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太古の人々の知恵

神話性と詩の心でないと入って行けません。ヴィーコはそれについて次のように述べています。「プラトンは、知恵とは人間を完成するものと定義している。しかし太古の人々の知恵というのは、詩的な知恵であって、今日の学者たちのような理論的・抽象的な形而上学で無かったが故に、太古を解明しようとする者は感覚的でなければならない。しかもそれが空想的、想像的な形而上学でなければならない。彼らには我々の考えるような理性などほとんど通用しない。彼らの感覚はすばらしく、その空想力は自由奔放である。」
この自由奔放な空想力、これこそ神話の領域に入る通行手形のようなものです。そしてそれは無知の深淵から清く、静かに踊り出るものなのです。詩人であったヴィーコは象形文字も解読されていない時期にもかかわらず、そのエジプトの太古人々の無知の深淵にまでもぐる事が出来た天才ともいえます。そして空想力と感覚的悟性の必要性を未来の人々の為に示してくれたのです。
ここで問題となるのは「感覚」という言語です。現代人は感覚的であるとかいって、感覚を知性より下位に見る傾向があります。(あの人は感覚的な人だ)など、知的でない人だと、人を見下げたような言葉をよく聞きます。ところが知性より感覚の方が上位なのです。現代人は、その超感覚性――超感覚的悟性を失っているのです。
一言で言うなら太古の人は、肌で宇宙を感じていたという事です。空想力はそこから出てくるのです。ヴィーコは更に述べています。彼等は事物を知的に追及するのでなく、空想力の中で生き呼吸していた。現代人はそれを無知という言語で彼等を見ようと努めるが、その太古の人々をつかまえて無知な人々と簡単に言えるだろうか。――無知と言われてもよい、無知こそ驚きの母なのだから。この宇宙で至高神を志向し、神について語ることである。」
言い変えると、太古の人々はすぐれた感覚を持って、動物や物や樹々や空気や太陽や星々と語りあい、その中で遊戯していた人々であり、現代人は知性という限られた……ともすれば凍ってしまう道具を持て、歴史の中をうろつき、おびえ、おびえさせているのです。
無知は驚きの母である……何とすばらしい言葉ではありませんか。ちょうど地上の草樹を焼き尽くそうとしている知性の火に、水をかけた思いがします。我々の文明はやたらと燃えている火の文明です。一寸先も見えないでは在りませんか。その火がますます拡がろうとしている火遊びのような歴史をくりひろげています。それで「頭を冷やせ」と。……アホ、バカと言われてもいい。ホラ吹きと言われてもいい、その人は幸せをそこにつかむでしょう。

| エッセイ | 13:25 | TOP↑

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線は真理の別名である

エジプトの神ラーは、天則に従って、天の河を船で渡っていきました。その天則の河の海路、そこに何があったのでしょう。それは知の路ではないはずです。そこにあったものは何でしょうか。船は一直線に河を渡っていきます。それは幾何の河です。一直線上を船は渡って行くのです。河は線であり、方向即ち正しい真実なる道です。線は幾何を指し、真なるもの、正しきものをさします。その幾何の上を秩序は流れているのです。船は太陽ラーを乗せて、その線上をゆきます。太陽とは生命であり、その秩序の上をいくものです。
先にのべた太陽の娘マァート女神は太陽の目ともいわれ、太陽の進む船に立って進路を見定め、行く手に現われる悪者をやっつけながら、直線なる道、即ち真理と生命と秩序の線上を船を安全に運ぶ者でした。そのマァート女神とは一体何を意味しているのでしょうか。
マートとはエジプトでは『まっすぐであるところのもの』『正義』『真実なるもの』『真理』『実在の真性』『清廉な』『公明正大で明らかなるもの』『不動なるもの』『変化することのない不変なるもの』と言う意味を持っています。以上をまとめて考えますと「直線」ということになります。線ということは真理の別名であります。この秩序の別名であります。
この太陽神なる火(生命)の運行の規定者の能力を持つ太陽の目――マァート女神は天界の貴婦人、地上の女王、そして黄泉の国の女王であるといわれ、彼女は死の審判の広間において正義の化身として、自ら天秤の皿の上に羽毛として現われます。そのマァート女神は女神群の中でも最高の女神であり、審判の広間の立て役者(貴婦人)であり、その広間はマァート女神を象徴する羽毛で飾られています。
ではそのマァート女神の羽毛によって、死者は何を秤られるのでしょうか。正義即ち生命が真に「まっすぐ」であったかどうか。その者は直線の中に生きていたかどうかをはかられます。もしその者が直線の中で生きていたなら復活が許されます。

| エッセイ | 16:58 | TOP↑

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永遠の生命を復活させるには

無知の顔、無知の人相、そんなものはどうしたら造れて来るのでしょうか……。それをエジプト文明の中からさがし出していきましょう。それには特別な幾何学の知識が必要です。ただアホのような無知ではそうはなれません。いえば知恵の知恵の大知恵が必要なのです。しかしその大知恵は無知という深い井戸から湧いてくるものなのです。
そこでそれを解かるためには、無知であるかどうかの支点を通らなければなりません。だからウソでもホラでも素直に受け入れられる純朴な人間になっているかどうかです。そこでそうなる為に自分の知識を頭からポケットに移し替えて、頭をカラッポにしてください。神話とはそんなものです。非合理の遊びと空想の世界なのです。
しかもその中が、生命を誕生させる泥海なのです。その泥とたわむれて遊べるか、遊べないかが問題となります。子供達はドロンコ遊びをしましたね。大人はそれができなくなった。子供はドロンコになって自由な天国の大空と土中の深淵の中にもぐり入っております。だから大人………とくに真面目な人間は面白くなく限界があるのです。宇宙存在にかなっていないのです。こういう人は最後の審判ではねられてしまいます。その腐った魂を食う怪物が死の審判で待ち受けています。
永遠の生命の復活を願う者は、このエジプトの神話をよく理解して死の審判を無事通過してほしいものです。 死の審判では広場に大きな秤が置かれています。その一方の皿には人間の心臓を入れた壷がのせられています。他の一つの皿には羽毛が一枚置かれています。それが釣り合えばいいのですが、心臓(ハート)の方が重ければ怪物の餌食になるでしょう。この審判は、一体何を意味しているのでしょうか。羽毛より重かったらダメなんです。
私が以前に見た五つの啓示の中にも羽毛がありましたね。それがヒントになります。羽毛は軽いです。風に吹かれると何の抵抗もなく、いずこへも飛ばされ、舞い、揺れ、踊り、幾何学的線を描いていきます。
五つの啓示の内もう一つは、天から舞い降りて来る白紙の舞です。これも幾何学的な線上を舞い降りる音楽師のような軽やかさを持っています。音楽とは幾何学であり数学なのです。また、言語なのです。夢を歌い上げる波の舞そのものです。
知的な人間はそれと反対に合理でかたまっていきます。答えが出ないと満足できないのです。自由さがなくオチャメがないのです。そんな心臓を持つ人は羽毛より重い魂となり、怪物の方に投げやられてしまいます。

| エッセイ | 16:43 | TOP↑

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ホラと神話

私は青年の頃面白い人に出会いました。その人はホラばかり吹く人でした。そのホラはとても面白いのです 本人がホラだと気付かずにホラを吹くのでよけい面白いのです。ホラそのものがホラそのものになってしまうのです。私たちはそのホラ吹き老人が姿を現すのを、いつも心待ちにしていました。そのホラ吹き老人が来ると、その場は天国になるのでした。ホラも一つの空想力から出るものでしょう。
コロンブスも一人のホラ吹き男でしたが、やがて大陸を見つけました。又ヨーロッパから中国に旅したマルコポーロは言いました。「中国に黒い川が流れている。それに火をつければ燃える」「東の果ての大きい島のジャポス国の家々は金でできている」と言いました。それで彼は大ホラ吹きといわれましたが、人々に大きな夢を与えました。
我々はエジプト文明について、いつまでも心がひかれますが、そこに人間の魂を魅惑するやさしさと音楽性・芸術性・神話性があるからなのです。神話は人間の命であり、命より大切なものなのです。知識の多いことばかりが賢いのではありません。いつも温かく、やわらかく、羽毛のようなピュアーで透明度のあるものでなければなりません。芸術作品というのは、そんなものです。
うそでもよい、ホラでもよい、そこに夢さえあれば、それは神話になります。うそもホラも非合理なものです。ホラを悪いものだと思うこと自体が知恵の塊です。世によく言うでしょう。面白味のある人間でないと人間でないと。
人々に夢と希望を与えるような言葉、態度。人相をしていないといけません。雲の上を歩いているような人………。もしそのような人がいたら、どんなに良いかしれません。人間離れした人というのは、このように雲の上を歩いているように見える人です。透き通った顔、悠々と歩く歩き方、この世に何の関心もこだわりも持っていない様な顔、いつもニコニコ、心の底から豊かなよろこびが湧いているような顔、そういう人相、姿、形が必要です。

| エッセイ | 13:28 | TOP↑

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神話的な先生の思い出

私の中学一年生頃に雑賀先生といって図画の先生がいました。その先生は他の教科を教える生徒のように緊張を与えるような先生でなく、全然タイプの違う先生でした。やさしく、やわらかく、まるで小学校の低学年を教える先生のようなタイプの人でした。
或る日のこと、私たちがその翌日に遠足に行くことになっていました。その先生が、「お前たちは明日遠足に行くんだが、その行く所の話しをしてあげよう」というのです。
「その目的地は高野山の山すそにある葛城町という所です。そこは柿の産地で特に干し柿の産地で有名な所です。そこに行くと、家の軒に渋柿の皮をむいた干し柿がいっぱい吊るしてあるのです。そしてその辺おばちゃんたちが、渋柿の皮をしきりにむいているのです。ところがその皮をむくのがものすごく速いのです。一つ上に放り上げ、それが手に落ちて来る間に、もう一つの手に持っている柿の皮をむき上げてしまうのです。柿をまるでお手玉のようにして、皮をむくのです。その速いことといったら、目にもとまらぬ速さです。」
これを中学1年生の私たちは、その先生の話に夢中になって茫然と聞き入っていました。一瞬に神話の世界に巻き込まれてしまいました。そして翌日遠足でその葛城町に行きましたが、どこに家の軒にも柿一つぶら下がって居ませんでした。〈あれ、あの雑賀先生の話はどうなったのか?〉と思っただけで、先生がうそを言ったとは、誰も思っていませんでした。
雑賀先生のホラは神話の中に我々を誘い込み、夢を見させてくれたものでした。大人になっても私は、その雑賀先生が話してくれた速く柿の皮をむくという話を忘れませんし、なつかしく、その話と先生を慕い、大切にその時のことを、心の中に宝のようにしまっています。
その先生は私が旧制中学五年生を卒業した後、間もなくどこかの中学校の校長に選ばれたようです。そしてその先生が亡くなられた時には、多くの人々が集まったようです。ところが真面目でこわい先生が亡くなった時には、生徒があまり集まらなかったという事です。生徒にとってはやはり、知力を越えて、やさしく神話的な面白い先生が慕われるようです。

| エッセイ | 22:14 | TOP↑

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