その忠実さと王子の堂々とした高貴で優雅な大きさに私はうっとりと見とれるばかりでした。
私はこんな大きなゆとりと、忠実さと、それを従者としてもっているまとまり切った一対の組み合わせは、かつて見たことが無かったからです。権威も感じられないし、ともに一対になっている主従の関係の素晴らしさ――これをまるで神話だな………と見ていたのです。
神話はこのように形に現われる、言語以前のものです。とにかく堂々となること、なんの権威もそこに見られない堂々とした相、しかも優雅と高貴なものがその相に現われてあることです。
小者と大者と言う言葉がありますね。私は以前から、大人(たいじん)に憧れた事があります。中国では、大人、大人とよく言いますが、昔は日本でも中国の影響をうけて大人と言う言葉がよく使われました。小者と大者、大人……に成りたいものですね。象みたいな人間ですね。
何ものにも恐れず、怯えず、うろたえず、策をもちいず、他人のものを奪わず、欲しがらず、嫉妬せず、妬まず、恨まず、地震が起きても大声を上げず、死ぬ時は笑って バイバイ、又会おうねと言える人になりましょう。ではバイバイまたね。
今度はもっとおいしい物を食べて良い事をしようね……そして堂々と優雅で高貴な生活を仲良くやっていこうね。ではがんばって下さい。ハッハッハッハ………

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| エッセイ | 17:27 | TOP↑

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盲人、象をなでる 続き

ニーチェが宇宙の本質を分かりやすく「無意味」という言語でもってあらわした事はすごいことです。仏教の無でも、空でも、ヒンドゥーの否、否でも十分ではありません。宇宙の根源なるものの本性、本質は、無とか空、あるいは言う事が出来ないもの、それでもない、これでもない、お前たちの考えているそんなものではないのだ……で通してきましたが、それをニーチェは「無意味」……意味づけられるものではない、理論に合理的に納得のゆく意味あるものではない――という的確な「無意味」という言語を見つけ得たのです。
そこでその無意味そのものをしかと捉えること、認識することがそのものの中に入り、そのものに成る事になります。即ち象そのものになったことであり、象の形相には何ら気遣う必要が無くなりました。
宇宙の真実相にさえ入り込めば、詩とか神話とかオチャメとか、そんなものは後でついてくるものなのです。そこでそういう形相にとらわれず、無意味そのものに成ると体がピンと伸び、胸がはれて堂々と歩けるようになります。その堂々たる姿の中に、その姿そのもの、そこに神話があり詩があり、透明な角度があり、白紙の舞があり、躍動があります。そのくっついて来るものになろうとするのでなく、無意味に入りさえすれば、その形相内容まで整ってくるのです。
だから形や現象にとらわれずに無意味というそのものに定着すべきです。するとその形が現われてくるのです。またその形が、現われて来なくても平気なんです。そんなことに心がとらわれていると、無意味そのものに直接的に入ってゆけません。いわゆる成ること、即ち象という個々の形や全体像はほっておいて象というもの、象という内容そのものになることです。
マンゴーの木の葉の数やマンゴーの味よりも、マンゴーそのものに成る事です。即ち無意味になることです。マンゴーの葉の数も味もマンゴーにひっついているものです。本質とひっついているものとはちがいます。

| エッセイ | 17:25 | TOP↑

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大人(たいじん)とは

大人と超人とは違います。超人とは何かから超越した人のことをいいます。
ところが、その超越する相手があって、それを超える事ですが、大人(たいじん)は何かを超越するといったような相手どるものがないのです。
例えば合理から超越するといった事もありません。大人は合理も非合理も、何ものをも相手どりません。それらはどちらにしても形相(現われた何かであり、現われた真実か、真実らしきもの)です。大人はそんな合理をも相手どりません。そこが超人と大人のちがいです。
例えば「無意味」というのは大人のようなものです。意味には何も関係がないのです。「無意味」なものは、神話とか詩とかいうものすら相手どりません。そんなものから入って、その本質をきわめようとする事は、これも本末転倒であります。無意味は神話を更に越えた根源のものです。
すでにこれで、根源にまで迫り、それを明らかにしたのです。この無意味なる根源から神話や詩が形づくられ、そして諸原理となり、諸現象となったのですから、下からゆくのでなく、一番元に入り元となったら、下が出来て来るのです。この段階に入りました。
だから形相のまともなものは、その実現の後に実現されて来るわけです。神話も始めは分かろうとして、それに迫りましたが、それでは十分に実現も理解も出来ませんでした。根源に入ると、形なる神話などが出来て来るのです。
無意味という根源に入った者は、神話に自然になるのです。高貴も優雅も自然に、その堂々たる相の中から現われて来るのです。動物に例えれば、大人の趣をもつ象になれば、必要なもの、鼻、耳、大きい胴体、そして堂々たるものが現われてくる。しかし象はそれらにも関心をもたないのです。

| エッセイ | 20:52 | TOP↑

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盲人、象をなでる

ここで一つ象をたとえにして考えてみましょう。
インドには「盲人、象をなでる」という寓話があります。
盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する、という話です。
長い鼻があり、太い脚があり、大きな耳と大きな体、尾っぽがあります。この全体が象です。しかしこれは象の全体像(形相)であって象そのものではありません
そこで宇宙という一つの大きな象がいたとしましょう。
宇宙には多くの星雲がこのようにあって、宇宙はこのように動いている、そういうことは宇宙の外観であって、更にそれを形而上学的にとらえていっても、内面的な形相をとらえただけで、それは宇宙そのものを言い表わしているものではありません。これはまさに「盲人、象をなでる」そのものです。
ましてや、宇宙というものは何故あるのかとか、どのような目的をもって存在しているのかと言う事については、言葉では言い表せないものであります。
ところが一番言い表せないもの、一番はっきりしないものを、ニーチェは一番はっきりした言語「無意味」という言語で表現したのでありました。象という本質……これが「無意味」というものです。
これは宇宙の形を、例えば象の耳、鼻や大きい体といった形あるものの説明ではありません。あくまで形としての宇宙は、宇宙そのものを言い表すことが出来ないのです。形と本質的なものとはちがうのです。
「無意味」は本質であって、そうなると真相なる「無意味」そのものになる。
そして、その無意味の相から透明な角度や斜めやオチャメも出て来るのです。

| エッセイ | 09:44 | TOP↑

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