fc2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

しかし今分った

「有」「存在」そのもの
「有」そのもの
そして停止すること
それを瞑想した
詩そのものになろうとした
そして一瞬は それになれるのであった

だが長続きしなかった
幾度か 幾日かそれを繰り返した
しかし それらしい長続きのする実現は 
現れて来なかった

しかしそれが 今分った
その詩そのものになることが

「有」とか「存在」そのものとか
「停止」という言語は
古い昔流のものである事が分ったのだ
ふと ふいに

それらは 詩そのものの内容でなしに
詩そのものの位置を 
外見的にとらえている言語に過ぎない事が分ったのである

それでは それ等を通して詩そのものに
なれるはずはなかったのである

成る為には その内味そのものにならねばならない
内味そのものを 相手どらねばならない
それが分ったのである

その内味そのもの 本性そのものに触れないで
言語からそれを実現しようとしていた
それが間違いであった

それが分ることによって
言語から入ろうとしたのが 昔流であったという事が分った
例えば無も 空もその一例かも知れない

では詩の本性とは何か
それは分りきった事である
「透明」「透明なるもの」 これだ
その「透明なるもの」に入っていく事
そこに「詩」があるのであった
やって来た 本当の事が

やっと道が開かれて来たのだ
詩の実現の道が
自己実現の道が

この詩を通らないと 
神話も実現されて来ないのだ

1991.11.14.
スポンサーサイト



| 1991年 | 19:26 | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT