FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

ギリシャの古典文学の堕落から見えるもの

或る日、ギリシャの神に対する信仰のあり方が、私の脳裏を横切りました。
ギリシャ人の神は清く、静かであることが神の本質となっています。
人は悩み多い時でも、神の前に行って至福を願うのでなく、その清浄の静けさの
前にひざまづき、慰めと憩いを受けるのでした。
即ち清浄で静かなる神の本質の面前で、その偉大なる永遠の瞬間を受けるのです。

ギリシャ語でアイドース(aidws)という言葉があります。
これは女神の名前ですが、神に満たされた世界を意味するものでもあります。
このアイドースは、処女神アテーネの乳母であったともいわれていますが、
このアイドースは、人間の中にも存在しており、自然の中にも存在している
純性で清浄でけがれのないものを意味しています。
そして森や野や山の静かさの中にも姿を現わしているといわれています。

この古代ギリシャ宗教の神々の中の一つである『純潔』(アイドス)の精が
清らかな流れとなって草原をうるおし、草花、樹木、それら一切のものを生かし、
かつそれらのものの精霊ともなっています。

また「自由な喜ばしきもの」を現わす(カリス)という三人姉妹がいます。
この三人のカリスが互いに手を取って、舞踊する乙女の群像です。
彼女等は歌と踊りの名手であり、この聖なるカリスたちが加わらなければ、
歌の会も饗宴も催すことはできないとさえ言われたぐらいです。
絶えず歌い踊り遊戯する姉妹です。

この「喜ばしきもの」というカリス女神の精はまた、春の樹々の成長と開花
としての不思議力を現わしています。
しかもこのカリスは優雅にして魅惑的で与え恵むものです。
与え手、贈り物そのものなのです。

さらにその魅力は、ただ与え手というだけのことでなく、受けとり手としての
喜びをもつものなのです。
喜ばしきものカリスは、なぜ歌い踊るのでしょうか。
与える喜びと受ける喜びを持つ、これが全世界の姿そのものなのです。

しかしここで気になることがあります。
このアイドースとカリスの三姉妹の清く、美しく、恵み深い神々の形相の中に、
オチャメが登場していない事です。
これが今日まで文学や宗教や哲学の中に欠けていたものではないでしょうか。

日本神道の中には、太陽神があまりに荒々しい神から遠ざかるために、
岩のほら穴の中に隠れてしまいました。
その時、太陽神を元の位置に引き戻す為に、一人の女神が臍まで出して、
その岩の穴の前でオチャメな踊りをします。
すると隠れていた太陽神が姿を現わしたという神話的物語があります。
このように日本神道には何も教義はありませんが、オチャメが確かにその
本筋として示されています。
春の花の開花も、秋の落葉もオチャメの一面ではないでしょうか。
それが喜ばしきものではないでしょうか。

あまり純潔とか静とか或いは、甘い蜜のようなことを追い求めていますと、
弱々しいロマンチックな人間になり、真実な強さを失うことになります。
そして自分だけがそういう聖域をつくり洞窟の中に入ってしまいます。

しかしギリシャにオチャメがなかったわけではありません。
ギリシャには哲学が現われる以前に、世界の生成を説明する宇宙神話がありました。
それは「宇宙の始めにカスチイン(あくび)があった」という言葉がありました。
これは正しくオチャメの現われであります。

神的なものは、そのオチャメの中にあります。
またオチャメの中に、神的なものがあります。
純潔のみが神的なものではありません。
高貴はオチャメであるが故に、神的なのです。
オチャメはまた高貴なものであるが故に、神的なのです。
それが人間の内にあるのです。

人間はそれに気が付いていないだけです。
しかしそれに気が付いた者は、神的なものに親しく語り合え、その親しみ深い
清くオチャメな形相をそこに見ることが出来ます。
啓示はその一つの方法であり、一つの現われです。

神的なものは 神的なものだけにその姿を現わし語りかけることが出来るのです。
それが神の訪れであり、啓示の世界であり、神との対話の世界です。
そしてそれは、我々がより広く物を見る謙虚さがあればあるほど、
その者にとって神的な領域が拡大されてきます。
その啓示を受けられる仲間となります。

それにはまず、オチャメと純情と他を思いやる心が必要です。
それをもたないと神も自然も、人間の心の中から離れてしまい、宇宙的人間から
地上的人間になってしまいます。

花の開花はオチャメの対話です。毎日上る太陽もオチャメです。
そのように太古の人間は太陽はもちろん月、星々、植物、動物、風、火、水……
或いは時間や空間との対話が出来るオチャメ人間であったのです。

しかし人間はそれらとの関係の中に在る神的なものと触れ合う波動を
知的合理主義の思考に売り渡してしまったのです。
そして人間中心となり、人間の事ばかり考え、なぜ苦があるのだろうか?……とか、
なぜ死があるのだろうか?……などと考え、その答えを探し始めたのです。
そして天と連なる生命の線を切り放ち、人間の悲劇にのみ意識が集中して、
蜘蛛の巣にひっかかった蝶のようになってしまったのです。

ギリシャの古典文学においても同様に、神的な宇宙生成の神話から、
人間と人間の葛藤の悲喜劇が中心テーマとなっていきました。
人間中心主義が悲劇や喜劇にならざるを得なかったのは、人間の魂の大落下を
明らかに証明することの他になにものでもありません。

本当のものを失った人間の哀れな悲喜劇の動乱は、尚も続くのでしょうか?。
魂を地上に縛り付けるその蜘蛛の巣を取り除いてくれるものは、
一体何なのでしょうか?。
スポンサーサイト



| エッセイ | 21:39 | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT