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2019年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年01月

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自己は自己を呼吸して生きている

私はある時『酸素は酸素を呼吸して生きている』という天からの声を聞いたことがあります。これは一体どういう事なのか考えたのです。
「人間は人間を呼吸して生きている」とか「自己は自己を呼吸して生きている」と言い変えて言えるのではないかと思いました。

やはりそれが正解でした。人間は自己を忘れているのです。人間は自己の何たるかを知るという事は、自分自身を吸い込んだことになります。

そこでデカルトは「我ありと思うが故に我あり」と言いました。これは自己が自己を呼吸して生成したことです。

人間は空気を呼吸して生きていることは誰も知っています。けれど自らを呼吸せねばならぬことを知っている人は、ほとんどいません。水素も水素を呼吸して生きているし、水は水を呼吸して生きているのです。トマトはトマト自らを呼吸して生きているのです。

どんな物質も分子、原子、原子核にいたるまで、それぞれのレベルで絶え間なく踊り振動しています。これも一つの呼吸です。呼吸即ち神話の劇であります。
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| エッセイ | 22:45 | TOP↑

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相対構図と統一構図

snap_mythpoem_20185416015.jpg
相対構図の世界
ここには様々な思考 思想が飛び出す
そして合理主義がその主流を占める
そこからは 争いが起きるのみとなる

snap_mythpoem_20185416454.jpg
統一構図の頂点には 白紙が舞い降りる舞の構図
構造がある

宇宙の元は思想や言語や精神ではない
ただ幾何学的な構図があるだけである
しかもその構図はやわらかく 
オチャメが内在している

……故に人々は オチャメなくしては死人に等しい
躍動はオチャメを 
オチャメは躍動を引き起こす

おお詩の翼ある者たちよ!!

1998.06.17.

| 1998年 | 23:40 | TOP↑

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宇宙創造の折り返し法則の数式

宇宙意志を含んだDNAの複製に
欠かす事の出来ない数式がある

1-1=0  0=1-1
この「折り返し法則」が宇宙創造の数式である

これは 根源(ブラフマン)は
「酸素は酸素を呼吸している」という啓示に従って
これは一元者の呼吸であり 一元であるブラフマン
即ち他者のない存在なのである

その存在者であっても存在する限りにおいて
右があれば左があり 表があれば裏があるように
完全絶対(零)という性格はあり得ない

そこに一元者の遊戯性を見逃すわけにはいかない
それが根源者のもつ遊戯性である
それがこの「折り返し運動の法則」の数式によって示される

これが零の解明でもあるのだ 
根源はそういう数式を持つが故に
これが宇宙の多様性を創る元なる種となっている
DNAの複製も この法則に従えば可能なのだ

2007.01.30.

| 2007年 | 22:14 | TOP↑

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科学と芸術と神話の統一

研究の結果、だんだん明瞭にまとめあげられてきた。
――この世、即ち物質として動いている歴史的この世界と、そこに存在する合理主義を消せば、他のものが自分にやってくる。その消し方には二つのやりかたがある。

一つは老人が死に近づき、時間切れになった時、この世が無価値な存在となる、と同時に合理的な知識も無価値となる。一方、若い人であっても、死を目の前にすると世界が無価値になるが、これはニヒルとなる。気が狂う事にもなる。ニーチェのように。

いずれも時間を考えると、死が読みとれてくる。そしてこの世は無価値となる。ところが老人は往々にして信仰を持っており、阿弥陀仏を未来にもっているために、この世の合理から抜けると同時に、未来が明るいから、まだ助かっている。そして言葉は、合理的から離れて、やや神話的な事が言えるようになるが、それは決して、神話の世界に居るのではない。

本当の神話は、幾何学の構図を持っている。宇宙と人間の奥なる実在者は、心でも、精神でもない。幾何学的な構図である。これを今までの哲学者は発見することが出来なかった。その為に神話学は中途半端で今日まで来た。

ところが最近になって、科学者はその幾何学的構図がこの宇宙の奥にあることをやっと認め始めようとしてきた。しかし、それは科学者の宇宙発見であって、人間発見ではないし、それは宇宙を知っただけで、自己改造の道とひっついていない。宇宙の研究はそれだけが目的ではなく、それが人間にどれだけ役立つか。
………即ち人間改革がそれによってなされねばならない………というもう一つの目的があるはずである。

その為にこの構図、即ち白紙が空中から舞降りて来るような、ヒラヒラして降りて来る構図、それを頭に描くことである。すると頭にその元なる構図が染みこんでくる。忘れ切っていた宇宙と自分の元なる構図が自己の頭の中に甦って来る。

