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中庸を解き明かす円とメビウス

宇宙とは何か

宇宙とは存在するものである

その存在するものとは何か

それは無か 有か

それは 無でもなければ 有でもない

ものである


そういう存在するものがある

それは 中性子のような存在である

有でもなければ無でもないもの

それが中性子である


宇宙の初めに何があったかを尋ねるのは

愚である

宇宙には初めがない

宇宙とは存在してあるものの事である

宇宙は在るから それを尋ねるのである


それは問題提起を引きおこすのだ

在る者同志が 向い合っているのである

宇宙は 向い合っているのではない

人間の心が向い合っているのである

そして宇宙とは何かと

今まで問いつめて来たのだ

そのように人間は 無駄な長い時間を費やして

来たのである


しかし対象物を調べるより

自己自身を調べた方が賢いのでは

ないか

では自分自身とは何か それは存在物である

では 宇宙も人間も含めて存在とは何かを

尋ねた方が賢い


さて存在とは何か

存在するものは 時間の上にのっかっている

存在するものは 距離の上にのっかっている

では時間とは何か 距離とは何か

それらも在るものである

となると在るものは

何を根拠としているか


それは点を根拠としている

では 点とは何か

点というものはあるのか

いや点とは 在るのに無いのである

線と同じだ


それらは無から現われたのか

いや 無から何も生れてこない

これはヘーゲルも言った通りである


シェリングは 有は無から生まれた

と説いて

ヘーゲルに批判された

しかし老子も同じように 無から有が

生れたと言っている


もしかすると 無も有もないのかも知れない

あるのはただ存在というものが在るだけ

なのかも知れない

雲の上に浮いているようなものだ

在るかと思っても 姿が変わる

これは有の内には入らない


変るものは変るものであって 有ではない

では変るその存在物は何なのか

それは雲のように浮いている何かのような

ものである


有でも無でもないもの

しかもそれが 巡環していて永遠である

その永遠なるものをメビウスで見てみよう

円で見てみよう


それらには端がない

端のあるものは

有とか無の部類に入る


しかし メビウスの図式を見てみよう

そこに一つの交差する点がある

円を見てみよう 直径と円周の交差する

所がある

交差する所もあるし 距離のある直径と

距離のないものの同居がある


これは一つの遊戯であり オチャメの遊びである

存在物はすべてこんなオチャメの

遊びを内在しているのか

それとも 遊戯そのものか

オチャメそのものか


有でもなく無でもなく オチャメ

そんなものが 存在というものかも知れない


存在は中性子を骨子として 

存在しているのであると

言えるかも知れない


すると存在は 進化するものであり

進化の骨子に中性子的な法則があり

それに従わねば進化しない

のかも知れない

そうでないと存在の意味もないの

かも知れない


そうだとすると 人は永い間

有と無を論じる事に時間を

費やし過ぎたのではないか


道徳も 宗教も 哲学も 共にその

線上を歩んで来たのではないか

何が善で 何が悪かとか

真なるものをその線上で探し廻って

いたのではないか


そこで仏陀は中庸を説いた

しかしその中庸というものはどんな

ものだったのか

有と無 善と悪の中間という意味の

ものではなかったか


もし中庸を宇宙存在の骨子としたい

ならば

それは有でもない無でもない しかも

有であって 無である

無であって有であるといったような

中性子的なものならば

まともなものとなろう


1は 1であって 2になり得る

2は 2であって 1にも0にもなり得ると

いった働きをもっているもの

円とメビウスのように 距離のあるものと

ないものとの交わり

仲良く行こうというオチャメな

遊びそのもの

それが1であり 2であり

それが数学の骨子である


科学 哲学 宗教をよりよく

高貴にするもの

それが中性子である

いわゆる点である


点が踊ると線となり

線が踊ると平面となり

立体となる


その踊りなくしては

この宇宙は出来てこなかった

のである


2004.01.10.
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