FC2ブログ

2019年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年02月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

映画に見た神話的な青年

最近テレビで「アフターショック」という映画を見たのですが、ニューヨークが大地震に見舞われる内容の映画です。
むろんビルが壊れ、人々はその下敷きになり、大混乱に陥ります。これが平屋ならこれほどの打撃は受けなかった事でしょう。近代は経済の繁栄を誇りとするためか、やたらと高層ビルを建てたがります。

高く上がったものは、いつかは地に落ちる。大きくなったものは、いつか潰れる。栄えたものは、いつか滅んでしまう。だから栄えようとしないことです。

幸いなことに今、日本では貧乏でも、心が豊かな生活をしよう、儲けるのでなく役立つための企業を興そう、もう儲けるという言葉にはひっかからないぞ、といった立派な考えの人々が増えているようです。

「アフターショック」の映画について言いたい事は、あれよあれよと必死になって逃げる人々、建物の下敷きになっている人を助ける人々……それらの人々が神経をとがらせて、うろたえております。
ところがその中に一人だけ、神話的な人物がその映画の中に登場します。それは、他の国からニューヨークに3ケ前に入って来てタクシードライバーの職を見つけた青年です。

彼は大学では数学を専攻しており、立派な学歴を持っている青年ですが、他のニューヨークの人のような意識の荒い波動でなく、きびしさを全然持たない人でした。
この人の中に神話的な波動を見ることが出来ました。おっとりしていて善良で悪気の少しもなく、この厳しいニューヨークの経済社会の中で探しても見当たらないような、すれていない青年です。

この一人の青年が画面に現われて来るたびに、救われる思いがします。
人を安らかにする人、こんな人が自分の目前にいてくれたら、それは夢のような出来事であり、神話的なやわらかさ、やさしさを味わえて幸せになれるだろう……と思えるこんな青年を、このニューヨーク大地震の大混乱の中に登場させたことは、この映画の素晴らしいところですね。

神話が大切だと私がいつも話していますが、それを聞いた人から(ではその神話的な人とは、どんな人のことを言っているのか、何を見本にすれば良く分るのか)といった質問が来そうですが、ぜひこの映画を見て下さい。そこに見本となる人が現れて来ます。

しかしこの青年は神話的でありますが、皆さんの近くでもそれに似た人がいるかもしれません。人の心を和らげてくれる人、荒々しい言葉づかいをしない人、大きな声を出さない人、自己を売り込むための大宣伝や大声で熱弁をふるって人の気を引くようなことをしない人。

それにもうひとつ大切な要素があります。それは欲がないという事です。自分の利益の為のみに動くようなことをしません。持っている物でも、お金でも他の人々に与えます。

経済のあるこの社会において経済をなくすことは出来ません。しかし経済の中で、神を実現することは出来ます。神というより、人間としてあるべき姿を実現することが出来るのです。
スポンサーサイト



| エッセイ | 16:36 | TOP↑

≫ EDIT

行為の中に詩を見つけよ

私は1975年にアメリカに来たのですが、その時日本人になかった良いものをアメリカで見ることができました。

それは美しいという言語についてでした。日本では人が行なった良い行為に対して、「立派ですね、良いことをしましたね」と言って讃える……
そのことに関してアメリカ人は「ビューティフル」と言ってその行為を讃えるのでした。

日本人は美しい絵とか美しいものとかに対しては、むろん美しいと言いますが、行為に対して美しいとあまり言いません。それに良いとか立派という言語を使います。

ところがアメリカ人は行為に対しても美しいという言語を使ったということは、その行為の中に詩を感じている証拠です。アメリカの中にはいろんな問題がたくさんありますが、しかし民主主義を立派に成功させるのだという建国の精神が、今だにアメリカの未来に方向性を与えています。

またトーマスジェファーソンの――すべての人間は善なるものである――という精神から大きい影響を受けたホイットマン。それにホイットマンばかりではありません。アメリカ民主主義を唱え、夢見た多くの先輩たちの後に、ホイットマンが現われているのです。

民主主義は美しいものであります。しかし資本主義はそうではありません。一部の人によって国が動かされ、国民はいつまでも苦しんでおります。早く美しい黄金時代をつくり上げねばなりません。

それには一人一人の自覚が必要であります。詩人であるという自覚です。美は詩であり、詩は美であり、波動である。即ち透明で結果を求めない行為の中にそれを多く見つけることが出来ます。

良いことをして高々にそれを自己宣伝に使ったり、革命をして権力の座に登ったりしたのでは美しいとは言えない。美しい行為は無私の行為である。権力を求めてという目的のある行為は人間の醜い合理中心から出ています。

何の利己的な目的も結果も考えない行為………そこに禅でいう禅味であり、ニーチェのいう無意味そのものです。
そこに詩があり神話があるのです。

| エッセイ | 11:13 | TOP↑

≫ EDIT

物質宇宙の解体

立方を消せば
物体は 解体するかも
知れない

1985.07.18.

| 1985年 | 10:51 | TOP↑

≫ EDIT

神話は革命である

私は11月も末になった今朝、今年始めての霜を見ることが出来たのです。霜……これも詩である。霜が下りること、これも詩である。モミジの葉がそれによって更に紅を深める……これも誠に詩である。神話がそこにいっぱい広がっていた。

なんと私は幸せなのか。これが感じられる喜びを人々に分かち合いたいと思いました。

神話は静かな革命である……とある神話学者が言いました。その通りだと思います。革命にはさまざまな革命があります。銃を持って敵を倒そうとする革命、それで成功をおさめ英雄になった人々もいる。また無抵抗による革命もあるでしょう。

しかし神話の革命は静かなものです。人の心を魂の底から揺り動かすものです。何物にも抵抗することなく、霊の波動でもって人々を変えてゆくのです。

政治的にいくら革命を起こして、政治のあり方を変えても、敵を倒しても人の心が変わるものではありません。外側を変えることも必要です。

しかし内身を変えないと、どれほど政治革命をしても世の人に本当の幸せを与えることは出来ないし、秩序ある輝ける社会を造ることも出来ません。とにかく人を殺してなされる革命は美しいとは思えません。

| エッセイ | 23:51 | TOP↑

≫ EDIT

野蛮と文化 ②

自己を讃えること。これがエマーソンのいう自己自尊である。それがホイットマンのいう大地礼拝であり、神のサインをいたるところに見る事でもあります。森の民はその神の中に住まっていた。 これを野蛮な民族といえるでしょうか。

知識人のような顔をして、高層ビルを建てる為に森を焼き払っている人々は、自分自身を胎内で焼いているのと同じである。灰だけが残った。それが都会である。一つであり循環しているその宇宙のコズミックダンスを感じないで、経済苦にあえいでいる人々、それを文化人といえるのであろうか。

子供が女性の胎内に宿る、そして体内で大きく生長してゆく。そこに詩を感じない人々。太陽が東天を紅に染める……そこに詩を感じない人々。トマトが赤く色付き、山がそこにどっかり坐っている。その姿に詩を感じない人々。金と権力と成功のみに明け暮れている人々、それを文化人といえるのであろうか。

踊ること、オチャメな顔……それは自己の本来の姿であり、存在そのものである。初めも終りもなく、無目的、無結果、無意味なる大地と共に生きる人々。神そのものを、自分自身を野蛮といえるのであろうか。

交わり、あいさつ……自己への「あいさつ」……神がそこにあるのを感じないだろうか。我々は求道者でなく、踊り手であり交わり、連鎖する訪問者なのです。

| エッセイ | 10:31 | TOP↑

≫ EDIT

野蛮と文化 ①

アフリカの赤道直下の人々を見てみよう。そこには森の中で暮す野蛮人のような人々であり、彼等は網を張って獲物を追い込み、獲物が少なくなると森を移動する。
彼等はほとんどの時間踊っている。森を讃える踊りでもある。彼等の中には神話の物語があって、その森から野に出ていった人々がいたとある。

実際にその野に出ていった人々がいて、彼等は牛を飼い、その牛が命となっている。
若者たちは牛を追って野にゆくが、その牛を盗みに来る者たちがいて、それ等と闘わねばならない。そして、その青年達の手には機関銃が持たれている。森でいた時の平和も踊りもない生活である。

その他に、険しい岩ばかりの人の近かづけないような山に住んでいる者たちもいる。それは他の宗教への改宗を怖れて、人の近づかない所まで逃げ込んだのだという。
また農耕を主とし、雨の神や天の神に降る事を祈る儀式を持っている民もいる。

それから風景は一変して都会では、高層ビルが建ち並ぶ街の中で、森の民とは全然違う文化人のような顔と服装をした人々がいる。そこには牛を盗りに来る盗人との闘いは無いが、経済という闘いがある。どこに住んでも安心のない人間存在をそこに見ることが出来る。

しかし野蛮が良いというのではないが、森を讃え、森と共に生きている者たちの心の中にあるリズム――それが宇宙に繋がるものを感じる。
資本主義であろうと共産主義社会であろうと、いくら貧乏な生活であろうと、躍動を忘れてはならない。その躍動は利益による躍動でなしに、詩を直感して生きる躍動体でなければならない。損得を考える頭脳の奴隷であってはいけない。

文化人は森を切り倒し、住宅を建てる。森の伐採事業の90%は住宅の為だと聞く。日本に屋久島という島がある。それは日本でも南部の亜熱帯地域に属する位置にある。雨量が多く、人口1万2千人ぐらいの島である。
そこには寿命7千年もの杉の大木が沢山あった。しかしそれは切り出され、今ではわずかだけしか残っていない。

その屋久島は昔からトビ魚のたくさん集まる所で有名であった。
その産卵に来るトビ魚も、今ではその数も減ってしまった。それが研究の結果、そのトビ魚の産卵に適する海藻がなくなったからだと分かった。そして更にその海藻のなくなった理由を突き止めることが出来た。

それには森の木の伐採そのものが原因であった。というのは、森の木の葉が落ちる、樹が倒れる。腐葉物が出来る。それが海に流れ込み、海の藻たちの栄養源になっていたことが分かった。

人は7千年も生きてきた森の杉の樹を切り倒して金に換えた。しまいにトビ魚の産卵場だった藻までが姿を消し,トビ魚が来なくなってしまった。その連鎖をここに見事に見ることが出来たのである。

そこで屋久島の漁民たちは、山に樹を植える作業に取り掛かった。漁民たちが山に登って樹を植えるという話は、今日までどこの国にも聞いたことがない。

私はこのことをTVで知って、なるほど森と海は全然ちがったものであるが、こんな深い関係があったのかとその連鎖に驚いた。森を大切にしなければならない。海も生命の源であるけれど、森も生命の源だと改めて思ったのである。

森の民は、森を讃えて踊る――けれどもこれは、森と自分自身をも讃えての踊りなのだ。森を讃える事は自己を讃えている事と同じなのだ。これが一つになった大地そのものなのである。海も森も人間も、空気、時間も森そのものなのだ。

| エッセイ | 21:33 | TOP↑

| PAGE-SELECT |