ここから人間が改良されるのである。その構図のヒラヒラには、リズムがある。音楽的であり、音楽そのものである。そしてそれは舞そのものである。

………それを感じ取ったとき、その閃きの瞬間、人は手が上がり、動き、舞が起きて来る。そして歌えて来る。その歌は、その舞の閃きのリズムのある歌である。それが我々の歌う歌である。それを歌い、白紙の舞の角度を想像すること。そして手を動かして舞う事。舞い歌うことである。

これは宇宙の舞であり、宇宙と一つになることである。それから、神話的な行動、行為、言葉がとび出してくる。それはオチャメそのものである。

以上二つのことを述べた。一つは死すべき自己を思い、この合理主義の世界を消すこと。そしてもう一つは歌い舞うことである。しかし始めの消し方は、間違った方法である。そこには死への諦めはあっても、躍動と閃き、舞と踊りがないのである。

自己が躍動して来ると善悪がどうの、能率がどうの………という合理が消えて、合理と芸術とが入れ代わる。さらに幾何学をとらえると、すべてが神話であると分って来るのである。そこで初めて自己の中に、宇宙とその奥にある芸術が分って来る。これによって、科学と芸術と神話の統一が来るのだ。

| エッセイ | 23:38 | TOP↑

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至福を贈る点と線 ②

――それから私は毎日のように、1.2.3.を数えて右足を出し、1.2.3.と数えて左足を出し、直線上をゆっくり、ひょろけながらも歩く訓練をしました。そうすると見つけたものがありました。ひょろけながらするのですから、子供が歩き始めた時の、しりもちを付きながら一生懸命に大人のするような「歩く」という事を、自分も出来るようになろうとして、やっている時のことを思い出しました。これがよかったのです。この事から、ある大事な秘密の世界を発見する事が出来たのです。

子供は一歩々々前方を眺めながら、或いは自分の足のはこびに瞬間々々の命をかけて歩いて行くのでした。そこで子供は生れて始めて瞬間というものとの出合いをしました。そしてもう一つ、直線というものとの出合いをしました。そしてもう一つ大切な事があります。それは未来時間という世界との出合いだったのです。

ところが言葉を知らない子供は、大人に歩ける事だけを見せる事ができました。大人は子供の見つけた最も大切なものを受けとる事が出来なかったのです。こういう堕落しきった自己発見の体験でした。
即ち、大人もかつて子供の時、歩く訓練をしたはずなのに、大人になって様々な悪の知識におかされて、その日ぐらしの時間(目先きの欲時間人生)の生活の中で意味のない歩み方をしている自己と、透明なる時間展望の中で生きねばならぬ自己との違い――それをその女性の歩き方の中から教えられたのです。

そういう尊い体験を得ました。すると又、次々と至福の一杯につまっている袋の中へ入って行ける資格が出来て来ました。点と線の中に隠された宇宙、そんな中に今こうして生を受けている、その尊い生を本当の生きた者として生きて行きたいものです。そういう資格ある者は何千年に一度しか出現して来ません。
その者にめぐり会ったのです。教えてあげますからついて来なさい。

| エッセイ | 22:15 | TOP↑

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至福を贈る点と線 ①

点と線の問題について、興味深い内容の話をしていきましょう。これは私にとっても大変大切な話であり、いつも新鮮な命の力を与えてくれる内容のものです。例えば雪の上に座らされ、真なる白紙に対面させられている時のような、忘れてはならない、生きるか死ぬかの瞬間との対面なのです。この話は。

――或る日、銀行の前に車を停めました。私の車より少し早く車を停めた人がいました。中から女性が現われて来ました。彼女が歩き始めました。それが、特別な歩の運び方をして進んでいくのを、天が私に見せてくれたものなのでした。ゆっくりと1.2.3.と数えて左足を前に出し、次に1.2.3.と数えて右足を前に出す………というような歩き方なのです。

まるで、モデルさんが舞台の上で、ゆっくり歩く時のような、いやそれよりゆっくり、しかも直線上を、歩を進めて銀行の中に入って行きました。彼女は銀行の奥の店長のような人の客となって話し合っていました。私は初めから、この人はモデルさんではないと直感していました。品も整っていたからです。

その人の歩の進め方を見た私は、まるで今日まで経験したことのない世界にさそい込まれて行くのを感じました。………一体我々は何なのか、我々の住んでいる世界は一体何なのか、まるで私欲の世界の中を歩き回っているではないかと思いました。我々の歩の進め方は、今の瞬間右足を、そして左足を出し前進しているのは、ある目的の為にスタスタと、或いは小走りに、この肉体を運んでいっているではないか、という事実でしかない。

歩くとは一体何の為に歩くのか、欲を満たすための目的物を手に入れる為、それのみの歩みと、それのみの人生という直線とからみあって、こんがらがったバカのする事を、それにも気付かず歩いている――その事に気が付いたのです。

| エッセイ | 20:04 | TOP↑

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詩神が現われた ③

人類が築いて来た頭文明はひとえに、この「価値」あるものを求めてのあがきであった。 道を求めるのも、悟りを得ようとするのも、全て自分にとって何らかの価値あるもの、自分に統一を与えるもの、安心を与えるもの、真理等々自分にとっての価値を探し求めて来たものであった。即ち価値というものに憑りつかれ、操られ、努力とさ迷いを続けて来たに過ぎないのである――と分ったのである。

最前いったように、あれこれと思考するのも、その価値あるものを探しての思考であったのである。だから思考すること自体が間違ったさ迷いであったのだ――と分ったのである。すると思考する事が止まってきた。

思考は全て欲から出たものであった。自分を何とか立派なものにしよう――とか、まともなものにしようとかいう欲であった。無価値こそ真理であり、無価値こそ自己の本性であり……価値を求め歩いてはいけないという事であった。それが分った事は悪夢が破れた一瞬、瞬間であった。

安らぎが自己の内から湧いて来た。ここ約70年間考えに考え続けて来た事は、無駄な事をしてきた事であったと分った。しかし分ったから良かった。それに気付いていなかったら、生きている間じゅう、思考し続けていた事だろう。これで頭文明のクモの巣から逃れる事が出来たのである。思考文明から――

| エッセイ | 20:37 | TOP↑

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詩神が現われた ②

……そんな事を自分の課題として毎日訓練を続けていたが、やはり間違っている思考だといわれる、その思考を止めることが出来なかった。人間は考える動物だから、思いが次々に湧いてくる生き物だから。………といっても、自分の思考はすべて間違った事を思考していると、詩神が言うのだから、何とかして詩神の御心にそいたいと思っていた。

………そうして少しは思考する力が弱められた自分に気付き始めた頃、ちょうど新年がやって来た。年賀状があちこちから入って来た。その一枚に能美さんのものがあった。それには能美さんが、東京の集会でアーサーから150年生きる太陽瞑想を教えてもらい、それを続けていた或る日、瞑想中の手の平に一枚の葉(落葉)が舞い降りて来ていた。それを能美さんが、その年賀状に絵を描いてくれていた。その絵はすごく上手で、光っていた。どんな画家も及ばない程の落葉が描かれていた。

私はそれを見た途端、一つの大切な閃きを得た。それはその落葉は宇宙が手の平の中に舞い下りて来てくれたものであると直感した。能美さんはそれを掴んだのである。即ち「無価値」という宇宙の宝を掴んだのだ―――と私は思った。それから私の頭はグルグル動き、今日までの人類の謎が解けはじめた。

その謎を解く鍵は「価値」という一文字であった。人類のこれまでの文明はこの価値という悪魔的な一文字によって支配されている事が分った。

| エッセイ | 22:53 | TOP↑

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詩神が現われた ①

今から数ケ月か、或いはもう少し以前か『詩神』が私の元に姿を現わして下さった。それは初めての事であった。詩に神という実在する神格をもったものがいるとは、思ってもみなかった。その『詩神』が私の元に現われてくれたのである。

そして、それは霧の姿をもって現われ、……私の考えている事、思っている事を次々に消してくれた。(それは間違いである)(それは間違いである!)と、私の思考をすべて次々に消してくれたのである。

……という事は、私は何も考えてはいかんという事でもあった。お前の思う事、考える事は、どれもこれも皆間違っている――思考を止めろ‼という厳しい警告で、それはあった。

さて、私にそれができようか?………何も考えてはいけないのである。思いと考えを止めるという事……そんな事は出来るのであろうか?と思った。そしてそれを試みたが、やはりいつものように思考が次々に起きて来るのであった………人間というものは一刻たりとも思考の止まった時がない程、いつも何かを考えている。

――ではこれを、こんな人間をどうして変えられるのであろうか?どうしたら思考が止められるのか?自分の思考が皆間違っているという事になると、やはり考えてはならないのである――。

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